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アラクネ
夜に殺せ
「俺はバイトです。店長の言う事なら従うしかありません」
 一がバックルームの椅子に座りながら、淡々と呟いた。
 なるべく感情を込めずに、一が話を続ける。
「糸原さんなら大丈夫ってのも信じます」
「そうか」と、言った後、店長が煙草に口を付けた。
 椅子に腰掛けたままで、一が仮眠室へ目を向ける。
「あの人たちはどうするんですか?」
「逃がす」
「上からは何も言われないんですか?」
「知らん」
「俺は、いつもみたいに中で仕事してれば良いんですか?」
「ああ」
 簡潔過ぎる店長の答えに、一が苛立ちを覚える。
「……三森さんは?」
「お前もしつこいな、来ないって言ってるだろうが。電話にも出やしない奴をどうやって呼び出せと言うんだ」
 店長が煙草の火を灰皿に押し付け、語気を荒げた。
 堆く積まれた吸殻が、今の衝撃で崩れていく。
「家まで行くとか」
「馬鹿か。勤務外と言ってもな、所詮はアイツもバイトなんだよ。休みたい時もあるし、辞めたいって思うときもあるだろうが。社員と違って、無理に拘束出来ないんだよ」
 一が席を立つ。
「出過ぎました。俺はもう仕事に戻ります」
「頼むぞ。奴らは夜に来るらしい。……それまでは仕事、ヤバくなりゃ支部にも連絡付けるし、一般のお前に危ない橋は渡らせん」
 その言葉に、返事をしないまま一は店内へ入っていく。
 ――絶対イラツいてやがんな。
 そう思うも、一に対して何もしてやれないのが店長の現状だった。
 ゆっくりと椅子に体を預けながら、体を伸ばしていく。
 体を戻すと、パソコンのディスプレイに視線を遣り、マウスを弄くる。
 やがてマウスからも手を離し、虚空を見上げた。
「頼むよ……」
 頭を抱えて、店長は声を震わせながら呟いた。


 オンリーワン、勤務外専用マンションの一室。
「寝れねェ」
 ベッドの上で三森はそう呟いて、体をゴロリと回転させる。
 三森はもう何日も自室から出ていない。
 バイトにも行かず、遊びにも行かず。ベッドの上で緩やかに時間を潰すだけでいた。
 灯りの消えた薄暗い部屋。沈みかけた太陽の、潰れたオレンジの様な色が窓から入ってくる。それを照明の代わりに、三森が壁に掛けられた時計を見上げる。
 時刻は四時を回っていた。だが、時刻など今の彼女にとっては何の意味も成さない。
「だりィ……」
 三森は何度もバイトを辞めようと考えた。携帯電話に何度も手を伸ばす。が、中々踏ん切りがつかなかった。
 変化の乏しい自分の部屋で、携帯の着信履歴と、自室の電話の留守番履歴。それだけが時間の移り変わりをまざまざと三森に見せ付ける。
 柵の様な物を吹っ切る為に、現実から目を背けようとする為に。夢の世界へ逃げ込もうと瞼を閉じるが、眠りには就けないでいた。
 眠れても精々二、三時間。寝ては起き、起きては寝て。生活リズムもクソも無い現状。
 定期的にやって来る頭痛が酷く、鈍く三森を覚醒させ続ける。
 そして、意識が覚醒し、頭が回る度に繰り返される光景。
 得体の知れない女――糸原四乃――にいともたやすくいなされてしまった自分。
 背中を蹴られ、嘲られた自分。
 同情、軽蔑、それらの種類の情けを掛けられた自分。
 ――畜生ッ。
 掴んでいた枕を壁に投げ付けるが、三森の気は少しも晴れなかった。
 三森は起き上がると、ベランダへ出て、煙草に火を点ける。煙草の箱を握り潰し、指で弾いた。弾かれた箱は風の影響を受け、ゆっくりと下の道路へ落ちていく。
 何日ぶりの喫煙だろうか。そんな事を考えていると、突然強い風が吹いた。
 軽く銜えていた煙草が三森の元から離れていく。
「あっ」と声を上げ、手を伸ばすも、火の点いた煙草は強風と一緒に何処かへ流されていく。火の粉と紫煙を振り撒きながら、中空を揺らぐが、やがて煙も昇らなくなる。 
 三森は音が鳴るかと思わせるぐらい、強く奥歯を噛み締め、拳を握った。
 ベランダから部屋に戻り、窓を乱暴に閉める。無造作に散らばる物の中から真っ赤なジャージを拾い上げ、それに袖を通す。
 ――煙草を店まで買いに行くだけ。それだけ。
 言い聞かせる様に何度も心の中で呟いて、三森は部屋を飛び出した。


「堀君」
 オンリーワン近畿支部の長い廊下を歩いていた堀が振り返る。
「ああ、炉辺さん」
 こんにちは、と堀が笑顔で返した。
 その堀にも負けない位の笑みを炉辺が浮かべる。
「最近調子はどう?」
「何とも言えないですね。新しい子は入ってきたのですが」
 堀の表情が苦味を帯び始めた。
「あー、タルタロスの子ね。けど、どうにかなったんじゃないの?」
 炉辺が腑に落ちない、と言った様子で尋ねる。
「三森さんが店に来ないんですよ。もう何日も」
「ふゆちゃんが?」
 炉辺が驚く。そして心配そうに目を細めた。
「大丈夫なのかなー。また体調が悪いとか?」
「いやあ、何て言うか。若いって事は素晴らしいですね」
 堀が言い難そうに言葉を濁す。
 だが炉辺は、何かを悟ったらしく、ははーん、と楽しそうに呟いた。
「心の方なのねー、そうかー、ふゆちゃんも恋とかしちゃうんだー。嬉しいなー、今まで妹みたいに接してきた子が大人になるのって」
「あー、いや……まあ。そうですね」
 否定しようとした堀だが、余りに楽しげに炉辺が言うので適当に場を流す。
「ふゆちゃんは心配ないよ、直ぐに戻って来るって」
「……そうですね」
「んー? 何か他にもあるの?」
 いえ、と堀が首を横に振った。
「唯、定時の連絡がまだ来ないんですよ」
 と、携帯電話を見せながら堀が口を開ける。
「定時連絡って、お店の?」
 ええ、と堀が頷いた。
「何かあったのかな? 様子見てきた方が良いんじゃない?」
「まあ、以前にも連絡を忘れていたケースもありましたし、忙しい時期でもありますから、店長が忘れてるだけだとは思いますが……」
 そう言って堀が携帯を内ポケットに仕舞い込む。
「そ? なら良いんだけど。うーん、もし様子を見て来てくれるなら、ふゆちゃんも序に見てきてくれない? もし、で良いんだけど」
 炉辺が堀の目を真っ直ぐ見ながら発言した。
「もし、ですね。分かりました。それじゃ私は会議があるので、失礼します」
「うん、頑張ってねー」
 手を振って見送る炉辺へ最後にもう一度だけ頭を下げ、堀が大きめの部屋に入っていった。


 駒台の古びたアパート。
 202号室。主は一一(にのまえはじめ)
 主の居ない部屋で、足を伸ばす女が一人。
 一の同居人、糸原。
 その同居人がこたつを伸び伸びと使い、暖を取る。
 午後、夜。少なくとも今日中に現れるソレとの戦闘に向けて体を休ませるため、仮眠を取ろうとしていた糸原だが、全くと言って良いほど眠れなかった。
 今朝、勤務外として始めての戦闘を彼女は経験した。
 ソレとの戦闘は、今までにも幾度かこなした事はあったが、全て自分の身、自分のみを守る為だけの物。精神的に気楽と言うには軽すぎるが、負担は一人分で済む。
 だが、今回は違う。
 自分が倒れれば、生き残ったソレが確実に他の人間にも危害を加えるだろう。
 背負った事の無いプレッシャーが彼女に圧し掛かっていた。
 目を瞑れば、想像したくも無い光景が、まるで経験した事の様に、異常なまで鮮明に浮かび上がってくる。
 流れる血。零れる悲鳴。動かない体。異形のソレ。
 断片的に頭を掠める数々の結末。
 全ては幻、夢。想像の事。
 それでも、糸原は安心する事が出来ずに、実体の無い悪夢と戦い続けている。
 一人きりで気楽だった彼女の軽い肩は、自身でも信じられないくらい重かった。


 時間は止まらない。
 常に速度は変わらない。
 緩んでもくれない。
 一年、一ヶ月、一日。
 一時間、一分、一秒。
 毎日毎日決してそれは揺るがない。
 楽しい時は早く過ぎ、悲しい時は遅々として進まない。
 時として。時は残酷な物であり、寛容でもある。
 厳しくもあり、優しくもある。
 だが、時間は往々にして人間に平等なのだ。


 太陽は時と共に動く。
 朝になれば陽は昇り、月は消える。
 夜になれば陽は沈み、月が現れる。
 それとも。
 陽が昇り、月が消えるから朝なのか。
 陽が沈み、月が現れるから夜なのか。

 
 ソレの姿が現れる。
 駒台の街に現れる。
 蜘蛛が動く。群れを成して蜘蛛が歩く。
 障害を薙ぎ倒し、障害を踏み潰し、夜の街を闊歩する。
 群れの中でも、群を抜いて大きな蜘蛛が先頭を進む。
 恨みを、嫉みを晴らす為に。
 復讐者が自分の為に歩く。
 闇夜に浮かぶ真っ赤な瞳は何を浮べて、何を見るのか。
 北駒台店へと、復讐の矛先を向けるべき所へと、只管に行進を続ける。
 目標の臭いは強くなりつつあった。
 あと少しだ。
 蜘蛛の足に力が入る。
 一層力強くなった行軍がその速さを増した。

 
 心せよ人間。
 長い夜が来る。


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