第睦拾漆話 堺鋳銭所
お待たせしました。
余り話が進みません。
新年度で忙しくて資料のすり合わせが進みません。
永禄元年三月十八日
■和泉國 堺
帰國間際の北條家一行は、この時期になっても征東大将軍恭仁親王の視察の随員として行動していた。
堺では、朝廷御料所に成ると共に、西國唯一の鋳銭所となる事が決まると、早速、和泉守兼鋳銭正である山科言経と和泉介兼鋳銭祐である新見富弘達と会合衆の話し合いにより、銀貨については銀吹き職人である南鐐座の湯浅作兵衛を召しだし作成させる事とし、銅貨については、鋳物師の総元締めたる富弘が河内鋳物師を堺へ移住させその任に当たらせることで話が決まった。
その話を受けた河内鋳物師達は、度重なる戦乱からくる危機から、朝廷領たる堺への移住を多くの者が望み、結果的に大多数の河内鋳物師が堺へ集まり、貨幣鋳造は元より、鉄炮生産など各種事業に引く手数多になる。その後、河内へ残った鋳物師達も次々に移住を行い、堺は一大生産拠点と成っていく。
恭仁親王御臨席の中、新たに作成された鋳銭所では、平安時代の皇朝十二銭以来久しく途絶えていた中央政府による鋳造貨幣である銅銭、永禄通寶と銀銭である扶桑銀貨及び贈答用などに使われる瑞穂金判が作成されることになった。
永禄通寶は古代より続く銅銭の製造方法である鋳造方法で製造され、銀銭である扶桑銀貨は壱匁銀(凡そ3.75g)、五匁銀(凡そ18.75g)、拾匁銀(凡そ37.5g)、五拾匁銀(凡そ187.5g)、百匁銀(凡そ375g)と五種類の製造が決まり、瑞穂金判は小判と大判が作られ小判は四匁五分(凡そ16.8g)、大判は四拾五匁(凡そ168g)として製造が決まった。
銅銭は、量目壱匁(凡そ3.75g)銅純度九割二分(92%)錫八分(8%)であり永楽通寶を充分駆逐可能な貨幣である。永禄通寶は従来の銅銭と同じく中央に四角い穴が開けられ、その表面は従来の銅銭のように上から右回りで永禄通寶と書かれているが、裏面には康秀の発案により発行年が記され、その上偽造防止の為に、アラビア数字とギリシャ文字による符号も鋳造時に記された。
銀銭は量目が五種類あり、銀八割五分(85%)銅一割五分(15%)であるが鋳造ではなく、康秀の発想による古代ローマ時代以来の均一にならされた鍛造銀の延べ板から、円形に打ち出された円盤に貨幣の模様を付けたタガネを打ち付ける方法で貨幣を作り上げる方式を日本で初採用していた。
扶桑銀は、円形の穴のない銀銭で、表面に五三の桐紋と下面に右から左書きで、壱圓から百圓までが書かれている。裏面はアラビア数字で1~100までの数字と発行年が打刻されているが、これらは打刻時に上面下面と一挙に打刻する方法で作成されている。
銅銭に比べて高価な銀銭は更に高度な偽造防止策が為された。銀銭は打刻時に円形の窪みのある台座に入れ、その上からタガネで打刻するのであるが、その際に窪みの内側にあるギザギザにより貨幣側面にギザギザ模様が付き貨幣を削って量目を誤魔化すことが出来ない様になっている。
更に、裏面には製造後にアラビア数字とギリシャ文字とローマ数字で製造番号が打刻され、鋳銭司により発行枚数が正確に記録された。此により同じ番号の銀銭は存在しなくなり偽造が非常にやりにくく成っていった。扶桑銀貨の流通後に銀銭を受け取る商人達はまず最初に裏面を見るように成っていく。
瑞穂金判は、金八割五分(85%)銅一割五分(15%)であるが、実際の取引には殆ど使われない象徴通貨として製造されるため、製造は一定重量の金をタガネで叩き俵状にした物で有る。所謂史実の小判と大判である。此にも偽造防止の製造番号が打たれたが、製造数が少ないために他の貨幣に比べ管理は楽と言えた。
また、今回の新貨幣発行に伴い貨幣の単位が詔で発せられ、古来より銅銭一枚で壱銭、百枚で壱疋、千枚で壱貫に改訂を加え、百枚で銀壱圓とされ、従来の壱貫が拾圓となった。更に小判一枚は公定歩合で銀五拾圓相当とされた。
この様な変更は、貨幣発行こそ朝廷の専属事項であることを内外に示すために行われたが、実際の所は、堺、伏見、京、奈良、博多などの大商人の協力と話し合いの元で行われた事であった。
尤も商人達も銀拾匁(37.5g)が銭壱貫とされる実態に沿った公定歩合が詔で決まったため、商売がやりやすく成った事は確かで有った。更に鎌倉以来より続く、割符の仕組みを割符屋・替銭屋などと共に整理し為替と言う新たな方法も考案された。
この際、北條側よりアラビア数字が公開された、当初は“使い辛い”“覚えるのが大変”との声も出たが、一度慣れてしまうと使いやすく計算が素早く進む為に商人の間で大流行することになる。
鋳銭所での公式行事が終わった後、既に堺へ帰っていた、天王寺屋の津田宗達子息助五郎(津田宗及)魚屋の田中與四郎(千利休)達による茶会が開かれた。
「親王殿下にはご機嫌麗しく恐悦至極に存じます。手前は津田宗及と申します」
亭主である、津田助五郎が恭しく親王一行を茶室へ案内する。此が千利休であれば親王であろうと関係無く慇懃と対応したであろうが、流石に助五郎には其処までの度胸はなかった。
「宗及、茶会は身分の上下無く楽しむ物と聞いておる。そう畏まらずとも良い。それに茶の湯では自分より宗及の方が遙かに物事を知っておろう。何と言ってもつい先日まで拙僧などと言っておったぐらいじゃからな」
ガチガチの宗及を見て、恭仁親王が笑いながら冗談を言う。それに因り場が解れた。
「流石は、親王殿下ですな、徳が高こうごじゃりますな」
山科言経が更に笑いを煽るように話す。
「ハハハ、そうよの、徳は徳でも得かも知れぬがな」
訳の判らない話で、皆が苦笑いするが、それも親王と言経の計算である。
「ささ、宗及、続きを」
親王にそう言われて宗及も気を持ち直して、昼食として懐石を振る舞う。
食事が終わると、宗及が見事な腕前で茶を点てる。
「見事なものよ」
「真に」
皆が口々に宗及の一挙手一投足に感心する。
「流石は、紹鷗(武野紹鷗)殿の弟子よな」
「真でごじゃりますな」
親王も言経も感心する。
「お恥ずかしうございます」
恥ずかしそうに宗及は答える。
其処へ康秀が風魔を使い調べていた事を暴露し歓心を得る。
「そう言えば、紹鷗殿がお亡くなりになり早三年ですかな?」
そう言われた、宗及と與四郎が頷く。
「はい、我等が師、紹鷗が亡くなりましたのは弘治元年閏十月二十九日(1555年12月12日)でございます」
「そうでござるか、茶の湯、歌道と三条西実隆卿に師事なされあれほど開花させたのでございますな」
康秀が其処まで、師匠の事を知っているのかと、宗及も與四郎も驚きながら、この方に話してみたら何とか成るのではないかと、師匠の家の相続争いを思い浮かべる。
「はい、師はそれはそれは、素晴らしき方でございました」
思い浮かべるが、流石に一商人の相続争いを宮様達に言う訳には行かないと葛藤する中、調べて事情を知る康秀が、追い打ちをかけるように背中を押す。
「宮様、我が曾祖父は三条西実隆卿と昵懇でございまして、その縁から、紹鷗殿の事も気になりまして色々聞いて歩いたのでございますが」
そう言いながら、康秀が暗い顔をするので、親王も話を聞いてみたくなる。
「典厩、何やら顔が暗いがどの様な事があったのか?」
「はっ、紹鷗殿には跡継ぎがおりますが、未だ齢九才であるが故に、家を継げずに義兄の今井久秀(今井宗久)なる者に後見を任せたのでございますが、その者の性根悪く、堺の有数の豪商でもある“かわや”の家財と殆どの茶道具を自らの物とし、子息はみじこくにされているのでございます」
宗及も與四郎も康秀が其処まで知っているとはと驚きながら、此で何とか成るのであろうかと期待する。
話を聞いた、親王も乗っ取りに話を聞き眉間に皺を寄せる。その後、康秀に言われるがままに、宗及も與四郎も久秀の悪行や行いを話し続けた。
「その童の名前は何と言うのじゃ?」
全て聞き終えた親王が徐に質問を行いそれに宗及が答える。
「新五郎と申します」
「左様か、私が何か言ってどうにかなる相手で有ればよいが、そなた達の話を聞く所ではとても聞かぬあいてよの」
「宮様、更に厄介なのは、あの者は堺では嫌われ者でございますが、松永弾正と昵懇とか」
「成るほどの、類は友を呼ぶと言う訳じゃ」
親王の話に、皆が絶句する。幾ら何でもやばい相手の悪口を言うのは危険だと思いながら。
「殿下、恐れ多き事なれど、時と場所をお選び下され」
流石に不味いと言経がやんわりと注意する。
「判っておる、この者達は信用できる故の話よ」
そう言いながら、扇で口元を隠し笑う。
「今の私では何とも出来ぬが、天は見ておられるものよ、のう典厩」
親王は全てお前のお膳立てで有ろうと、康秀に目で訴えながらニヤリと笑う。
康秀も流石は叡山で海千山千と丁々発止してきた親王殿下だと思いながら答える。
「左様でございます。天は必ず見ておりましょう」
茶会が終わり、宗及も與四郎も松永弾正の圧力ではどうしようも無いのかと、がっくりしていた。
しかし、帰洛する途中で親王が康秀に、答えを再度聞いた際に康秀は徐に詩を述べた。
「典厩、先ほどの答えを聞いておらぬな」
「やはりそう来まするか、では“時は輝、ゐの身はじけし、天之矛”という所でございましょう」
「そうよの」
康秀の詩を聞いた親王は直ぐに意味を判ったが、その他は中々判らなかった。
(今井久秀が天罰を受けるのは将軍義輝が帰京した混乱時になるであろうと言うことである)
尤もこの話自体誰も外へは話さなかったために、闇に葬られる事に成った。
しかし、この後、永禄元年十一月に将軍義輝が帰洛した混乱時、堺で師匠に旨く取り入り、婿になった挙げ句に幼い師匠の子の行く末を頼まれながらその財産の殆どを横領していた、今井久秀が急の病で死去した為、新五郎の後見人として田中與四郎、津田宗及の二人が成り、久秀と違い誠心誠意後見を行った。
二人とも、親王と北條家の暗躍を想像したが死ぬまで決してその事を話す事はなかった。それほど久秀の行いに憤慨していたからであり、恩を仇で返す様な真似をすることはするわけがなかった。
史実でも今井宗久は師匠の婿に入って後見を頼まれながら、義弟の財産を横領し、後に信長の力で追放させています。元々今井久秀と言い松永弾正久秀と同じ名前でした。そのせいか、相当昵懇だったそうです。類は友を呼ぶと言う訳ですね。当時相当悪名高かったそうです。同じ久秀同士で、お家を乗っ取ったと有名です。変わり身の早さもそっくりですね。
圓銭の貨幣制度が、明治に先んじて発布されました。ぶっちゃけ銀貨のデザインは五百円硬貨です。