第漆拾話 帰國へ
大変お待たせ致しました。
やっと帰国の始まりです。大分詰め込んだ感じです。
葦葭の話は石田三成が秀吉からの加増の代わり貰った葦葭に税をかけて良いと言う話から、それを潰してやるぜとの康秀の嫌がらせです。
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永禄元年四月十日
■山城國 京 池邸
ここ数日、小田原へ帰国する北條家一行に対して多くの人物が訪ねてきていた。
伏見宮を始めとする皇族の面々、九條稙通を始めとする公卿の面々、三好家を始めとする武家の面々、五山を始めとする僧の面々、津田宗久を始めとする商人の面々、曲直瀬道三を始めとする面々等々、各界から来る来訪者にてんてこ舞いで対応していた。
ある者は別れを惜しみ、ある者は名残惜しそうに、ある者は小田原へ帰っても仕送り(年貢)を送ってくれとの念押しに、ある者は今後とも商売で宜しくと、ある者は共同研究を是非宜しくと、そしてある者は坂東で珍しい茶器が見つかったら宜しくと、三者三様の話をしてきていた。
そんな中、九條稙通との会談では、康秀が頼んでいた事などが話し合われていた。
「以前典厩が怪しいと申しておった、上皇様の綸旨だと申していた神事舞太夫天十郎なる者が舞舞・移他家・陰陽方より役銭を徴集する事を認めた内容の花押も印判もない御証文じゃが、典厩が持ってきた写しを調べてみたが筆跡も全くの別物と判った上に、その者が言った大永八年閏九月二日の記録にもその様な物を出した事も、その者が申した公卿が斡旋した事実も無かったのじゃ。つまりその者は間違い無き事に恐れ多くも主上の綸旨を騙り役銭を巻き上げる大悪党じゃ」
これは康秀が転生前に読んでいた歴史書の事を思い出したのであるが、小田原城下にて偽証文で役銭を取りたてていた天十郎の事を調べた結果、当人が実在し同じ行動を取っていた為、今後のことを考え写しを手に入れて、稙通に調査を御願いしていたのである。
戦乱になり偽勅が蔓延っていた為憤慨していた稙通にしてみれば、康秀の発案ではじまった朝廷、門跡寺社、公家、地下人などの各家文書の照査収集を行う事に続いて偽勅の筆跡鑑定を行った事で、今回の様な偽勅が容易に判るようになり朝廷の権威の上昇に繋がったのであるから娘婿の十河一存に次いで康秀の事を頼もしく思っていた事も有り、今回の頼みなど易い事であった。
「太閤様、忝なく存じます」
稙通は康秀の礼に手を振りながらにこやかに答える。
「なんの、典厩の洞察力で偽勅を一罰百戒に出来るのじゃからなんの事が有ろうか、禁裏では今後その様な者が出ぬように、東國におけるそれらの差配は綸旨を柳葉宮に下賜致すことと成った。西国に関しては、伏見宮がそれを取り仕切ることに決まった」
「それはそれは、此で悪徳な者が蔓延ることが緩和されましょう」
「さらには元々無主の地である河原、山野に住まう者達や道々を流離う者達や木地師などに主上の赤子としての綸旨を与え、河原に生える葦葭の伐採などに関しては全て主上の勅により無税と処す事も決まった」
「それは宜しゅうございました。古来より河原者は生産に関与せぬと散々馬鹿にされて来ました故、主上の御英断に海よりも深く山よりも高い感謝を感じるでしょう。更に木地師は惟喬親王(文徳天皇の長男ながら母の身分が低く皇位に就けなかった)の末裔を称し親王御真筆と称する木地師の免状を所持しておりますが、それに主上の綸旨が裏付け致すことで、朝家の為に働くことでございましょう。更に葦葭の無税は何かにつけて年貢を取りたてようとする馬鹿な領主共の動きを押さえることとなり、全國の河原は主上の土地と思わすことも出来、朝家復興の道しるべとなる事でしょう」
稙通は康秀の大仰な話にも嫌な顔一つせずに話を聞いてくれる。その話が終わると、康秀が東國安泰と万が一にでも歴史が史実通りに動いた際に被災するかも知れない寺社の子院を東國へ建てることの許可を主上へして貰っていた返事を伝えてくれた。
「それと、典厩の願い出ていた叡山、高野山の子院を坂東へ建立する件と明応以来うち捨てられて久しい鎌倉大仏殿の再建(応安二年(1369)の倒壊以後露座のままで有り、明応地震(明応七年八月二拾五日(1498)以来寺も興廃していた)も上皇様や主上も大いにご関心為され、勅が出る事と成った」
「はっ、重ね重ね恐悦至極に存じます」
「ハハハ、良い良い、上皇様、主上も典厩の篤心をいたく感心なされ、天台座主の応胤入道親王様、真言座主の栄任殿も快くご許可していただけたのじゃ、そればかりではなく、叡山の開山以来燃え続ける不滅の法灯と高野山の千年近く燃え続けている消えずの火も坂東へ分け与えるとのお言葉じゃ」
不滅の法灯は織田信長の比叡山焼き討ちで根本中堂と共に消え去って居たので、それを分けて貰えると言う事で康秀も大いに喜ぶ。
「太閤様、此ほどの驚愕の事はございません、誠に忝なく存じます」
「さよかさよか、寺号も叡山は主上が高野山は上皇様が御下賜為され、叡山は東叡山永禄寺と高野山は金剛山金剛寺と名付けよとの事じゃ、両寺とも扁額は上皇様御自ら筆を執られるとのこと、それに典厩の申しておった、鐘楼の碑文じゃが国家安康、君臣豊楽、川大徳心とはよくぞ考えたと上皇様、主上もご関心為さっておられたぞ、それもあって上皇様が喜んで碑文の筆を執られるとの事じゃ」
「寺号を下されるだけではなく、扁額と碑文まで上皇様、主上にはどれ程感謝しても足らぬぐらいにございます」
「国家安康、本朝が安定して平和、君臣豊楽、主上から庶民まで豊かで楽に生活でき、子孫も繁栄する、川大徳心、大河のように大いなる心で徳を与えよか、典厩よくぞ考えたものよ、此でもう少し歌が上手ければ良いのであるがの」
稙通はそう言いながらカッカッカと笑う。
笑いが収まると、一昨日、顯如と康秀が仏教の戒律と食に関する事を話したことをきいていた稙通はその事を聞いて来た。
「そう言えば、顯如殿と戒律のことを話したようじゃな?」
「はっ、嘗て天武帝は仏教の戒律に基づき肉食禁止令を出し、狩猟・漁獲の方法を制限し、牛・馬・犬・猿・鶏の肉食を禁止為されましたが、親鸞殿以来の真宗は肉食を行っております」
「うむ、そうじゃな、殺生厳禁の仏僧が肉を喰らうとはと感心できぬがな」
「それでございます。聞く所によりますれば、お釈迦様は肉食為さっておったとの事ですが、自ら屠殺するなどしなければ、お布施で頂いた物は有りがたく頂いたそうにございます」
「成るほどの、お釈迦様が肉を食べていながら、何故戒律で肉食を禁止されておるのじゃ?」
「それでございます。どうやら、唐に仏教が伝来した際に、各宗派毎に信徒の取り合いを行い“うちの方は向こうより肉を食べないから徳が高い”などと誹謗中傷合戦の結果、肉食禁止の戒律が出来たようにございます」
「成るほどの、では親鸞殿は正しかったと言う訳じゃな」
「其処までは、どうとも言いかねますが、その辺りで顯如殿と話した結果、殺傷さえしなければ気にせずとも良いのではと結論付けました」
「何とも強引な話よの」
呆れた表情の稙通を見ながら、康秀は続ける。
「それに、今では叡山の僧などは平気で女を抱き肉を喰らっておりますから、既に既成事実となっておりましょうよ」
「ハハハ、そうで有ったな、破戒僧が多いのも叡山よな」
「それに、鹿、猪、熊、狼、鶴、鴨などは平気で食べておりますし」
「まあ、確かにそうじゃが」
「それに、適度の肉食は心身共に良い影響を与えるとの事、唐人を見て判るように我等より遙かに優れた体つきをしておりますが、あれは肉に含まれる体の成長に必要な物を多く取れるからだとの事にございます」
「うむー、それも医食同源の結果か」
「はい、同じ時に生まれし犬、猫に片や穀物中心の餌を片や肉魚中心の餌を与えた結果、成長が倍近く違いました故」
「成るほどの、しかし主上に肉食解禁を願う訳にも行かぬな。典厩此処からは麻呂の独り言よ、坂東で何をしようと遠すぎて禁裏は手が出せぬから、坂東で何かあっても知るよしもない、肉を喰らおうが罰する訳にも行くまい」
「ありがたき幸せです」
「独り言じゃ独り言じゃ」
この後も、松永久秀の使いで子息の松永彦六久道とも会い、久秀に頼まれていた、精力の付く食材の献立表改訂版などを贈りその際一緒に連れてきた大饗長左衛門(楠木 正虎)と挨拶を交わしている。
稙通は出立する康秀をしみじみと見つめていた。
不思議に思った弟の花山院家輔が聞く。
「兄上、如何致しましたか?」
「いやな、娘が生きておったら、あの者に嫁がせたかったなとおもったのじゃよ」
稙通の子は十河一存に嫁いだ娘一人だけと聞いていた家輔は『兄上、まさか暈けたか』と心配した。
「娘御と申しますと、十河殿に嫁がれた鈴殿だけなのでは?」
家輔の質問に稙通は首を振ってから答えた。
「実は、鈴は双子でな。忌み子と言う事で妹の方を加茂の河原に捨てたのじゃよ」
「なっ・・・・・・・」
家輔としても双子は忌み子であると判っていたが、まさか自分の兄が捨てたとは思ってもみなかった。
「あれは、天文四(1535)の春の事じゃった。その頃麻呂は藤氏長者になったが、手元不如意で未拝賀のままに前年の天文三(1534)年十一月末に辞任して、困窮から摂津や播磨へ暫く身を隠そうとしていた頃なんや」
「そうですね。あの頃は酷い状態でした」
家輔も思い出しているのか頷く。
「そんな折や、奥が双子の子を生んだのは、けど忌み子やから長女は連れて、次女は子のいなかった地下に拾わせるつもりだったんやけど・・・・・・」
「何か手違いが?」
「そうや、赤ん坊には目印として藤をあしらった鈿を産着に刺してから下人が赤ん坊を加茂の河原の松木の下に置いて姿を消して地下が拾う僅かの間に消えてしもうたんや。恐らく野犬かなんかに連れ攫われたんやなと・・・・・・」
稙通は後悔しているのか、普段御陽気な顔つきから真剣な表情になった。
「兄上のせいとも言えますまい、それがその子の生まれついてのサガであったのでしょう」
そう言うしかなかった家輔であった。
永禄元年四月十五日
■山城國 京 池邸
池屋敷では、関東へ帰る四千五百人と池家に仕えることで残留する五百人の別れが続いていた。当初五千人程であった人数は、旅の各所で勧誘した者達とその家族、雑賀、根来の鉄炮衆、穴太の石工、番匠達、播磨鋳物師や各種の河原者など総勢一万人越えで帰國することとなり皆が皆、京雀達を驚かすための意匠を凝らした準備も済み、大いに別れと新たなる新天地への希望を胸に抱きながら明日を迎えようとしていた。
永禄元年四月十六日
■山城國 京 内裏
内裏清涼殿では平安絵巻より出てきたような大鎧に身を包んだ征東大将軍恭仁親王に対して、主上より錦の御旗と太刀が下賜された。また世継ぎの六宮には朝仁が、妹宮で養女の聖秀も秀子の名が授けられ同時に親王宣下も行われた。その後三人は文武百官に見送られ、御馬揃えの際に新造された内裏西の馬場へと移動を開始した。
馬場に着くと、準備されていた見事な名馬に征東大将軍恭仁親王が跨り、移動してきた上皇、帝を筆頭に文武百官、多くの民の歓声の中、征東大将軍の錦御旗を先頭にして順次、移動を開始した。
朝廷からも幾人もの僧籍にあった公卿の子女が還俗し、征東大将軍に仕えるために共に坂東へと下向していく。さらに六宮が修行していた青蓮院からは門跡坊官大谷泰珍が還俗し次代の征東大将軍に成る朝仁親王のお就きとして傍らにいる。彼は自ら志願したからである。
都の沿道には馬場に入れなかった多くの民が集まり、馬に乗る恭仁親王、輿に乗る朝仁親王、秀子内親王の艶やかな姿に見ほれながら旅立ちを祝福してくれている。
再建成った朱雀大路を九條まで行くと一行は一旦八條まで戻った後、西進して都へ行きて以来、北條家が資金を出して御室川に架けた桂小橋、桂川に架けた桂大橋を渡り長岡方面へと移動を開始した。
まず向かうは、大山崎の水無瀬宮とその対岸に有る石清水八幡宮へ東國下向の挨拶に向かうこととなった。此は、今回の禁裏復興は水無瀬様こと、後鳥羽上皇が康秀の夢枕に立った事であるからその御礼にと言う事であり。石清水八幡宮は祭神が応神天皇であり武人の神様であるが故に、征東大将軍たる恭仁親王が参るのが礼儀として考えられたからである。
皆様、暖かいお言葉ありがとうございました。
最近は体調も大分良くなりました。
しかし昨日大失敗をやらかしました。庭で育てていた、青唐辛子を刻んでいたら手にしみこんできたらしく、それで顔とか鼻を触ってヒリヒリするんですよね。序でに頭を触ったら血行が良くなったみたいですけどね。
今は大丈夫ですけど、すげーぞカプサイシンパワーw