第睦拾玖話 医聖
お待たせしました。
京都編最後の話です。
次回からは帰國編がはじまります。
永禄元年三月二十八日
■山城國 京 池邸
帰國準備中の康秀の元に三好義賢に仕える白井胤治が尋ねて来た。彼はある人物を連れて来ていた。
「三田殿、いよいよ御帰國でございますな」
ごく普通な挨拶から始まった話で有るが、この後、胤治から紹介された人物の名を聞いて康秀は驚いた。
「白井殿、態々の起こし忝のうございます」
「いやな、三田殿のお陰で御屋形様(三好長慶)の気の病が少しは緩和しつつあるので、主(三好義賢)に代わって礼を言いにな」
「それはそれは、ようございましたな」
康秀は三好長慶の病気が緩和したと聞いて本気で良かったと思っていた。
「忝ない、本来であれば主豊前守(義賢)が来なければならぬ所でございますが、生憎阿波へ渡っておりまして、真に申し訳ないとの事にございます」
「いえいえ、それほどの事をした訳ではございません故、その心遣いだけで忝ない事にございます」
康秀の低姿勢に胤治は益々好感を持った。
「白井殿、そろそろ儂を紹介してくれぬかな?」
堂々巡りの話に胤治の後で待っていた年の頃五十ほどの禿頭の品の良い人物が話しかける。
「おお、済まないことを致しましたな、三田殿、この方は都で天文十五年(1546)から啓迪院なる私塾を開いている曲直瀬道三殿と申して李朱医学(最新の漢方)を専攻にしておられる方でしてな、最近は御屋形様や豊前守殿を見て貰っておるのだが、三田殿よりお教え頂いた医食同源の為の食事療法をいたく感心して、私が三田殿の元へ行くと聞き、是非とも会わせて欲しいと言われまして、どうしてもと断り切れませんでした」
胤治の挨拶もそこそこに、道三が自ら挨拶を始める。
「三田様、私は、若き頃、足利学校へ赴き、其処で田代三喜様の名声を聞き師事して金元医を修めました。その後都へ帰り、医術の為に多くの弟子を育てて勉学に励んできましたが、三好様のご病状回復のための手段を持ち合わせていなかった私に比べ、三田様は食事療法でそれを緩和為された、此は新しき医術と言えると是非御教授頂きたく無理を言って参じた次第。更に三田様が帝へ献上した上その効能故に名を賜った摩訶不思議な薬の数々を是非、多くの病に苦しむ者達の為にお譲り頂きたくお願い申し上げます」
土下座しながら、懇願する道三の姿に、康秀は“曲直瀬道三と言えば医聖だよな、そんな人物が土下座するって何と言う罰当たり”と驚いていた。
「曲直瀬殿、お手をお上げ下さい」
「何とぞよしなにお願い申し上げます」
康秀の言葉にも係わらず、道三は未だ頭を板の間に擦りつけたままである。
「その様に、頭を下げてお出ででは、話も出来ません故」
「道三殿、三田殿もこう仰っておるのだから、頭をお上げなさいませ」
流石にそこまで言われると道三も頭を上げたが、心底教えを請いたいという目で康秀を見ているが、康秀にしてみれば、自分が凄いわけではなく、四百年も後の医療を知っていただけである事が、心苦しく感じていたが、今後の関係などを考えても教えないという選択は取れない事だけは判っていた。
「曲直瀬殿、私の医食同源などは単に歴々の方々の知識や経験を纏めたに過ぎませぬ故、多くの病に苦しく者達に光明を与えるお方成れば、お教えすることは吝かではございません」
康秀の答えに道三も胤治も安堵の顔をする。
「三田様、有り難きお言葉でございます」
道三は喜んでいるが、康秀は薬に関して是と言ってはいなかった。
何故なら幾ら朝廷や堺商人と言えども、北條家の最高機密に匹敵する各種薬の製造法をそう簡単に教える訳には行かないために、実物の製造は小田原で行い、完成品を畿内へ輸送する方法とする事に成っていた。更に、その薬品を一部商人などが死蔵、値の釣り上げ、転売、横流し、敵対大名への販売等を出来なくする為に朝廷や商人衆と話し合って畿内における管理最高責任者として山科言継を充て、全て任せることにしていたからである。
その為、幾ら曲直瀬道三と言えども、そう簡単に薬品が手に入るような状態では無かった。其処で康秀は現実を知らせ、更に山科言継との面談をお膳立てする事にした。
「曲直瀬殿、医食同源の書は直ぐにでもお貸しできますが、薬に関してでございますが、帝より名を賜りました以上、畿内での管理は山科卿が執り行う事と主上からの命により決まっております故、近いうちに山科卿とお会い出来る様に取り計らい致しましょう」
山科卿の名前が出て、少々困惑する道三。
「道三殿、如何為された?」
「はっ、山科様と言えば、私に勝るとも劣らない程の技量のお方であり、公卿様にございますれば、果たしてまともに相手をして頂けるかと心配にございます」
山科言継の性格を良く知らないらしく、道三は非常に不安そうである。その為に不安を解いてやろうと康秀が悪戯心を出す。
「曲直瀬殿、良い事を教え致そう。山科卿は大層な酒好きでな。曲直瀬殿が酒樽一斗でも担いでいけば、呵々と笑いながら出迎えてくれましょうぞ」
康秀の言葉に、道三は目を大きく開けて驚いているが、胤治は苦笑いをしていた。
「三田様、それは些か、酷い話では?」
「三田殿、いやはや、面白きことですな」
「真に、嘘は申しておりませんぞ」
康秀の余りの笑い顔に、皆が段々笑い始めた。その後、氏堯、氏政、長順、大道寺政繁、池朝盛、医に長ける島津忠貞親子も呼ばれて、宴を大いに楽しんだ。
「曲直瀬殿は当代一の医聖でございますな」
啓迪集を借りて読んだ事が有る、忠貞が赤ら顔で賞める。
「いえいえ、未だ未だ私に知らぬ事が多きことがよく判りましたぞ。三田様のお作りに成った医食同源を読ませて頂きましたが驚くことばかりでございました」
「流石は、典厩殿よ、医に関する事、私より遙かに勝りますな」
忠貞が康秀を賞める。
「その様な事はございませんぞ。私の物は知識だけの物でございますれば、実地を何度と行っている皆様とは経験が違いすぎまする」
「しかし、聞く所によりますれば北條様の御領地では、民が安堵して暮らせているそうですな」
胤治が何気なく話題を振る。
「私の元にも坂東からの弟子が来ておりますが、同じ坂東でも北條様の御領地出身者から聞いた話では税も安く、民への収奪も無く、夜盗共も厳しく取り締まられているとの事ですな」
「左様でございますな。確かに坂東でも北條領は安定しております」
「同じ坂東でも他からの弟子達の話は悲惨の一言でございます。皆収奪に怯え、略奪に怯えておるそうにございます」
道三の生の話に、北條側の皆が頷く。
「成るほど、やはり其処まで来ていたか。本来であれば民を護るが武士の役目なれど、昨今は民より収奪することしか知らぬようよ」
皆が氏堯の言葉をしみじみと聞きながら心に沁みかせた。
「良き言葉でございますな、心に染み渡ります」
胤治が皆の心の内を代弁していた。
帰り際に道三が氏堯に頼み事をした。
「霜台様、我が弟子の幾人かを小田原で修行させたく有りますが、御願いできますでしょうか?」
氏堯にしても曲直瀬道三との繋がりが出来るのは良い事と考えたので康秀に聞いて見た。
「長四郎、この話如何であろうか?」
康秀にしてみれば、氏堯が賛成であると言葉の端々に感じたために賛成する事にした。
「そうでございますね。非常に良いことと思います」
「うむ、長四郎もそう思うか、ならば是非も無しだな、曲直瀬殿、喜んでその提案をお受け致そう」
氏堯と康秀の話を心配そうに見ていた道三がその答えを聞いて頭を下げながら喜色を見せる。
「霜台様、三田様、誠に忝のうございます」
この後、北條家帰國の数ヶ月後、曲直瀬道三の弟子達二十名が小田原へ来てその地で坂東啓迪院を開設することになり、足利学校と共に坂東の医学の粋として発展することに成っていく。
永禄元年三月二十九日
■山城國 京 九條邸
九條邸に氏堯、氏政、康秀が呼ばれていた。
「太閤様にはご機嫌麗しく」
一応挨拶だけは確りとする面々。
「良い良い、其処まで畏まる必要もあらへん」
「では、太閤様、この度の御召しは何用でございましょうか?」
氏堯の質問に稙通が答える。
「南蛮人の事じゃが、朝議で幾度となく考えた事で、主上とのご相談で決まったことじゃが、今の事態で南蛮の邪教を捨てることが出来ぬ者が多くいる。更に堺などの商人は南蛮貿易でその財を稼いでおる者が多くいるが為に、一概に南蛮との付き合いを全て禁止する訳には行かぬのじゃ。その為に禁教を命じるが、邪教を教える宣教師以外の南蛮人まで排除する必要は無かろうと主上がお慈悲をお与えすることにしたのじゃ。昔から本朝は多くの移住民と仏教を始めとした異教を身に受けてきた事も有る故じゃな」
「成るほど、確かに本朝は古来より大陸、朝鮮から多くの帰化人を受け入れてきましたし、仏教なども外来の物でございますが、それをかみ砕き本朝風に直し続けた訳ですね」
「その通りよ、南蛮の良き物があれば取り入れ、本朝の安全のために使う事こそ、後鳥羽院のお言葉に沿うことに成ろうと、主上のお考えじゃ」
「主上のお考え、この北條氏堯、確と主氏康に伝えます」
「うむ、良き事よ」
稙通の話に康秀もこの程度が落とし所だなと感じていた。実際鎖國でもしたら文化的に遅れる可能性が大なので南蛮との節度を持った付き合いは必要と考えていたからである。それに康秀が今の所各地の商人に頼んでいる財物や、此から頼む品々は欧羅巴、阿弗利加、新大陸から搬入しなければ成らないもが多々有るために、南蛮人完全排斥を煽った事は少々やり過ぎたかと思っていたこともあったのである。
所詮は実戦経験の無い転生者学問の康秀で有るから間違いもやり過ぎもあった。
永禄元年三月二十九日
■山城國 京 池邸
夕方になり、堺から津田宗達が最後の話にやって来た。
「津田殿、色々とお世話になり申した」
「とんでもございません、当方もたんまり儲けさせていただけましたのですから」
「それはそれは」
「是非此からもよろしくお願致します」
「それは無論でございます」
その様な話が行われた中で、康秀が宗達に頼み事をした。
「津田殿、南蛮人の商人に色々な作物を持って来て貰いたいのだが」
「ほう、三田様、どの様な物でしょうか?」
「それは……」
康秀が、津田宗達に頼んだ作物はその後数年をかけて日本へと到達することに成るが、史実と違い遙かに早く届くことで、多くの民の命を救うことに成るのであるが、この時点では康秀としても一か八かの賭であった。