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プロローグ
心配してやったってのに
 荒野。
 荒れ果てている野。人けもなくて寂しい野原。
 窓から唯一見える景色を眺め、一はそんな事を思っていた。ぼんやりと。
「座らないの?」
 一はその声に、やっと我に返った。
「いや、僕はこれを持って来ただけですし」
 そう言って、掴んでいたビニール袋を女性に見せる。
 女性は部屋の中だと言うのに、フードを深く被っていた。どんな事を考えているのか、表情も、顔ですら分からない。フードからは、鮮やかな赤で彩られた唇だけが薄っすらとそれを覗かせている。
 黒いローブ。白い肌。細い指。硝子の様に脆く美しい声。
 一は参っていた。
 ――まるで魔法使いだな。こういう人苦手だ、早く帰りてぇ。
「見せてちょうだいな。何を持って来てくれたの?」
「失礼します」と、小さな机の上に袋を乗せる。
 サンドイッチ、おにぎり、ジュースと言った商品が並べられていく。
 並べていく最中、一は何か違うな、と思った。
 まさか、差し入れを欲していた人物がこんな女の人だったとは、一は思いもしなかった。
 食べ物ばかり、と言うのは不味い気がしてならない。
「成る程ね」
 女性が囁く。
「何か、こういうのばっかですいません。あんまり詳しい話を聞いてなかった物で。てっきり、僕の中ではもっとこう、厳つい男の人をイメージしてたんで……」
 一が弁解する。
 目を泳がせ、耳まで真っ赤にさせて喋る一を見て、女性が小さく笑った。
「別に良いのよ。何も言わなかったのはこっちなんだから。私はてっきり……」
 女性が詰った。まるで、自分でも思っても見なかった事を言おうとしたみたいに。
「あ。サトウ、さんですか? 店長が連絡してなかったみたいで……。これじゃ完全にウチの手落ちですね」
 一が申し訳無さそうに口を開く。
「今度は期待してるわね」
 優しく、励ます様に女性が言った。
 ――また来なきゃなんないのかよ……。
 一が苦笑で返す。
「じゃあ、僕はもう帰って、その。良いですかね?」
「あら」と女性が短く声を発した。
「もう帰るの? 来たばかりじゃない」
 そう言って、一の方へ顔を向ける。
「いや、お仕事のお邪魔しちゃ悪いですし」
 一が帰っても良い雰囲気へ展開させようとした。
「私は仕事してないから良いのよ」
「……さいですか……」


 ――退屈。
 カウンターに頬杖を付きながら、糸原はそう思った。
 北駒台店は、住宅街の傍にあり、立地条件は悪くない。
 筈、だが。得体の知れないソレと戦う勤務外が在籍する為、客足は多くない。
 皆、恐れて近づかないのだ。
 それでもやって来る客と言うのは、物珍しさからくる好奇心が恐怖より優先される人間、勤務外に対して何も考えていない神経の図太い人間くらい。
 店にある目ぼしい雑誌も粗方読み尽くしてしまい、糸原は怠惰な時間を過ごしていた。
「宜しいですか?」
「ああ、ども。堀、さんでしたっけ?」
 堀が缶コーヒーをカウンターに持ってきた。
「やっぱり退屈ですか?」
 笑顔を絶やさず、堀が言う。
「私は忙しいよか良いと思うけどね」
 糸原がバーコードを読み取りながら、軽そうに言った。
「私は一旦支部に戻りますので。お先に失礼します」
「お疲れ様ー、です」
 堀が商品を受け取って、ドアの方へと足を向ける。
「差し入れって誰にですか?」
「はい?」
 突然の質問に、堀が振り返った。
「一が届けに行った相手。誰かな、って」
「ああ、タルタロスの方ですか。そうですね、名前は存じ上げませんが、立場は上の人でしょうね。提携している店の人間を使い走りに出来るくらいですから」
 と、シニカルに堀が笑う。
「……ヘルって奴じゃない?」
 糸原が淡々と呟いた。
 堀が眼鏡を中指で押し上げる。
「心当たり、と言うか。なるほど、先日まではそこに居たんですよね」
「まあね」と言いつつ、糸原が髪を手で梳いた。
「実は、タルタロスに勤務する人の名前。私には一人も分からないんですよ」
 缶コーヒーの蓋を開け、堀が言う。
 糸原が訝しげに堀を見つめた。
「そもそも、知っている人が居るかどうか危ういですね。提携をしている、と言ってもどこまでの情報を教える物か、線引きも曖昧なんでしょうね」
 私は下っ端だから、情報も入ってきづらい。と堀は付け加える。
「ふーん。流石に名前くらいは教えると思うけどね」
「そうですねえ。確かに百パーセント信用する事も出来ないです。まあ、お互いに害を成す存在とも思えません。現に、一君の前任の方は何事も無く勤めていましたしね」
 堀が相変わらず顔に笑みを張り付かせたまま答えた。
「なら、良いんだけど」と糸原が独りごちる。
 それでは、と頭を下げ、堀が扉を開けた。既に蓋の開いているコーヒーで喉を潤し、一分も掛からずそれを飲み干した。
 ゴミ箱に空き缶を投げ入れ、車のキーを手探る。
「今の所はね」
 そう呟いた堀の顔からは、先程までの穏やかな笑みが完全に消えていた。


「それで三森さんって人がですね」
「ええ」と女性が相槌を打つ。
 小さな部屋に、一と女性が二人。
 一が今までの事を思い出しながら、拙くも、必死で話す。
 楽しそうに、怒りながら、悲しく。表情をコロコロと変え、一が話す。
「楽しい話ね」
 女性が口元に手をやる。
 上品な仕草だなあ、一は女性を見ながらそう思った。
「地上の話は聞いているだけで心が躍るわ」
「? 地上?」
 一が首を傾げる。
「こっちの話よ。それで、続きは無いの?」
 腕を組んで、一が考え込む。
「今の話は終わりなんですけど、ちょっと話題を変えましょうか」
「良いわよ」と、女性が返す。
 ややあって、一が口を開けた。
「あなたの名前は?」
 女性が小さく、肩を震わせた様に見える。
「何だと思う?」
 透き通る声で、女性がそう言った。
 また一が考え込む。唸ったり、髪の毛を弄ったりして、思考を巡らす。
「わっかんないですねー。()こういうの苦手なんですよ」
 一が困った様に笑った。
「付けてよ、名前」
 一は自分の耳を疑った。
 女性は窓に視線をやっている。
「え、俺が? そんな、犬猫じゃ無いんですから」
「フフ、それもそうね。名前は秘密よ。貴方の好きな様に呼んで」
 一に視線を移して、女性が愉快そうに言った。
「そうですか? じゃ、まあ『あなた』で」
「詰まらないわね」
「……俺の名前は何だと思います?」
 意趣返し、とでも言うのだろうか。今度は一が質問した。
「ハジメ」
 女性が直ぐに答える。
 一の顔が不審の色に染まっていった。
 ――下の名前は、言ってないよな……。
「外れです」と、一が笑う。
「ニノマエ。ニノマエハジメ、合ってるでしょう?」
 女性が、自身有り気に微笑んだ。
「……エスパー?」
「エスパー? ああ、超能力者の事ね。違うわ、知っていたのよ」
「何で?」と、一が目を丸くして、震えを隠しながら声を発する。
 一の全身に嫌な気持ちが走った。
「何でだと思う?」
 女性がそう言った後、沈黙。
 部屋には、ピンと張り詰めた空気が流れた。先程までの、不自然なくらいの穏やかな雰囲気は既に流れ去っていた。
 ――ソレ? 違うよな。じゃあ何なんだこの人は?
「冗談よ」
 笑った。
「え?」
「連絡した時に、貴方の店の事、色々聞いていたのよ。サトウが居ない事は聞かされてなかったけどね。驚いたかしら?」
 女性が笑う。
 曖昧な返事をして、一が苦笑いした。
「中々楽しませて貰ったわ。そろそろお開きにしましょうか」
「そうですね」と一が席から立つ。
「今度はもっと良い物をお願いね」
 女性が一を見上げ、言った。
 相変わらず、フードの下の顔は見えないまま。
「じゃあ、名前。次来た時には教えて下さいよ」
「そうね、考えておくわ」
 女性の口元が弛んだ。


「遅かったじゃない」
 糸原が、店のドアを開けた一に声を掛ける。
 一が店を出て、帰って来るまでに数時間。
 とっくに今日の勤務時間は終わっていた。
「すみません」と、一が頭を下げる。
「で? あー、その」
 言葉を詰らす糸原。
 らしくないな、と一が不思議に思った。
「何ですか」と一が声を掛けるも、糸原は頭を下げ、人差し指をこめかみに当てて返事をしない。
 やがて、黙ったままの糸原を放って、一がバックルームへと足を向けると、背中に何かがぶつかった感触。ややあって、床に何かが落ちる音。
 一は不思議に思って視線を落とす。
 ――煙草だ。
 包装された状態の、恐らく商品であった煙草を一の手が拾い上げる。
 振り向くと、糸原が神妙な顔をしながら手招きをしていた。
「だから、用があるなら言って下さいよ」
「あー、だいじょう、ぶ。だったの?」
 顔は下げたまま、糸原が声を絞り出す。
 だいじょうぶ。
 大丈夫。
「えっと、だから……何がですか?」
 可哀想な人へ接する様に一が声を発した。
「……何もされてない?」
「されてませんよ」
「変な事言われなかった?」
「言われてませんよ」
「気分とか悪くなってない?」
「なってないです」
 一は矢継ぎ早に質問する糸原を、怪訝そうに見た。
「アンタが差し入れを届けに行った奴。どんなだった? その、あー。怪我とかしてなかった? 腕とかに」
 ――怪我? して、ないよなあ。
「してませんでしたよ」
「それなら良いけど。ほら、さっさと仕事終わらせてごはんよ、ごはん。ファミレスでも立ち食い蕎麦でもどこでも良いわもう。すっごいお腹減ってるんだから。あー、お姉さん心配して損したー」
 と、捲くし立てて糸原が溜息を吐く。
 その様子を、一が黙って見つめていた。
「何よ?」と、ジト目で糸原が睨む。
 言い難そうに、一が視線を逸らした。
「心配、ですか? 糸原さんが。何か有難いってか珍しいですね」
 あはは、と一が笑う。
「フランスよ」
「は?」一が固まる。
「フランス料理よ」
 顔を赤くした糸原がそう言い切った。
「無理ですよ。しかもどこでも良いって言ってたじゃないですか」
「フランス料理が良いの」
 一の顔を見ないまま、糸原がバックヤードへ向かう。
「無理ですって」
「無理じゃない。私はワイン飲みたいしシャーベットもチーズもエスカルゴも食べたいの。凄く。凄く食べたい。私の言う事が聞けないっての?」
 背中を向けて、糸原が喋る。
「持ち合わせも無いですし、店がどこにあるのかも知らないですし、俺はそんな場違いなトコ行きたくないです」
「じゃあどこに連れてってくれるっての?」
 糸原の表情は分からない。
「お金の掛からない所が良いなあ、なんて」
「アンタモテないでしょ」
 一が素直にはい、と頷いた。
 そして思案する。
「……学校の、ゼミの奴から聞いたんですが、駅前に新しくファミレスが出来たらしいです。ファミレスにしては、まあ、食べられる方だと」
 ゆっくりと一が話す。
「それで?」と、糸原が続きを促した。
 ――くっそ。ムカつくな、なんか。
「ファミレスじゃあ今日の糸原さんには不満かもしれないけど。晩御飯、俺と一緒に食べてくれませんか?」
 フランスとは遠く離れた所ですが、と一が付け足す。
「……今日はそれで許したげるわ」
 それだけ言うと、糸原はバックルームに入っていった。
 やれやれ、一が大きく伸びをする。
 ふと、棚を見ると、商品が滅茶苦茶に陳列されていた。
 ――フェイスアップ教えてなかったっけな……。
 一はこれからの事を想像し、一人溜息を深く吐いた。


「ん? 何だ糸原、やけにご機嫌だな」
「別にー」


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