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三田一族の意地を見よ  作者: 三田弾正
第肆章 帰国編
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第漆拾玖話 伊勢神宮へ

お待たせしました。

伊勢神宮へ到着ですが、海賊との話は次話です。

永禄元年六月二日


■伊勢国山田


百地丹波、望月出雲らの見送りを受け、伊賀、甲賀で増えた者達と望月千丸、美鈴やお付きの者十人と共に百地屋敷を後にした。一行が進む周りには、鵜飼孫六率いる甲賀衆と百地泰正率いる伊賀衆がつかず離れず付近を警戒しながら護衛していた。


一行の向かう先は、当初は北畠具教へ挨拶する為に北畠家の根拠地多気御所へ向かう予定で有ったが、予想にもしなかった滞在の延長により、具教を含めた北畠の面々が伊勢神宮の式年遷宮に参加する為、伊勢神宮を抑える戦略的要衝であり北畠三御所と呼ばれる有力分家の居城田丸城へ移動していた為に、直接伊勢神宮に滞在中の征東大将軍恭仁親王一行と共に至近の伊勢山田に滞在中の氏堯達に合流することにしたのである。


康秀達は長順以外は健脚の為に、山道を行くこととし、名張瀧口からほぼ一直線に南東へ向かい、僅か三日程度で伊勢山田へと到着し氏堯一行へ合流した。(伊勢神宮への道中は何も無かった。尤も山賊や盗賊が出たこともあるが、襲いかかる前に甲賀、伊賀衆に一掃されていた)


到着早々に、氏康から、甲賀伊賀衆の雇用に関しての労いの言葉が書かれた文を氏堯から渡されたが、それには、ウンザリすることも書かれていた。氏康、幻庵曰く『宿老、武将中で風魔を含めた忍び衆を高給で雇うことを無駄だと言う者有り。帰国後に康秀に退治させるので良く考えておくように』と、此を三田康秀は『対峙なのに字が間違っている』と指摘したが、氏堯曰く『態とだろう』とのことで、益々ウンザリするはめに成った。


そんなこんなで、慌ただしい中、康秀は里見海賊衆(水軍)に負けっ放しの北條海賊衆強化の為に予てより計画していた、九鬼嘉隆の勧誘に動くことになった。その為に既に征東大将軍命による伊勢神宮式年遷宮への参列を求める書状を送っていたのであるから。





■志摩国 田城


その頃の九鬼家は志摩半島に根拠地を置く志摩十三地頭とも呼ばれる海賊衆の中で曲がりなりにも同盟を結んで共存の道を模索していたが、九鬼家だけは他の海賊との抗争を繰り返し続けて来た過程で力をつけ志摩海賊の中でも抜きん出た存在と成りつつあった。その為に最近では九鬼家と特に抗争が激しい志摩七党と言われる者達は伊勢守護北畠家へ接近し傘下に収まるなどして、九鬼家との抗争を続けていたが、九鬼家の勢いは収まらずにいた。


そんな九鬼家の本拠地田城城では当主である九鬼浄隆くき きよたかが大王崎にある支城波切城主である弟の九鬼嘉隆くき よしたかを急遽呼び出していた。


「兄貴、急な呼び出しだが何の用だ?」

海の男らしく真っ黒く日焼けした十七歳の嘉隆は開口一番に尋ねた。

「そう急かすな、先ずは此を見て見ろ」


浄隆が手渡した書状の表面には菊花紋と桐紋が描かれており皇家縁の者からの書状であることが明白であったが、嘉隆にしてみれば『皇室なんぞクソの役にも立たぬわ』と乱暴に開け中身を読んで行くが、最初は普通に読んでいた顔が次第に真剣な表情に成って行き、読み終わると兄に詰め寄った。


「兄貴、此奴は、えらい事になりそうだな」

「そう言う事よ、北畠は帝には弱い、今回帝の弟宮が征東大将軍として下向するに当たり伊勢神宮の祭を行う事になり、征東大将軍が間に入って我らと他の奴等(志摩七党)との手打ちを致すと言う事よ」

「兄貴よ、罠の可能性も有るのではないか?」


嘉隆に言われた浄隆が『判っておるわい』と言い張る。

「そうだな、小浜らが何やら談合している様だし、北畠との関係もきな臭くなってきているからな」

「そうよ、下手に行けば騙し討ちされる可能性が高かろう」


そう言われた浄隆は断ると後が怖いかも知れないと考え込むが、名案が湧き嘉隆に話す。

「しかしな、征東大将軍からの命では断るわけにも行かぬ」

「そうは言っても、所詮は貧乏帝の為に坂東くんだりへ金の無心に行くのだろう?」

非常に失礼な考えではあるが、今までの朝廷の貧困や零落を考えれば志摩の海賊に北條が動いた事による絶大な効果とそれに関する裏事情を考えろと言うのは酷なことである。


「そうかも知れぬが、北畠は形の上では志摩守護職でもあるからな、此処で断って、奴等と北畠に儂の討伐の大義名分を与える訳にも行かぬし」

「そうじゃが、今の状態で行っても、余り良いことは起こらんと思うぞ」


「しかし行かぬと帝の不興を買うかも知れし」

浄隆は堂々巡りの思考になる。

「まあ、難しいな」

浄隆の言葉に嘉隆が頭を振る。


暫く会話も無い状態で時間が過ぎる、浄隆は目を瞑り口をへの字に曲げて考え込み、それを見ていた嘉隆は面白く無さそうに鼻毛を抜いて『ふっ』と飛ばしている。


更に時間が経つなかで、浄隆がカッと目を開いて嘉隆を見ながら話しはじめた。

「そうじゃそうなのじゃ、孫次郎(嘉隆)儂は此から病にかかる故、お前が代わりに行ってこい」

いきなりの指名に嘉隆もハッという顔をするが、直ぐに事態が判り憤慨する。

「兄貴何を言いやがる。俺を捨て駒にするつもりか!」

いきなりの指名に嘉隆は憤慨する。


「そんな訳があるまい、お前の武略と知略ならば充分に罠など有っても乗り切れると考えての事だ、それに連中が狙うとすれば当主で有る俺だ。俺が病でお前が伊勢に行っていれば連中はこっちを攻めるはずだ。その上、伊勢社の引越は久しぶりだから、そんな目出度い時に戦をする事は無いだろうよ、奴等は神罰が下るとかって言うんだからな」

浄隆が宥め持ち上げるようにして嘉隆の機嫌を宥める。


「はぁ、万が一誰でも良いとか抜かす奴だったらどうするんだ!」

それでも憤慨する嘉隆を宥めるために浄隆は奥の手を出す。

「孫次郎、行ってくれるならおまえが常日頃言ってきている、ここと波切の上がりを五分五分にしても良いぞ」


「はぁ?」

九鬼家の場合、警護料などと称して伊勢湾から大王崎を通る船から徴収する通行料の内でも内陸にあり鳥羽までは加茂川を下って向かう上に、伊良湖水道の対岸には渥美半島、知多半島に跋扈する海賊衆、特に織田家と繋がりの強い知多半島大野に跋扈する佐治氏が伊勢湾海上交通を掌握していた為に田城と波切では、伊勢湾から熊野を通り堺へと向かう航路の難所である大王崎を望む位置に湊のある波切では稼ぎが違うのであるが、そこは本家と分家、兄と弟の力関係で波切の稼ぎが九鬼本家へと上納させられていたのである。


その上納の上がりを変更しても良いとの提案を浄隆がしたのであるから嘉隆も驚きを隠せないが、其処は強かな嘉隆である。兄がよほど困っている事を察し、直ぐさま条件のかさ上げを始める。

「まあ、仕方が無いが、行ってやる。だが波切の上がりは四対六から七対三にして貰うぞ」

嘉隆はチャッカリと大王崎の通行料を今までの四割から七割に増やせと交渉する。


「うむー、七割は辛いぞ、五割にしてくれ」

「いや、七割じゃなきゃ行かねーぞ」

七割ではとてもとてもと言う表情で浄隆は条件の修正を切り出す。

「じゃあ六割でどうだ?」


六割と言っても所詮は自分以外が生き残れば九鬼は安泰であり、何かにつけて突っかかる孫次郎が害されてもどうという事はないという感覚であるからこそ、本音で言えば七割を認めても良いが、アッサリ七割を認めた場合、絶対に孫次郎が怪訝に思うと考え値切りを行う。


七割から六割へと言われて嘉隆は暫く考え始める振りをしてから答える。

嘉隆にしても七割をアッサリ認めたら、怪しいと感じたのであるが、兄の値切り具合に騙され、安心して応諾する事した。兄の方が弟より些か知略があるようであった。


「判った六割で手を打とう。約束だからな」

「判っている。熊野牛王符くまのごおうふに書いてやるわい」

「それならば良かろうて」

結局の所、彼等は海賊であるが故に金には目がないのであった。

こうして、九鬼嘉隆が康秀と会うことに成るのである。




永禄元年六月五日~七日


■伊勢国 伊勢神宮


伊勢神宮では後花園天皇が永享六年(1434)九月二十三日に取り行った第三十九回外宮式年遷宮、寛正三年(1462)十二月二十七日に取り行った第四十回内宮式年遷宮以来取り行われる事無く修繕でお茶を濁していた。今回は北條家の全面的な後援により外宮は百二十五年、内宮は九十七年ぶりに行われる遷宮であった。


この様な慶事に後水尾上皇、方仁帝も殊の外喜び、両者の代理としての征東大将軍恭仁親王の他にも、京にいる公家衆の中でも伊勢まで来られる者達は、この日に備えて衣冠束帯を新調し参列していたが、関白近衞前嗣は病を口実に引きこもり参列せずにいた。また将軍足利義輝と三好長慶が洛外での戦闘中で有る関係で、来たくても来られない公家衆も多々存在していた。特に太閤である二條晴良、九條稙通らは北條家との繋がりの深さから道中の危険を帝と上皇より考慮されて参列を見送らせられていた。


参列者としては伊勢国司北畠具教を筆頭に大河内、木造、坂内、田丸、星合、岩内、藤方、波瀬などの北畠支流、神戸、関、長野などや伊勢国人衆、普段は仲の悪い伊勢神宮内宮祠官の荒木田氏一族、外宮祠官の渡会一族、志摩国人衆、近隣の寺社などが征東大将軍恭仁親王の呼びかけに応える形で参列していた。


更に、同行してはいるが親王一行とは別で有るという形を取っている、延暦寺、金剛峯寺、本願寺などの坊官も参列し、呉越同舟という感じであったが、お互いに旅の最中に散々論法し合う事で険悪な状態では無くなって居た事で、今回の参列と成って居た。


また普段は何かと競い合う内宮と外宮、最近では内宮の鳥居前町である宇治と外宮の山田の対立が激化しており、たびたび町や神宮が炎上していたが、今回は流石その様な事を起こされてはと、勅により馳せ参じた北畠勢数千による警護により争乱も無かった。


式典は、古式に則って遷御せんぎょが内宮から始まり、それが滞りなく終わると三日後に外宮でも遷御が行われた。壮大な規模で式年遷宮が取り行われた事で、今回の事は朝家復興の証として本朝に鳴り響くこととなり、方仁帝の御名と共に、多大なる奉仕を行った北條氏康の名が朝家の功臣としても鳴り響く事とあい成り、本拠である坂東でも北條家の事を以前のように『他國の兇徒』などと陰口を言うものが少なくなっていった。此によりある大名との関係に多大なる影響を与えることと成り、関東戦国史に新たな行を作らせることと成った。



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