なんで。
どうしてだ?
「振り向いては駄目よ。その瞬間、あなたの負けが決まるんだから」
後ろから涼しげな少女の声が追いかけてくる。僕の体中の汗腺という汗腺から、さらに汗が噴き出してきた。――さっきより近づいてきている?
コートの中に着込んだ学ランは、既にぐっしょりと濡れていた。自分の身体から出た水分のせいで全身が重い。コートを脱ぎ捨ててしまいたかった。熱いんだ。冷たいのは上気した頬を切る風くらいなもので、皮一枚剥げばそこだって熱い。――何もかも脱ぎ捨てて身軽になったら、もっと速くペダルを踏めるのに。
でも今の僕にそんなことは許されるはずもない。――自転車を止めたらそこでアウト。僕は彼女に追い越されてしまう。
追い越されたらどうなるのかって?それは知らない。だけど、どうにかなるに違いないんだ。
乾いた眼球で前方を睨む。出口はまだ見えない。
事の発端は高校からの帰り道だった。
僕の学校は家から遠くもなく近くもない位置にあり、電車で通うほどでもないが自転車では少し骨が折れる、といった感じだった。入学当初から部活に入る気のなかった僕は、少しは体力をつけておいた方がいいだろうということで自転車通学を選んだのだ。毎日片道一時間弱。家と学校との間にある山が大きな壁となって、遠回りをしなければならなかった。お陰で人並みの体力は保たれた。
さて、今日は高校に入ってから初めて迎えた冬のある一日である。期末テストも終わり冬休みはもうすぐそこ、生徒達は開放的な気分で授業も上の空、教師達も苦笑いでそれを見逃す、全体的に浮ついた校舎。僕ももちろんその浮ついた奴の一人で、授業が終わり次第学校を出てぱーっと遊びたいところだったのだが、この日はそうもいかなかった。環境委員の仕事で放課後残されたのである。僕は部活にこそ入っていないが委員会には入っていた(というより生徒全員強制的に何らかの委員会に入らなければならなかった)。大掃除に備えて各教室の掃除用具を点検しろ、壊れたものや数の足りないものがあれば報告しろ、だと。それを何人でやったと思う?なんとたったの僕一人だ。他の奴らは部活で忙しいそうな。暇人は僕だけだったというわけだ。それにしてもあんまりじゃないか。
全ての教室を見回った頃、時刻は既に六時を過ぎていた。夏ならばまだ外をふらふらできる明るさであったろうが、何せ今は冬、既に男女の見分けもつかないほどの暗さである。普段授業が終わるのは三時半過ぎ、僕はその後即座に帰るから、こんなに暗くなるまで残ったことがなかった。暗いわ寒いわ心細いわで、必死になって自転車を漕いだ。一刻も早く家に辿り着きたいと思っていた。
そして思い出してしまったのだ。このトンネルのことを。
「ねえ、振り向かないで。止まらないで。そのまま聞いてね。わたしとゲームしましょ」
背後からそんな柔らかい声が聞こえてきたのは、多分入り口から十メートルくらいしか走っていないときだった。
相手が声優でもない限り、同じ年頃の女の子と思われた。可愛らしい、純白のワンピースが似合いそうな声で、もし容姿もこの声通りなら是非お付き合い願いたい、男なら誰でもそんなことを考えてしまうような声だ。しかし僕はときめくよりも先に眉をひそめた。こんな時間、こんな場所に女の子?――だってここ、今はもう使用が禁止されている、明かりも何もない洞穴みたいなトンネルだぞ。
では何故僕はそんなところを走っているのだと問われれば、近道だからとしか答えようがない。普段迂回している山の中を通り抜けるんだ、近いに決まっている。もちろん入ったのは初めてだったけれど、案外簡単に侵入できたものだから驚いた。まあ使用禁止といっても、入り口に太いロープが高めに張られているだけだったし。
中は当然のように真っ暗で、自転車のライトだけを頼りに道の端を走った。
「ゲーム?」
僕は走りながら思わず聞き返す。女の子の声は調子を変えず、僕の後を追いかけて答えた。
「そう。このトンネルを抜けるまでにわたしがあなたに追いついたらあなたの負け、逃げ切れば勝ち。簡単でしょ?」
「確かに簡単だけどそんなことをして僕に何のメリットがあるんだよ」
僕はその時、無意味とも知らずに至極常識的なことを言ってしまった。
「メリット?」
後ろからクスクス笑い声が聞こえる。
「そんなものないわ。あるとしたらわたしにだけ。だけどあなたはもうこの勝負、降りられないの」
「意味が分からない。僕に選択権はないのか?」
「残念ながら。だってほら」
声は付かず離れずぴったりと僕の後を付いてくる。
「速度が上がってるよ?」
その時僕は初めて、シャツに汗が滲んでいることに気づいたのだ。
ペダルを踏む足に力が入る。乗ったわけではない、断じてこのゲームに乗ったわけではないのだけれど――追いつかれてはいけない、決して追いつかれてはいけない、無意識のうちにそう感じていた。
「負けたらどうなる?」
喉の震えを出来るだけ抑えると、妙に高い声になった。ハンドルを握る掌がぬめる。
「さあ。負けてみたら?」
声は大変愉快そうにふざけたことを言った。僕は歯を食いしばり、一筋のライトの光が照らすトンネルの奥へ奥へと走っていく。ライトはジージー音を立て、タイヤの回転速度に比例して明るくなる。もしもここでこのライトが切れたら終わりだな。――そんなことを考えたとき、ある不可解な事実に気が付いた。
彼女の自転車のライトは?
緩めることなくペダルを漕ぎ続けながら、僕は横目で道上を確認した。間違いない。後ろから来る光はない。先を照らすのは僕のライトだけだ。彼女はライトも点けずに僕の後を追ってきているのだろうか?
――否。
そもそも彼女は、自転車を漕いでいるのだろうか?
耳を澄ますと、頬を汗が伝って後ろへ流れていく。聞こえてくるのは僕のタイヤがライトを擦る油蝉の鳴き声みたいな音と、それが舗装された道路を走る音。――一台分。どう聞いても自転車一台分なのだ。
そう考えたとき、背筋が凍り付いた。
なんで。
どうしてだ?
「振り向いては駄目よ。その瞬間、あなたの負けが決まるんだから」
僕の心を読んだかのように、彼女は涼しげな声でそう言った。
走らなきゃ走らなきゃ走らなきゃ――出なきゃ後ろから包丁で刺される、そんな思考が僕の脚の筋肉を動かしている。
いや、刺されるならまだましかもしれない。分からないのだ。僕は今、追いつかれたらどうなるのか分からないのだ。これほどおぞましいことはない。
実のところこんなに死ぬ気でペダルを踏むのは初めてで、大腿筋が猛烈に痛かった。これ以上スピードを出したらまずい、筋繊維がぶち切れる、そう感じる一方で、ここで止まったらまずい、あの声に追いつかれる、そんな脅迫めいたものが頭を支配していた。自分の呼吸がトンネル中に響くほど、心臓が活発に伸縮している。
彼女はクスクスと笑いだした。すぐ後ろ、もう一メートルに迫ろうか。――余程楽しいと見える。息切れ一つせず、彼女はクスクスクスクスと、僕の後ろに影のようにくっついて笑っていた。
瞬きする暇もない。乾き切った目に向かってくる風邪は痛かった。転んだりしたら終わりだ。きっと彼女は容赦なく抜かしてしまう――。
と、その時。
見開かれた目に、ぼんやりと穴の輪郭が映った。
かまぼこみたいな半円形の輪郭。入ってきたところと同じ形。――出口だ!間違いない、外にあるわずかな街灯が照らしているんだ――。
僕は安堵に涙が出そうになる。限界を超えた脚にさらに限界を強い、風のようにそこへ向かって自転車を漕いだ。あそこさえ出れば明かりもある、あそこさえ出れば、この得体の知れない少女から解放されるんだ――。
しかし彼女の笑い声はやまない。
「ふふ……あははははは!」
不気味な哄笑は僕の呼吸音を覆ってトンネル内に響き渡った。――何がおかしい。そら、出口までもう少しだ。あと十五メートル、十四、十三、一二、十一……
そこまで来て、僕の頬は再び凍り付く。
――ロープだ。入り口と同じ、太いロープが高めに張ってある。
脚にためらいが生じる。入ったとき、僕は一旦自転車を降りてロープの下をくぐってきた。そうでもしないと通れないのだ。ロープはちょうど今の状態での腹の位置にあり、このスピードのまま飛び越えることもくぐり抜けることも出来ない。
どうする。
出口まであと七メートル。
――どうする。
あれほど恋しかった街灯が、もう目前まで迫ってきているというのに。
――どうする、
笑い声が後ろから追い討ちをかける。
――どうする!
出口まであと二メートル――。
その時、
「追・い・つ・い・た」
棒切れのような細い指が、恐ろしい力で僕の肩に食い込んだ。
「――あ、」
身体が後ろに引き倒され、足がペダルを離れ空を蹴る。
ひっくり返る視界の中、僕は確かに見たのだ。人の形をした何かが、ちょうど馬跳びのように、僕の真上を跳び越えるのを。
目の前が真っ暗になって、背中を強く地面に打ち付ける。僕が進むはずだった方向から、至極可愛らしい、純白のワンピースが似合いそうな声がした。
「次は、あなたの番」
そうして油蝉の鳴くような音とゴムがアスファルトの上を走る音は遠ざかっていった。
淀んだ暗闇の中に、一筋の光が差す。
僕は潜めていた身を伸ばし、数日ぶりのお客さんを見た。ロープの下をくぐってきたのは、十五、六歳の少年だ。学校帰りだろうか、学ランを着ている。少し怯えた様子で、そしてそれを抑え込むように眉を跳ね上げ、再び自転車にまたがって奥へと走り出す。
さあ、おもてなしをしなくては。理不尽なサバイバルゲームの始まりだ。
彼が十メートルほど走ったところで、僕も後ろから走り出す。そして無防備な背中に言ってやるのだ。至極柔らかなこの声で。
「なあ、振り向くな。止まるなよ。そのまま聞いてくれ。僕とゲームしようぜ」
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