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アラクノフォビアは続く
 アイギス。
 ギリシャ神話において、主神ゼウスが女神アテナに与えた防具。鍛冶神ヘパイストスが作成したとされる。その形状は盾だとも、胸当てだとも肩当てだとも、それ以外のモノだとも言われる。
 だが、「アイギス」の形が何であれ、邪悪なものや災厄から、身を守る力がある事に変わりは無い。
 後に、ゴルゴン三姉妹の三女(説は多々あるが)、見たものを石に変える力を持つ魔物。蛇姫。つまりはメドゥーサ。アテナは、その魔物の首をアイギスに埋め込み、その守備力を磐石のものとした。その瞬間こそ、ギリシャ神話、いや全世界でもトップクラスの防御力を誇る防具の誕生である。


「それを一にやったって訳か? 随分気前が良いもんだ」
 煙草を銜えながら店長が言う。
「今の私が持っていても仕方ないのよ。それなら、しかるべき所にあれば、そっちの方がいいと思わないかしら?」
 梟が意味もなく笑みを浮かべながら言った。
「しかしな、動きを止められて、並大抵の攻撃なら防げる最強の盾だろ? そんな物一にやっても良いのか?」
「盾ってのは間違いよ。アイギスは最強の防具で、盾だけれど、あくまで概念なのよ。だからあんな安っぽい傘でも問題ないわけ。それにさっきも言ったけど、今の私には必要ないの」
「概念? 神様の言う事ってのは相変わらず分からんな」
 店長が煙草に火を点ける。
「でも、女神の力をそう簡単には使わせないけどね」
「……使ったら寿命が縮むとか言うんじゃないだろうな?」
 店長が白い目を、白い体に向ける。
「そっちの方がマシかもしれないわ」
「おい、場合が場合とはいえ、あいつはまだドが付く新人だ。ろくでもない条件付けてたら承知しないぞ」
「心配しないで。使ったら死ぬなんて、そんな安易な条件美しくないわ。ちゃんと女神アテナの名に相応しい交換条件よ」
 梟が嫌らしく笑う。
「本当だろうな?」
「本当よ。アイギスを使えるのよ? 一生純潔でいるなんて安いものでしょう?」
「純潔……」
「私は処女よ」
 表情一つ変えずに、梟がそんな事を言い出した。
 いきなり現れた場違いな単語に、店長が目を丸くする。
「からかってるのか?」
「私は処女神。私に仕える者にも、純潔を保ってもらうわ。穢れたモノが私の下についたり、私の力を使ったりするなんて虫唾が走るもの」
 店長がゆっくりと、その言葉を咀嚼するように、何度も頭の中で繰り返した。
「つまり、一は一生死ぬまで」
「そ。童貞って事よ」


「もう限界」
 呟いて、糸原ががっくりとうな垂れる。指に絡まったレージングは、ギシギシと音を立てて圧力をかけていた。糸原の指は、大蜘蛛との力比べで赤く腫れ上がっている。
「何とかなりませんか!」
 一が離れた場所で声を上げた。
「何とかなるならとっくにしてるわよ! 馬鹿! 自分だけ安全な場所にいるくせに、あんたが何とかしなさいよノロマ!」
「だって!」
 ビニール傘が、アイギスが、一の言う事を聞いてくれない。
 この力を貰った時に、アテナは条件を提示してきた。
 一つは、一生純潔を守り通すこと。アテナ曰く、穢れたモノがアイギスに触れると神罰が下るという。
 ――意味ないじゃないか。
 せっかく、一は糸原を助けるために死ぬまで童貞という汚名を被ったのだ。それなのに、この大事な局面でアイギスが発動しない。
「まずい……」
 かと言って、蜘蛛の前に飛び出していって勇敢に戦う。そんな事、幾ら力を貰った一と言えど出来そうになかった。正直、今でも一の体のどこかは震えている。膝が笑う。喉が渇く。恐怖で。
 怖い、怖い。


 まるで、と店長がアテナを見ながら呟いた。
「生き地獄だな」
「あら? 別にそういう事(・・・・・)しなくても生きていけるものよ。地獄だなんて、あなた色々な方々にすごく失礼ね」
「それだけでもキツイ条件だ。他にも一には何か科したのか?」
「そうね、とりあえずアイギスを持たせる条件はそれでしょ。後は力を発動させるのに幾つか与えたわ。だって、大いなる力には大いなる責任が宿るものでしょ?」
 漫画か何かで覚えたような台詞を、さも自分のもののようにアテナが述べる。
「言っても、大したものじゃないわ。まず一つ目に」


 ――一つ目に。
 アテナに言われた条件を、一が思い出す。
 一つ目には、声を出せる状態である事。
「あ、あー、あぁあー」
 発声練習。声は出る。問題ない。
 ――二つ目に。
 アテナに言われた条件を、一が思い出す。
 二つ目に、視界が良好である事。
 雨の日や、霧が出ている日など、前方を見渡せない状況だとアイギスの能力は発動できない。らしい。
 一は天気を確認する。馬鹿みたいに星が綺麗な、冬の夜。夜、だが視界が悪いとは言えない。現に、一の前方では糸原と大蜘蛛の対峙している姿がハッキリと見えている。糸原が青筋を立てている、その表情もハッキリと見えていた。
「なら」
 三つ目の条件。
 それは、動きを止める相手の、名前を知っているという事。
 今回のケースならば、土蜘蛛。
 仮に、土蜘蛛が「土蜘蛛」以外に名前を自分で決めて付けていた場合、その名前を知らなければ発動できない。だがその可能性は果てしなく、限りなく低い。蜘蛛が自身に名前を付けるなど、少なくとも聞いた事がない。聞く方法も知らない。
 という事は。
「あれは、土蜘蛛じゃない……?」


 ――。
 この姿になったのは、こんな姿にされたのはいつからだろう。
 誰のせいだろう。誰にされたのだろう。
 私が何をしたというのだろう。
 赤い目玉で、自分の姿を確認する。
 ああ、気持ち悪い。
 気持ち悪い。
 こんなになかったのに。
 私の足は、目は、手は。
 こんなに大きくなかったのに。
 私の体は。
 こんなはずじゃなかったのに。
 許さない、許さない。
 ――。


「――――――!」
 この世のものとは思えない音が轟いた。
 音の発生源のすぐ傍の糸原は、耳を塞ぐ事も出来ずに顔を歪める。
 距離のあった、耳を塞ぐ事の出来た一ですら、鼓膜が破けたかと思えるほどの衝撃だった。
 大蜘蛛は余っていた足を振り上げる。
 まずい、と思った糸原だったが成す術もなく、その攻撃を食らった。一の近くまで吹き飛ばされ、転がる糸原だが、寸前、糸から指を離していたのは流石といえる。そのまま離さずにいたら、指が千切れる所だった。
 だが、直接攻撃の出来ない一たちにとって、その糸は最初で最後の攻撃手段である。
「カンダタじゃあるまいし……」
「はい?」
 糸原が蹲りながら、吐き捨てるように言った。
「つうか、大丈夫ですか?」
 暴れ狂う蜘蛛に怯えながら、一が糸原に尋ねる。
「うっさいっ、役立たずごく潰しろくでなし!」
「そのままそっくりお返ししたいっすね」
「さっきみたいにあいつも止めてよ」
 糸原が頬を膨らませながら一に言った。
「こいつ言う事聞かないんですよ。条件は満たしてるんですけど」
 一が傘を見ながらぼやく。
「条件?」
「ああ、それはともかく。俺の予想なんですけど、あいつ土蜘蛛じゃない気がしますね」
「はぁ? じゃあ何だって言うのよ、どっからどう見てもスパイダーにしか見えないわよ!」
 突拍子もない一の発言に、糸原が思わず英語で返した。
 一単語のみだったが。
「蜘蛛は蜘蛛でも、土蜘蛛じゃない、とか。とにかく傘の力が出ないって事は、あいつは土蜘蛛じゃないって事なんですよ」
「だぁかぁらぁ! あんたが使えないって事と、あれが土蜘蛛じゃないって事にどういう関係があるってんのよ! 言い訳ばっかしてんじゃないわよちびのくせに」
 二人が言い争っているまさにその時。
 蜘蛛が妙な動きをとり始めた。腹に力を込め、口元を震わせている。何かを堪えているような、そんな様子。
「――――――!」
 再び、先ほどの奇声が辺りを騒がせる。
 その声に、一と糸原が蜘蛛へ振り向いた。う、と声にならない声が、二人のどちらとなく零れる。
「吐きそ……」
「あはは、俺もです」
 咄嗟に、一が目を背け、糸原が顔を蜘蛛から背けた。
 そうして、吐き気を堪える。
 見ると、蜘蛛の穴から何かが見え隠れしていた。液体のような、固体のような、原型を留めていない物体。一つ一つは小さかったが、数は目を疑うほど多かった。目を疑うほどの、いや、見たものならば、目を疑いたくなる光景だった。
 蜘蛛の産卵。
 しかも、この地球上で一番大きな蜘蛛の産卵。ぼたぼた、と吐かれた卵が地面に落ちては潰れ、潰れては落ちる。吐瀉物を撒き散らしたような、そんな惨状。
 やがて、その中の卵の一つが、不気味な動きを見せた。左右に細かく揺れて、ひびが入る。まだ完成しきっていない蜘蛛の幼体が、その姿を顕した。そして、その一匹が現れたのを皮切りに、次々と卵から蜘蛛が生まれる。産まれる。
 小さいながらも、あの(・・)赤い目を二人に向けてきた。
「子沢山ね、しかもお母さん似だわ」
「言ってる場合ですか。やばいですよ、今のうちに逃げましょう」
「じゃあ一人で逃げれば?」
 間髪入れずに、一の申し出を糸原が切り捨てる。
「何で!?」
「何ででしょうー?」
 と、言いながら糸原が足をこれみよがしに見せ付けた。
 ズボンの破れた箇所から血が流れ出ている。
 おそらく、折れている。
 糸原の異常な汗の量。痛みで冷や汗が止まらないのだろう。
「ぶっちゃけ、気絶しないのが不思議なくらいね。しんどいし、痛いのよ」
 だから、
「あんただけでも、逃げなさい」
 糸原は、そう言った。