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三田一族の意地を見よ  作者: 三田弾正
第肆章 帰国編
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第漆拾伍話 伊勢への道

大変お待たせ致しました。

第七十五話です。今回は説明が多い状態です。


今回は小説化の作業のために更新が滞りまして大変申し訳ありませんでした。現在2015年春の発売に向け誠意修正加筆中です。

今後とも作業のため更新が遅れる事が多々有ると思いますが、よろしくお願いいたします。


また、今年も応援して頂き大変ありがとうございました。皆様のお陰でこうして書籍化への道が開けました。重ね重ねありがとうございました。


2015年もよろしくお願いいたします。


永禄元年五月~六月


■大和~伊勢


康秀達が塚原卜伝と会った翌日五日には、卜伝は竹刀の礼として氏堯に頼まれた恭仁親王への剣技を見せる為に親王の元を訪れ歓迎された。その後歓待された卜伝は翌日には足利義輝の待つ近江へと帰っていった。七日には大和での予定を消化した恭仁親王一行も重い腰を上げ伊勢へと向かうこととなった。


大和から伊勢へ向かう道は数有れど、恭仁親王の下向を伝え聞いた伊勢国司いせ こくし北畠具教きたばたけ とものりから是非お寄り下さいとの使者が来た事と、興福寺東門院院主衛尊(北畠具親きたばたけ ともちか)が北畠具教の実弟であり同行と案内を名乗り出たために国司館のある伊勢国一志郡多気へと向かう事と成った。


一行はまず奈良から南下し上ツ道を通り、古市、石上、柳本、三輪へと向かう七日中には到着し翌八日、大和国一宮大神大物主神社へと参拝した。大神大物主神社は日本でも尤も古い神社の一つとして古来より皇室との繋がりも深く、多くの参拝客で賑わっていた。付近には平等寺、大御輪寺、浄願寺(尼寺)の三つの大きな神宮寺もあり、三輪全体で親王の東国下向に対する神事が行われたのである。また付近は大和三山、神武天皇が都を置いたという伝説のある橿原も近く歴史の息吹を聞く場所であったが故に、此処でも一週間程の予定が組まれていた。


早く帰りたい兵達にしてみれば堪らない事で有ったが、康秀監修の糧食と帰國後の恩賞が約束されていたために仕方なしに時間を潰していた。そんな最中にも工兵隊は、大和守護と言える興福寺と伊勢国司北畠氏の許可を受けて、ただひたすら大和から伊勢へ抜ける伊勢街道を親王一行が通りやすくするために黙々と道普請を行っていた。特に難所と言える石割峠いしわり とうげ不動峠ふどう とうげ鞍取峠くらとり とうげなどでは輿が登りやすく歩きやすいようにつづら折りの道幅を広げ踏み固めるなどの行為を行っていた。


 本来で有れば敵の進入路と成る可能性のある他國からの道を整備するなど戦国の世であればあり得ない事であったが、今回は新帝弟宮の東国下向であり、更に伊勢神宮の永享六年(1434)以来百二十五年ぶりの外宮の式年遷宮で有る事と、伊勢本街道は、神宮を伊勢に祀った倭姫命が大和から伊勢へ向かった際に通った道といわれており、その故事に習って恭仁親王の下向が行われたとされたために、両者とも断れなかったのである。


伊勢本街道は三輪、初瀬、榛原、山粕、菅野、奥津、多気、津留、相可、田丸などを経て、宮川を渡って伊勢神宮に至る道であるが、他の道と比べて大和より伊勢へ直線で結ぶために高低差が大きくその為に難所と言える峠も幾つか存在した。北畠氏はそう言った険峻な峠を頼みとして多気御所を難攻不落の要害としていたが、敵の少ない大和方面のみの普請であるが故に許されたようなものである。


その様な行為により十四日に三輪を発った親王一行は無事伊勢へ向かい途中榛原で一旦伊勢本街道からはずれ初瀬街道はせかいどうを向かい一日がかりで山中にある室生寺へと参拝し宿泊した。翌十五日に榛原へ戻り、工兵達が整備した峠道を悠々と通過し十七日には伊勢へと入国した。


大和伊勢の境の敷津には北畠具教自身と実弟である木造具政こづくり ともまさ、宿老で大湊代官でもある鳥屋尾満栄とりやお みつひでらお歴々がこぞって親王の入国を祝った。具教としてみれば天文二十三年(1554)に従三位・権中納言に叙位任官し朝廷から官位を授かって順風満帆な中で態々朝廷との間に波風立てる事も無く、嘗て先祖が仕えた南朝は既に消え去り今更北朝系の親王だなんだと言っている時代では無い事を在り在りと感じていた為、此処で更に良い所を見せ、更なる官位上昇などを考えており。その上、伊勢神宮の式年遷宮を行う事で自ら金を出さずに神宮の外港である大湊に多大なる益をもたらす事が容易に想像出来た。


更に北畠家としても影響力を持っている伊勢志摩の海賊衆の統制にも朝廷のお墨付きと神宮の影響力を利用し更なる引き締めが可能であると考えていた。北畠家としては最近になり志摩波切の九鬼一族が自家の統制下から次第に逸脱しつつあることを苦々しく思っていたことも鑑み、親王下向は渡りに船と言えたのである。


親王一行は北畠勢の案内で興津をへて飼坂峠かいさか とうげを越え多気へと到着すると多気御所の周りは、北畠家臣一同が整列し親王一行を出迎える。そんな姿を見ながら北條家兵達は鳥屋尾満栄の差配で城下の各屋敷で旅塵を落とすようにと案内されていく。


親王一行と北條氏堯、氏政らは館に案内され見事な曲水池泉の鑑賞式庭園を望む座敷へ入る。(この庭園は第七代北畠晴具の義父細川高国が作庭したものといわれるもので戦国時代の庭園として非常に著名なものであり「米」字形をする園池と立石による枯山水となっていた)


この場で、北畠具教からのご機嫌伺いと共に征東大将軍就任、東国下向、伊勢神宮式年遷宮に関する祝いの品々と献金の目録も献上された。それに対して親王も事前に衛尊より事の次第を聞き及んでいたため、具教の意図を的確に把握しており、兄の新帝への口添えを約し場は非常に和やかな状態となった。


更に先だって具教の剣の師である塚原卜伝に会い剣技を披露して貰ったという話で盛り上がり、具教自身が親王の前で剣技を披露するなど宴は夜通し続いたのである。結局多気では三日三晩の宴が行われ親王一行は元より兵に至るまで鱈腹酒肴を頂き大満足で二十日に多気を発ったのである。


一行は木造具政、鳥屋尾満栄らの先導で伊勢神宮へと向かう。途中一泊し二十一日には伊勢神宮の門前町山田へ到着した。其処でも外宮禰宜である度会一族の歓待を受けるとともに、山田の町でも大歓迎を受けた。何と言っても百二十五年ぶりの式年遷宮であり、既に各地から材料が続々と山田の外港とも言える大湊へ陸揚げされ宮川や勢多川を遡り蓄積されているのである。それに伴って人足なども多数集まり、最近の寂れ具合が嘘のように賑わいを取り戻していたので、皆が皆、懐が温かくなっていたのである。


親王一行はこの地で式年遷宮の儀式を行った後、大湊より湾を通過し熱田神宮へ向かう予定で有るが、何分この季節は野分(台風)が来るかも知れず、安濃津、桑名、長嶋を経て尾張へ向かう陸路を使う可能性も考えられていたが、幾ら野分が来るかも知れないと言っても式年遷宮の儀式に出ない訳にもいかず、かといって社殿が出来る前に儀式をする事も出来ないという事になっていた。


尤も此は親王のせいではなく、只単に久々の式年遷宮の為に神宮側が手順に戸惑った事が大きな要因と言えた。その結果、兵達は更に待たされる羽目になった。共に下向する穴太衆、宮大工、鋳物師、鍛治などの職人衆は造営を手伝うことも出来たが、彼等が神宮の造営を手伝う訳にもいかずに扱いに困ることと成ったが、康秀から送られて来た文により彼等は先に先発し大湊より船で伊勢長嶋まで向かうことと成った。


此は、康秀が今後関東の開拓には長嶋などで輪中を築き維持してきた民の技術を取り入れる事が肝要であると常日頃言っていたことを、今回出来た時間である程度のコツを掴ませようとしたからである。此により工兵達は三千五百の内、五百を山田に残し三千を持って二十六日に伊勢長嶋の願証寺がんしょうじへと向かった。


願証寺は本願寺八世蓮如の六男蓮淳により、明応十年(1492)頃までに、香取庄中郷杉江の地に創建された浄土真宗の寺院であり蓮淳が本願寺十世証如の外祖父でもあったことから、本願寺教団中枢においても重きをなしていた事で石山と繋がりが強かった事、更に長嶋を中心に輪中を含む付近一帯から帰依を受けていた事で指導を受けるにも寄宿するにも非常に都合の良い場所であった。更に北条氏康が本願寺顯如の義父と成るに至って、北條家と本願寺の関係は切っても切れない関係となり、今回の関東への帰國と共に関東への本願寺末寺の再建を命じられた下間融慶らが共に旅をしてきたことも相まって願証寺への案内と段取りを願ったところ、快諾されたことで康秀の案が通る事と成った。


兵達は僅かの時間で伊勢長嶋へ到着し此処でも大歓迎を受けた。流石に今までのような豪華絢爛な宴などは無かったが、地元の人々の心を込めた持てなしに国に残してきた家族などを思い出しホロリとしながらお袋の味を楽しんだ。結果的に彼等はこの地に一月ほど逗留し技術の習得に努めたのである。彼等は輪中の皆と打ち解け始め、未亡人や若い娘などからの歓待もありこのまま此処に住み着きたいと言う者や、妻として連れ帰りたいと言う者も出ることになる。此に関しては後に連絡員や技術習得の為と称して一部兵の残留が認められ、妻として連れ帰ることも許可されたために益々、輪中と関東との繋がりが強くなり、康秀の目論んでいた“輪中の民の中で次男以降の家を継げない者達を関東へ移住させ関東への湿地帯や河川の改良のために輪中で培った堤防作りなどの技術で腕を振るって貰う”という計画の推進に大いに役立つことと成った。


彼等にしても水ばかりで田畑の少ない輪中では然う然う田畑を増やすことも出来無いために、分家して嫁も貰うことも出来ずに、実家の使用人として一生を終えるか、足軽として出稼ぎにいくかしか無かったのであるから、それが自ら開墾するとは言え、土地が与えられて支度金まで出ると言えば否と言う訳が無かったのである。その上、以前の北條と違い今の北條は真宗を迫害せず、顯如様の義父でもあることから信用度が大きく上がった。更に願証寺としても石山と小田原の間にあるという点が今後の事を考えても非常に魅力的であった事、それら複雑な要因が交差し今回の話が纏まったのであった。


これらにより、今後多数の真宗信徒が関東の荒地開墾に汗を流すことと成った、彼等の努力は十数年後に花を咲かせる事と成るが、今はまだはじまったばかりである。




永禄元年五月十五日


■伊賀国名張郷


親王一行が室生寺へ向かう途中で山部赤人の墓へ詣る行列を山から見る集団があった。

「融深様(長順)、典厩様、少々厳しき道でございますがご勘弁を」

「気にするでないぞ」

「猪助、この程度は大したことは無いさ、実家の山に比べたら低い物だし、幻庵様の修行で登った箱根よりも楽だ。ですよね長順殿」

「そうですな、父の修行は苦行でございますからな。この程度では未だ未だですな」


そうで有る、三田康秀と北條長順は二曲輪猪助を案内人にして親王一行が通過している初瀬街道を眼下に見る北側の尾根を登りある人物に会うために一路伊賀へと向かっていたのである。

「融深様、典厩様、後に一刻もすれば伊賀へと入ります。此処からは細心の注意が必要にございます故、色々指図致しますが平にご容赦下され」

「気にするでない」

「左様、我等が此処まで来られたのは猪助のお陰よ、気にせず差配してくれ」

「御意」


深山麗谷の宇陀川を眼下に見ながら山道を康秀一行は進んだ。その先に逢うのは鬼か蛇か?

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