鳥が飛ぶ。
まだ日の昇りきっていない空を飛ぶ。
朝焼けが白い羽を照らしている。
空を行く者の姿を、少女が地上から見上げた。
綺麗だ、と。
幾千、幾万と繰り返し思い続けた事を飽きもせず思う。
鳥を見つめたまま、少女が歩いている。
のそり、と。
何処から現れたのか、少女を覆い隠す程の影が道の先から現れた。
黒に近い色を持つ瞳が、それを捉える。
先を進む白い鳥が気付き、少女の下へ飛んだ。
鳥が少女の肩に止まるより先に、少女が喉から悲鳴を絞り出すより前に。
黒い影が容赦なく、小さな命を薙ぎ払うべくその手を振り下ろした。
「勤務外ぃ? 嫌よ」
オンリーワン北駒台店、仮眠室。
その部屋のソファで寝転ぶ糸原が気だるそうに答えた。
「三森が来ない。一は無理。なら糸原、お前しか居ない」
店長が煙草を吹かしながら糸原を見据える。
「ヤンキー連れてくりゃ良いんじゃないのー?」
「無理矢理連れて来ても役には立たないからな」
「私はどうなのよ」と、糸原が疑問を投げた。
吐き出した煙と一緒に、「知るか」と店長が返す。
深く息を吐き出し、糸原がテレビのリモコンに手を伸ばした。
「時給は上げてくれるんでしょうね?」
「お前が生きて帰って来れれば」
雑音が仮眠室から消える。
「一は?」と、糸原が制服を脱ぎ、スーツに着替えだす。
「あいつはこのまま一般業務だ。お前には駒坂近くまで行って貰う」
糸原が眉を顰めた。
「駒坂? どこよそれ」
「……大学の入り口にあたる坂道の事だ。ここじゃ皆そう呼んでる」
店長が間を空けた後、淡々と答える。
「ソレの数は? 強そうな奴だったらパスよ。私素人も良いとこ何だから」
「数は二。土蜘蛛。昔から出るポピュラーなソレだ。場所は駒坂付近。お前は使える」
情報を店長が列挙していく。
「あー、分かった、分かったわよ」
――また出たのか。
一が床をモップで磨きながら、そう思った。
糸原がバックルームに入ってから十分近くは経つ。
恐らくは店長に説得されているんだろう、と一は考えていた。
フロアの殆どをモップで磨き終わった頃、スーツ姿の糸原が姿を現す。
「ソレが出たんですか?」と、一が声を掛けた。
「行ってくるわ」
糸原が冷たく言い放つ。
う、と一が詰った。
「勤務外、ですか?」
と、それでも声を更に掛ける。
「そうよ。これで時給が上がるわね」
「……スーツ。新しいの何ですから、汚さないで下さいよ」
質問に答えないまま、糸原が一の姿を眺める様にして見た。
「しっかり留守番してんのよ」
「はい。あ、あの、お気をつけて」
歯を覗かせて、糸原が笑った。そして扉に手を掛け、店を出て行く。
その姿を一は黙って見送った。
「行ったか?」
店長が店内へとやって来る。
「糸原さんも勤務外になるんですか?」
一がモップを握ったまま尋ねる。
「一般もやって貰うけどな」
紫煙を吐き出しながら店長が返した。
「……大丈夫ですかね」
「心配か? まあ、話を聞いてる分には問題無いと思うがな。ヘルハウンド二体を仕留めたらしいじゃないか」
蜘蛛ぐらいじゃ問題無いと、店長が愉快そうに付け足す。
一は何か違和感を覚えた。その正体が何か分からないまま、気持ちの悪さを払拭するために口を開ける。
「あれ? 俺、そんな話しましたっけ?」
「いや、糸原本人からだ。自己申告だが、嘘では無さそうだったぞ」
――あの人は……。
しかし違和感も晴れたし、店長の口ぶりからすると今回のソレは糸原の敵では無いらしい。ほっとして一はモップに体を預ける様に姿勢を変えた。
「三森が来ればもっと楽なんだがな」
「あ、それって、あの。糸原さんが原因じゃないんですか? 仲悪そうだったし」
一が先日の二人の小競り合いを思い出しながら声を発する。
「そうなのか? 私は三森から糸原の事を聞かされてたんだがな。『使える』奴がいると。そうか、仲悪かったのか……」
私もまだまだだな、と独り言の様に店長が呟いた。
――どういう事なんだ?
三森さんが来なくなったのは、糸原さんと喧嘩したからじゃないのか? あれ?
「どうした?」
店長の言葉も、一の耳に入らない。
一は首を傾げ、迷宮とも言える思考に耽るしかなかった。
朝焼けが照らす街中を、スーツ姿の女が歩く。
車道だろうと、歩道だろうと、お構いなしに闊歩する。
反対側からトラックが走ってこようが、大男が群れを成して歩いてこようが、彼女――糸原四乃――には関係無い様に思えた。
尤も、この時間帯に出歩く人は少ない。
おまけにソレが出たとの情報も伝わっている頃だ。
進んで外出する人間がいればそれは、自殺志願者か度を越えた野次馬ぐらいのものだろう。
駒坂、と呼ばれる坂へ脇目も振らず歩き続ける糸原。
先日まで一般業務に従事していた彼女の新たな役職。
勤務外。
あえて言うならば、先程の二つの例に勤務外を付け足しても問題は無い。
その勤務外店員糸原の視界の端に何かが飛び込む。
――アレね。
倒すべき、殺すべきモノだと判断した糸原が駆けた。
長く、美しい黒髪を風に揺らされながら。
ポケットに手を突っ込み、自分の得物をしっかりと握る。
道路を走りながら、敵の正体を見極めるべく目を遣った。
距離が近づくにつれ、その姿が大きくなり、ハッキリしたものに変わっていく。
多足、赤い目玉、グロテスクな体つき。
「蜘蛛だわ、こりゃ確かに」
誰に言うでもなく、糸原が呟く。
長い足を忙しなく動かし、ソレが道を闊歩する。
蜘蛛は二体いると聞いていたが、一体しか確認する事が出来ない。
糸原はもう一体を探すため、辺りを見回す。
だが、先に蜘蛛の方が糸原を確認する。
蜘蛛の体の前面、無数に付いている赤い目がぐるり、と回転した。
その異様な光景に、糸原の背筋が冷たくなる。
乱れていた息を整え、キーパーグローブの様な物を両手に嵌めた。
ポケットに手を入れ、掴んだ得物をゆっくりと引き上げていく。
蜘蛛の姿をしたソレが器用に足をクロスさせながら近づいてくる。最初はゆっくりと、そして次第に速度を増し糸原に襲い掛かろうと巨体を揺らして走る。
――来たっ。
焦りもせず、騒ぎもせず、その巨体に糸原が立ち向かう。
糸原が腕をしならせ、両手を交差させ、振るった。
それはまるで調教師が獣に対して鞭を振るっているかのような手捌き、もしくは劇場で優雅にタクトを振る指揮者の如く。
どちらにせよ、糸原の動きは熟練した物であると見て取れた。
だが、その手には何も握られていない様にも見える。
空手で空気を切り裂くだけの行為。
それだけで蜘蛛の動きが鈍くなった。
明らかにスピードが落ちている。いや、むしろ止まっている。
突然のアクシデントに驚いたみたいにソレが足を止めている。
「オッケ」
糸原が呟くと、蜘蛛の足に切れ目が走った。
切り傷にも見える痕から、濁った様な、色彩のバランスを何も考えずに全ての色をぶちまけた様な緑色が薄っすらと見え隠れする。
やがて、蜘蛛の足の切れ目から液体が沸々と湧き出てきた。
蜘蛛の体液、それとも血液だろうか。
どちらにせよ、ソレの動きが止まった事だけは確かだ。
「まずは一匹っ」
糸原はそう言って、もう一度手を動かす。
空気の壁を越えて、そのままソレにまで何かを届かせた。
届いた何かは、更に切れ目を深くさせていく。
肉の裂ける音が聞こえ、液体が吹き出た。
そして地面に落ちる塊。
足だ。糸原の動きに従って、次々とソレの足が落とされていく。
最後まで自らの体と地面とを繋いでいた蜘蛛の足が落ちる。
一際大きな落下音が聞こえた。
先程までの俊敏な動きが幻だったのではと思えるぐらい、地面に這い蹲る様に蜘蛛の体が動かなくなる。
――何よ、楽勝じゃない。
糸原は上がった息を整えず、顔を下げる。
荒い呼吸を何度も繰り返しながらも口元が綻んだ。
「誰か! この子を助けて!」
叫び声に糸原の顔が上がる。
羽をバタつかせて、必死に喚く姿。
中空で旋回しながら、助けを求める白い姿。
「アンタ、店に来てたフクロウじゃないの」
その声に梟が反応した。
「オンリーワンの……」
それだけ言うと、羽の動きが若干遅くなる。
一瞬だけ高度が上がると、梟は地に吸い込まれる様に落ちていった。
「ちょっとっ」
そう叫んで糸原が走るも、激突には間に合わない。
梟と地面の距離が縮まっていく。思わず目を瞑る糸原。
固い地面との衝突音は聞こえてこなかった。柔らかなクッションに包まれた様な優しい音が糸原の耳に届く。
「嘘」
糸原が目を開けると、あの時店に来ていた飼い主らしき少女が倒れていた。
その上に梟は運良く落ちたらしい。
――何よコレ……。
糸原は長く、深い溜息を吐く。髪を弄ろうと手を伸ばしたが、グローブを外してない事に気付き、喉の奥で小さく笑った。
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