第玖拾貳話 歴史の暗部
大変お待たせしました。
皆様のお陰を持ちまして、いよいよ12月25日二巻発売です。
『とらのあな』秋葉原店では、12月22日に発売されているのを確認しました。
永禄元(1558)年閏六月十一日
■駿河国安倍郡府中 寿桂尼
「母上、出立致します」
「励むのですぞ」
「無論にござります」
「征東大将軍様、御出立!」
やっと出立しましたね。しかし、あの子(義元)も四十になっても親離れが出来なくて困っていましたが、親王殿下のお陰で何とか成りそうですね。
思えば、旦那様(今川氏親)に先立たれて以来、あの子を育て上げたのは、妾と雪斎であったな。その雪斎も既に鬼籍に入り、妾一人があの子の行いを直してきたのですが、流石に四十にもなれば自分の考えを強くせねばと、突き放す思いで、親王殿下の到来を迎えに行かぬと駄々を捏ねたのですが、思惑通りに自ら迎えに行きましたからね。
まあ、あの子が真に受けて、迎えに行かなければ、妾が彦五郎(氏真)を連れて挨拶に行くと決めていましたけれども、確りと自分の意志を示したので安心しましたね。今回も、確りと駿豆境まで送り届けると言ったのですから及第点ですね。
貴方(氏親)、今川家を盛り立てる事が出来るかどうかはあの子の出来次第と思っておりましたが、期待を越える様です。妾も既に七十を越えていますから、いつお迎えが来てもおかしくない様になりましたが、あの世で貴方様に会えるかどうか判りませんね。
幾ら、今川家のためと申しても、我が子を殺めた妾を天は許さぬでしょう、五郎(氏輝)は生来の病弱ではありましたが、旦那様亡き後、立派に当主として政と戦を行っておりましたが、一時の平穏が訪れ北條への瑞子の嫁入りに際して、武田との戦いにおける援軍のお礼と婚礼に参加するために小田原へ向かい無事帰ってきたばかりの天文五(1536)年三月十七日、妾と五郎が政にかんして話していると、生来の気の病から押し込めていた次男彦五郎が、いきなり現れ刀を抜きはなち、妾と五郎に斬りかかってきたのです。五郎は止めようとしたのですが妾を守る為に守る為に……
あの時、五郎の反撃で手傷を負いながらも半狂乱で暴れる彦五郎を左京進(岡部親綱)が取り押さえましたが、既に五郎は事切れて、彦五郎も首筋の傷で最早助からぬと察した上は、せめてもの情けと妾が手を下したのですから。
しかし、あの事は、今でも不思議でなりません、何故彦五郎があそこへ現れたのか、今でも見当が付かないのですから、いったい誰が?
永禄元(1558)年閏六月十一日
■駿河国安倍郡府中 今川義元
母上も心配性な事だ。予が行くのは駿豆境の黄瀬川までであるのに。尤も仕方が無いとも言えるか、幼き頃より母上にはおんぶに抱っこ状態であったからの。しかし、母上も未だに五郎兄、彦五郎兄の事を考えておるようだな、女々しいとも言えるが、母上とて人の親であったかと思える瞬間であるからな。
しかし、その憂いの原因が予と雪斎が全てお膳立てしたとは思うわけがないの、元々気の病であった彦五郎兄に麻から取った薬を飲ませる様に仕組んだが、有れほど旨く行くとは思わなかったわ、これも一重に義父殿(武田信虎)のお陰よ。
雪斎も太鼓判を押してくれたからこそ、話に乗ったのだ。義父殿が福島助春に孫の玄広恵探(氏親三男で庶子)に家督を継がす為に協力すると騙して彦五郎兄に毒を盛らしたのだからな。
案の定、彦五郎兄は錯乱したが、まさか五郎兄まで同時に死ぬとは思わなかったわ、本来であれば、少しずつ毒を盛って行くつもりで有ったがな、まあ話が出る前に恵探を滅ぼすことが出来たのは僥倖であったがな。
しかし、あの時は病弱の五郎兄は気が弱くなり北條にベッタリであったが、家臣筋にしかすぎない家に態々向かって歓待されるなどしおってからに、あれでは何れ北條に偉大なる今川を乗っ取られる所で有ったわ、氏綱に良いように使われて、武田と会戦したは良いが都留郡山中での手伝い仕事、これでは割に合わんと憂いていた所を、義父殿から繋ぎが有り、予の今川家家督相続を支援する代わりに甲斐との攻守同盟を結ぶことを約したのだからな。
ふふふふ、駿河、遠江、三河も安泰、来年には尾張の織田を滅ぼし不甲斐ない弟(今川氏豊)が無くした尾張の所領を奪回しようぞ、その為にも、親王には北條の重しとして関東で働いて貰わなければならぬわ。その為に、高々黄瀬川まで行くぐらい楽なものよ。
それにしても、源五郎は碌な事をせぬな、しかし、元々、予の甥であることを鼻にかけてやりたい放題であったから、灸をしたと思えば良いかもしれぬな、少しでも反省すれば良いの、これも三田の小倅のせいでもあるが詮無き事よ。まあ今後、会う事も無いであろうから、大丈夫で有ろう。
永禄元(1558)年閏六月十一日
■駿河国安倍郡府中 瀬名源五郎
くそくそ、あの小僧め、奴のせいで俺の評判は駄々下がりだ、氏真も俺を諫めやがるし、叔父貴(義元)も白い目で見ていやがる、俺は天下の今川家の血を継ぐ男だ、あんな朝敵(平将門)の末裔にデカい顔されて堪るか!
永禄元(1558)年閏六月十一日
■駿河国安倍郡府中 武田信繁
親王殿下の供に黄瀬川まで行く事になったが、治部殿も参加するとは、武田、今川、北條の三国間の同盟も盤石と考えての事か、やはり太郎殿も此処で殿下との繋がりを良くしておけば、武田は次代は安泰であろう。
それにしても、昨夜は驚いた。まさか都にいると思っていた父上がひょっこりと現れたのだからな。
『次郎か、久しぶりよの』
『父上、何故府中に?都に上がったのでは?』
『公方様より使いを頼まれてな、安房まで行ってきた帰りよ』
『安房と言えば……』
『流石は次郎よ、二月の襲撃は公方様の命よ』
『なっ、公方様が鎌倉を襲撃させたと』
『左様よ』
『そ、それでは、北條への義理が』
『次郎よ、儂は既に武田より出た身よ、扶持を貰っている公方の命を断る事が出来る訳が無かろうに』
『しかし、父上は甲斐武田家の……』
『お前を跡継ぎにしようと太郎に追い出されたからの』
『父上』
『ハハハハ、あれは、太郎との芝居よ』
『はっ?』
『元々、儂は一代では武田を大きくすることは不可能と思っていた。そこに太郎が生まれた。嬉しかったぞ、成長するにつれて利発さと狡猾さを見せるようになったのだから、そこで儂は太郎のために後々の災いになりかねない宿老どもを粛正した』
『父上……』
『そう驚くな、あのまま行けば、宿老どもが太郎を担いで儂に謀反をする事は十分予想できたからな、そこで太郎を嫌いお前を跡継ぎにするとして、不満分子を洗い出して掃除したわけだ、その後、太郎に忠実な連中により、儂を追い出させる様に仕組んだ』
『父上は何故そこまで?』
『なに、儂から平和に太郎に政が移ったとしても、大きくなりすぎた宿老どもが逸見の様にならぬとも言えぬからな。太郎に牙が向かぬようにしたまで、儂が全ての悪行を背負いば良いとな』
『父上』
『案の定、奴らを消し去って、儂は追い出されたわけだ。領民からも歓迎されたというのだから、感無量であったわ。何と言っても太郎は見事に信濃を得ているのだからな』
『父上は、それで良いのですか?』
『次郎よ、老人は静かに消えるが良いのだ、後は孫の顔でも見ながら過ごしたいものよ』
『父上』
うむー、父上と兄上にあの様な事があったとは、父も兄も策士だな、俺には難しい事だが、父上の守ろうとした武田だ、何としても守って見せようぞ。
永禄元(1558)年閏六月十一日
■駿河国 薩埵峠 恭仁親王
此処を越えれば、いよいよ相模までは伊豆一国を残すのみ、今回の事が無ければ、何れは天台座主として生を終えるはずの私が、征東大将軍として鎌倉へ下向するとは、人の世は何があるか判りませんね。まさに諸行無常と言えます。
尤も、父の言われる諸国の民草に安らぎを与えたいという願いを一部なりとも成し遂げている北条の治世をこの目で確かめることが出来るのですから感無量とも言えますね。
「親王殿下、峠を上がりきりますと、富士の頂を一杯に見る事ができまする」
「なるほどの、それは楽しみよ」
今川治部が確りと送りをしてくれるとは、幕府から離れたとは真らしい。
「富士が見えたぞ」
供の者が騒ぎ出しましたね。まあ富士などを見るのは初めてでしょうから詮無きことですね。
ほう、なるほど、美しい山塊です、古人が歌ったのが判る気がしますね。
「流石は、名峰富士は立派なものですね」
「はい、残念なのは嶺に雪が掛かっておりませんので、美しさに欠けます」
「なるほど、『田子の浦に うち出でてみれば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ』ですか。今の姿も充分に美しいと思いますよ」
「はぁ」
「山部赤人でございますな」
万葉集を出してみましたが、治部殿はよく判らないようですが、流石霜台殿(氏堯)は立て板に水の答えですね。これは、北條殿の面々に会うのが楽しみですね。
永禄元(1558)年閏六月二十四日
■甲斐国府中 躑躅ヶ崎館
駿河での細工が終わった山本勘助は一足先に帰った義信一行より十日遅れで帰国すると、旅塵を落とす間もなく躑躅ヶ崎館へ向かった。館へ入ると、武田晴信自らが出迎えた。
「ただ今戻りました御屋形様」
「勘助ご苦労であった」
笑顔で迎える晴信、少し不気味である。
早速、人払いをすると、勘助が駿河より持ち帰った品々を晴信に説明し始める。
「これが、唐や大秦の軍法書か」
「はっ御屋形様」
「しかし北條もアッサリと譲ってくれたの」
「左衛門佐に頼みましたら直ぐに」
「ふふふ同盟様々と言えるのう」
「真に」
「所で、この書をもらい受けた、三田の小僧はどの様な人物で有った?」
晴信の質問に勘助は少々考えを纏めながら答える。
「拙者が見た限りでは、浅はかと」
「ふむ、どの様な点がだ?」
「はっ、この様な貴重な書は本来であれば、例え同盟相手で有っても、隠し通すものにございますが、彼の者は、まるで『この様な珍しいものを持っているのだ、凄いだろう』と言うが如く、皆に見せびらかしておりました」
「小田原からの知らせ通りか」
「はっ、料理やどうでも良いことは博識と言えますが、政略軍略に関しては、完全に宝の持ち腐れ状態ですな」
「なるほど、煮貝やほうとう、佃煮などの才はあるが、それ以外の書は持て余しておるか」
相変わらずあくどい顔をする晴信と勘助。
「はっ、沢庵なる僧から受け取った貴重な書の殆どは左京大夫(氏康)と駿州(幻庵)に渡したそうです」
「その残りが、この写本か」
「はっ、余りの様を見かねた駿州が教材として渡したとか」
「しかし、源五郎が話しかけると『都にいる間は、羽が伸ばせたから枕として使っていたので、よだれの跡があるけど、欲しければあげる』と言われたそうですから」
「なんとまあ、そこまで愚物とは」
呆れたという顔をする晴信。
「まあ、愚物であればそれで良いでは有りませんか、精々利用させて貰えば良いだけ」
「そうだな、考えれば、あの親(三田綱秀)も鎌倉以来の古くさい軍法を未だに使っているそうだからな」
「息子も愚物揃いと言いますので」
「まあ、今は三田様々よ」
笑いながら、軍法書を読み始める晴信。
読み終えると、勘助を見て話し始める。
「うむー、円月廻転、一文字崩し、不動組み、武者固めとは、唐や大秦では我らの理解にそぐわない戦法があるのだな」
「どう見ても、無駄がありすぎますな」
「越後の戦狂い殿ならば、ものにするやも知れぬがな」
「確かに」
「しかし、捨て置く事も無かろう、何か新しきことが出来るかも知れぬからの、勘助が実践してみよ」
「はっ」
「して、三河の小僧は如何で有った?」
晴信の質問に勘助は熟考しながら話し始める。
「元康殿は決して本心を見せようと致しませんな」
「なるほど、では愚物では無いと?」
「間違い無く、あれは一段の逸物になりますな」
「ほう、お前がそこまで賞めるとはな、では繋ぎをいれようぞ」
「それが宜しいかと、元康殿は今川に飼い慣らせるような人物ではありません。何れ機を見たら今川を喰い破るやもしれません」
「ハハハ、面白い」
「元康殿との繋ぎに源五郎殿を使いましたが、二人とも何か感じることがあったのでしょうか、笄を交換し合っておりました」
「ほう、これも面白い、小僧が独り立ちした際に源五郎を繋ぎに送るも良いかも知れぬな」
「さようですな」
康秀全然出てきません。
宿敵同士が知り合いに、徳川家康、真田昌幸。
小田原所か、田子の浦までしか行っていない。
すみませんです。