第捌拾参話 織田家の事情
お待たせしました。
今回は康秀達はでません。織田家の話です。
次回が長嶋でのスカウト話になります。
本当ならこの後編に長嶋の話を入れるはずが、長くなりそうなので分けました。
長嶋の話は現在1100文字かけています。
永禄元年(1558)六月十六日
■尾張国 春日井郡 清洲城
三月に尾張最後の敵対者とも言える織田信賢の居城岩倉城を攻め落とし、尾張統一をほぼなし得た織田信長の居城清洲城の一室で信長と近習であり信長自身が『長秀は友であり、兄弟である』とまで言う丹羽五郎左長秀と斯波義銀に対して送られて来た征東大将軍恭仁親王からの書簡を前に話し合っていた。
「なに、岩龍(斯波義銀 名目上の尾張守護)だけが招待だと」
「はっ、征東大将軍恭仁親王様より直々の招待状でございます」
「五郎左、征東大将軍というと、あの北條が招致したそうだな」
「公方様よりのお話ではその様に」
「うむ」
五郎左の話を聞きながら、あの連中も結局は権威に縋るしかないその程度の者かと、北條一行を思い出す信長。
「五郎左、儂は呼ばれておらぬな」
「はっ、将軍家の任じた守護と国守は別物なれど、尾張の代表たる者を謁見するも大将軍の責務とのことにございます」
「ふん、傀儡の岩龍などを謁見して何の益があるのか」
「やはり形だけでもと言う事でしょうか、大和では興福寺、伊勢では北畠家を謁見し持てなしております故、尾張も斯波家というわけでは」
「なるほどの、飾りでも守護は守護か」
信長は、五郎左を見ながら面白可笑しそうにニヤリとした。
「殿、声が大きすぎますぞ」
「何の、ここには、儂と五郎左しかおらぬわ」
「それでも壁に耳あり障子に目ありとももうします」
「全く五郎左は心配性よな、ならば耳を貸せ」
五郎左の心配を余所に益々ニヤニヤする信長に呆れながらも五郎左は耳を近づけると、信長は耳に“ふーっ”と息を吹きかけた。
「ひっやー……殿!」
「アハハハハ、五郎左愉快愉快」
五郎佐の驚きように信長は大笑いした。
「えーい、殿おふざけならば、失礼させて頂きますぞ」
いいかげん笑っていた信長だが五郎左が構わず立ち上がると慌てて引き留める。
「五郎左、済まぬ。何と言っても岩龍が墓穴を掘った故、思わずはしゃいでしまったわ」
墓穴の言葉に五郎左は座り直し話を聞く。
「以前、形だけでもと足利一門の石橋義忠の仲介で三河の吉良義昭と会談させたが、あの時はお互いに席次を巡って争いまともな挨拶も行わなかったが、今や岩龍も十八、分別が付く年、この所知恵が付いたのか、石橋や吉良と良からぬ事を相談しておるからな。そろそろ切り時だが、親父(斯波義統)のように始末してくれる者もおらぬからな、些か岩倉を討つのが早すぎたかの」
「殿」
信長の言葉に五郎左が渋い顔をする。
「儂の考えは、岩龍が守護として将軍に会うのであれば会うが良いわ、所詮は鄙の大将にしか過ぎぬ、それで岩龍が勘違いし、舞い上がれば蹴り落とすも容易であろう、そこでだが、お主の家は形だけではあるが斯波の臣、そこで長嶋へ付いて行き岩龍を舞い上がらせよ」
「判り申しましたが、本当に宜しいのですか?」
「今川や二の江の坊主(服部友貞)共と共闘される前に叩くが必定よ」
そう言われては五郎左も頷くしかなかった。
五郎左との話が終わるなり、人払いが解かれると、早速近習が柴田勝家とお市が尋ねてきたと伝えた。
「御屋形様、柴田様、お市様、お待ちでございます」
それを聞いた信長は今までの厳しい顔つきから一転し、にこやかな顔で返答した。
「おう、市と権六が来たか、直ぐに通せ」
暫くすると、柴田勝家がお市をそれはそれは大事そうに手を引きながら現れた。
その間に五郎左は正面から横へ移り話の邪魔に成らない様にする。
「御屋形様にはご機嫌麗しく」
「兄上様にはご機嫌麗しく」
畏まって挨拶する勝家と市であるが、信長は満面の笑みで答える。
「権六、その様な畏まりは無用だ、我らは兄弟ではないか、のう市」
勝家からすれば、そう言われても何とも言えないので困って汗をかく。
「兄上、権六様が困ってしまいますよ」
市が火傷をした顔を髪で隠しながらもにこやかに答えると、信長も市の明るさが戻ったことに内心では涙を流し“市すまなんだ”と思ったが、口に出す事が出来ずに今日来た理由を尋ねた。
「市、急の訪問は如何したのだ?なにか不都合でもあったか?権六に何かされたのか?」
どう見てもシスコンの兄馬鹿状態で有るが、身内に関しては滅法甘い信長らしい姿を見て、更に市はクスクスと笑い出す。
「兄上、そうではありませんよ。権六様は私のような者には勿体ないぐらいの良きお方ですし、この方と夫婦になれて望外の幸せですよ」
そんな恥ずかしい事を真顔で言われた勝家は厳つい顔を真っ赤にしている。
「そうか、それならばよいが、それにしても権六、その姿はまるで茹で蛸のようじゃぞ、五郎左もそう思うであろう」
勝家の姿を見て信長も市も大いに笑うが、五郎左は先輩を笑うわけにも行かずに脚を抓って笑いを我慢した。
「兄上、その様な事をお聞きになるとは五郎左が返答に困って可哀想ですよ」
市も幼い頃から真面目な性格である五郎左を知っている故に助け船をだした。これに五郎左は感謝し軽くお辞儀をした。
五郎左の姿にまた笑いを見せた信長だったが、直ぐに市に向き直って理由を聞いた。
「所で、市、何の用なのだ?……まあ別に用が無くても会いに来てくれれば良いのだがな」後半は小声になっており市には聞こえなかった。
徐に市と勝家が真面目な顔になり信長に伝えた。
「兄上、この度、権六様のややこを授かりました」
シーンとする座敷。
暫くして、正気に返った五郎左が言葉を発した。
「御屋形様、おめでとうございます」
未だ眼がパチクリしている信長であるが、次第に事情がわかると、満面の笑みになり叫んだ。
「市、でかした!そうかそうか、それは目出度い、そうじゃ五郎左、直ぐに熱田に安産の祈祷を頼むのじゃ!」
「兄上未だ早うございますよ」
「市、市、その油断が危ないのだぞ、のう権六、そうじゃ幼名が必要だな、のう市、儂が付けよう」
舞い上がった信長が幼名を決めると言うと流石に笑っていた市も真顔になって反論した。
「兄上、その件はお断り致します」
「市、何故じゃ?」
市に拒絶された信長が驚きの表情で聞くが市は凛とした表情で答える。
「今まで兄上がお決めに成られた幼名は奇妙だの茶筅だの全て変なものばかりではないですか、そんな名を付けられたら堪りません」
「市の親代わりである儂が付けても良いであろうが、奇妙も茶筅も良い名前ではないか……」
凛としながら静かな怒りが見える市の態度に小声でブツブツという信長。
「兄上、何か言いましたか」
市にキッと睨まれてタジタジになる信長。
「市よ、御屋形様がお困りだ、幼名ぐらい大丈夫で有ろう」
信長のあまりの落ち込みぶりに勝家が口添えするが、市も譲らない。
「権六様、兄上の感性を信じては馬鹿を見ますよ。家臣に米だの犬だのと付けている人ですよ」
「そうは言っても、市」
権六も市には頭が上がらないようである。やはり織田家の女は怖いのである。
あまりの気の毒さに五郎左が助け船を出した。
「御屋形様、お市様、差し出がましい事でございますが、御屋形様が元服の際の烏帽子親を勤めるというのは如何でしょうか?」
その言葉に、光明を見た感じの信長は『五郎左よう言った』と賞める。
まあ、男か女か判らない状態での話で有るから、この辺で手を打つかと市は考え承諾した。
「判りました、五郎左の顔を立ててその話を受けましょう、権六様も宜しいですね」
市の言葉に頷く信長と勝家。
その後、ブツブツと『三郎から取るべきか、信長から取るべきか、はたまた親父の秀か』などと妄想する姿は完全に可愛い可愛い妹の妊娠に舞い上がっていた。その姿はとてもではないが後の第六天魔王って誰?状態と言えた。
喜びまくる信長の姿を呆気に取られて見る勝家であったが、市からは、『兄上は私や犬の事では何時もこうですよ』と言われ信長に対する畏怖が少しだけ和らいだのである。
その日から、数日間は清洲城では市姫懐妊のための宴会となった。そんななか、信長が勝家と二人だけで話をしていた。信長は下戸であるが珍しくも呑みながらである。
「権六、市のこと良くしてくれて本にありがたい」
真顔で勝家に礼を言う信長に勝家は恐れおののく。
「御屋形様、勿体のうございます」
そんな勝家の姿を見ながらニコリとし信長は更に話す。
「権六よ、市はあの件では気の毒なことをしてしまったが、儂にはどうすることも出来なんだったが、一時は自害までしようとした市が、お前のお陰で昔のような明るさが戻ってくれた。権六お主だからこそ出来たこと、感謝するぞ」
「御屋形様……」
信長の真摯な態度に勝家は更に感動し体が歓喜に震える。
「昨今は市があの様になる前(末森城落城で顔に火傷を負った)は『市様、市様』と五月蠅く纏わり付いてきていた者共が掌返したように姿を現さなくなったうえに今度は『犬様、犬様』とお犬に纏わり付くようになりおったわ」
信長の言葉の端々に怒りがあることを感じた勝家にも信長がよほど憤慨している様が判り肝を冷やすが、
そんな事は忘れたとばかりに信長は一転して温和な顔で勝家に話しかけてくる。
「それに引き替え権六は、市のあの姿を間近に見ながら市を好いてくれた、そして市の心を救ってくれた。儂には出来ぬ事で有った。そして子まで成してくれた。権六、お主こそ我が兄弟よ」
信長の脳裏には何かにつけて張り合い、最後は自ら手に懸けた信勝の姿が映っていた。
この話を聞いた勝家は益々信長に傾倒して行くことに成る。
この年の暮れ市は元気な男児を産むことになる。
男児の誕生に勝家、市よりも信長の方が舞い上がり、再度幼名を付けるなどとほざいて市に無言の圧力をかけられる嵌めになるが、赤子でありながらも自分が僭称している上総介と三郎をたした介三郎と言う仮名を与える事になった。
赤子の幼名は於国丸、後に柴田介三郎長勝と名乗り、数奇な運命を辿ることになる。
信長の家族への感覚は家康のドライに比べて段違いなのでこんな信長もありかなと考えました。