第睦拾伍話 東國情勢
お待たせしました。
京都の話を飛ばして、今回も東國の話です。
前回のコメント返しが遅れて済みません。近日中に返事を書きますので、宜しくです。
永禄元年(1558)三月(新暦四月)
■関東各地
長い冬が終わり春三月となった関東各地では農民達が今年の作付けのために苗代の準備に精を出していた。弘治三年は旱魃で収穫が激減したのである。これが普通の領主であれば、凶作時には民との間で年貢の減免などでもめ事が起こるのが常であったが民第一政策の北條家の領國では、それぞれの作柄を調査し年貢の減免及び免除を行い民の生活が悪化しないようにしていた。
その様な政策をしたとしても、今までであれば、この季節は食糧不足で餓死者や欠け落ち(農地を捨てて逃げる事)が続出する所であったが、康秀の発案により数年前から始めた義倉制度によって蓄えられた各種穀物から、生活に必要な穀物が適量配給された。
更に康秀の指示しておいた渇水に強い西瓜の栽培などで、蛋白質や栄養価の高い西瓜の種なども食料として利用させたため、この年は凶作にもかかわらず、北條領國は餓死者無しという驚くべき成果を上げていた。
苗代も、康秀が指示した物で、此によって直蒔きの時と比べて、等間隔に並んだ稲で生育が良くなり世話もやりやすくなるという影響から北條領國全域に採用されつつあった。その苗代を作る農民達の顔は明るく悲壮感が見られない。
「いやー、殿様のお陰で、おらの家でも誰も病気にならなかっただよ」
「うちもだよ、昔なら、一冬で爺さま婆さまが、おっ死んだもんだがね」
「西瓜の種があれだけ食べられるなんぞしらなかっただよ」
「管領様(上杉憲政)じゃこうはいかなかっただな」
「うんだな、情け容赦なく年貢を取られたもんだな」
「ほんに、小田原のお殿様のお陰やな」
伊勢早雲以来の民本主義で大事にされている民百姓は北條家の支配を喜んで汗を流しながら仕事をしている。今年こそ豊作でありますようにと願いながら。
同じ関東でも北條の勢力圏ではない、常陸、安房、下野などでは旱魃の影響で飢饉が発生し餓死者が続出していた。また北條の准勢力圏でも國衆の支配地域の中で、目先の利益しか見ていない領主は、北條の政策である雑多な税を取らず民に余裕を持たす政策が行われずに、未だに旧来の税制で年貢の取り立てを行っているため、一揆や農民の逃亡が後を絶たずに、田畠は荒れる一方であった。
各地で発生した欠け落ち農民の一団は、次々に風の噂で聞いた食える土地である北條領へ逃げ出してくる始末である。一応北條側では、味方の地域より流れてきた者達は、説得の上帰國させようとしていたが、殆どの者が帰國を拒否して、北條側國衆側双方に悩みを残していた。
一方で敵國から来た一行には、狭山台地などに入植させ、茶畠開墾に従事させていた。此も康秀の発案であった。これら政策や種痘により疱瘡も発生せずに衛生感の強化により、北條領國の人口は増加の一途を辿っていた。
一方隣國の甲斐では餓死者、欠け落ち、疫病が多発していた。特に小山田氏の支配する都留郡では毎年のように雪害、風害、水害、旱魃などの天変地異によりガタガタの状態で有った。その為にも武田家では豊かな信濃への略奪のための侵略を強化していたのである。それを甲斐の民も自らが豊かになるなら構わないという考えで支持していたのである。
■相模國 西郡 酒勾村
三田康秀の領地酒勾村では、康秀が都へ行ってからも、残った野口刑部少輔秀政の手により、種々の改革が進み、康秀がこの村を治めた頃の、村高三百八貫から千貫を超える程に生産力が上がっていた。
木質クレオソートから製造される正○丸擬きや、綿花栽培、蒲鉾生産などの海産物加工、海藻灰から作成されたヨウ素を元にした消毒剤ヨードチンキの生産。(これと蒸留アルコールにより怪我を負った後の破傷風や敗血症などや乳幼児の死亡率が劇的に低下していた)
更に風車動力を利用したアルキメディアン・スクリューで海水を上げ浜式塩田へ揚水し、濃くなった塩水を水車動力の鞴で霧状に竹の枝に吹きかける流下式塩田法も使い、塩の増産も行われていた。
その為に、康秀の領地は、北條家内で上位を争うほどの収穫高で、多くの家臣団がその技法の伝授を受けつつあった。これは三田家側が康秀と妙の好意として教えた事になっていた。
伝授者は農学者と言う触れ込みで酒勾三田家(康秀の家を本家と分けるための称号)の家臣となっている風魔衆の一人が各地を周り伝授していた。彼は、大久保長安と同じ様に、康秀の非凡さを隠すが為に作られた人物と言えた。彼の名前は二宮金次郎尊徳と言う。
■武蔵國 埼玉郡 岩付城(現埼玉県さいたま市岩槻区岩槻城)
岩付城主の太田資正は宿老である宮城政業からの報告に青筋を立てながら唸っていた。
「中務(宮城政業)、それほどまでに百姓共が逃げ出したと言うのか?」
資正の質問に、資正の父である資頼兄である資顕、自分と三代続けて仕えてきた政業は答える。
「はっ、何分ここ十年ほどは天候不順続きでございます。その上に、河越の損害(川越夜戦天文十五年(1546))も未だ癒し切れておりません」
政業の言葉に渋い顔をしながら資正は答える。
「判っておるわ。小田原へ尻尾を振っていた兄者が死んで家督を継げたと思ったらこのざまとは情けない。折角管領様に馳走出来ると思ったのだが、何故憎っくき氏康如きに頭を下げねばならぬかと、何度も何度も悔しい思いをしたものだ」
「殿仕方が有りますまい、水は高きから低きに流れる物、既に今の管領様(上杉憲政)の御命運も尽きたかと存じますれば」
資正は政業の言葉にまた渋い顔をする。
「そうだが、未だ越後がおる、越後の長尾なれば、それに常陸の佐竹、安房の里見もだ」
「判っております。今は雌伏の時でございましょう」
「今に見ておれ、この俺が氏康包囲網を作り上げてみせるわ」
「殿、短気はなりませんぞ」
「判っておる、今はひたすら臥薪嘗胆よ、その為に資房と氏康の娘との婚姻話に乗ったのだからな」
資正は悪人面でそう喋りながら、考えていた。
“俺が家を継ぐために兄を殺り、兄嫁と姪を追い出したのだから、氏康の思う通りにしてたまるか、それに資房より政景の方がよほど俺に考えが近いのだからな、いざとなれば資房を廃嫡すれば良いだけよ”
「殿、今は辛抱の時期、努々油断無さらぬように」
「判っておる。それにしても憎々しきは、逃げた連中が狭山で開墾している事よ」
「小田原にも、百姓を返して欲しいと伝えましたが、百姓共が“年貢の減免をしない限りは帰らない”と言っておるとの事で」
「忌々しき事よ、しかし減免せねば、益々逃散が増えるか」
「仕方ない事ですが、小田原へ百姓の説得を頼むしか有りませんぞ」
「氏康め!」
資正はギリギリと奥歯を食いしばりながら呪うように呟いた。
この後、宮城政業が小田原へ向かい、百姓の説得を頼み込み、狭山から百姓が帰村してくる事に成った。しかし基幹産業が北條領のように多角的ではない岩付領では農業生産は米作が殆どで旱魃に非常に弱かった。
(この時代の荒川は現代の元荒川が荒川本流であり、(1629年徳川幕府により現在の荒川へ流路変更)末田須賀堰(1600年代完成)も作られていなかったために、天水、ため池、中小河川からの引水に頼るしか無かった)
その為に、百姓の帰村が成っても、抜本的な改革をしない限りは、天候不順による凶作と飢饉からは逃れる事が出来ない事を例え判ったとしても、一地方國衆である太田資正には難しい事であった。
■越後國 頸城郡 御舘
御舘では、越後の長尾景虎の元へ亡命し居候状態の関東管領上杉憲政が上州から来た行商人の持って来た品を見聞して遙か彼方の故郷を懐かしんでいた。
「おお此が上州で流行りはじめた、こんにゃくとな」
「はっ、管領様、この様にして薄切りにして生姜醤油で食します」
「うむ、美味よ」
「此方は、味噌田楽でございます」
「此も美味じゃ」
商人は上州や関東の名産品を憲政に献上していく。
「播磨守(大石綱元)左衛門五郎(倉賀野尚行)、どうじゃ懐かしい味よの」
「はっ、懐かしゅうございます」
「真に」
一通り食べた後、商人に褒美と買い込んだ品物の代金を支払うと下がらせた。
「久々に食した古里の味は良かったの、早く帰りたいものよ」
また憲政の望郷の念による我が儘が始まったと二人は心の中で舌打ちする。
「御屋形様、今は未だ時期ではございませんぞ」
「兵糧などの問題もございますれば」
酒が入っている憲政は二人の忠告を聞いていないと思えるほどに怒鳴りつける。
「その様な話は聞き飽きたわ。早う景虎に関東へ討ち入れと伝えて参れ!」
「その儀は……」
「良いから伝えて参れ、それに三百貫(三千万円)では足りぬ故、増やすように伝えよ」
又かと言う顔で、二人は下がっていく。行く先は無論今の主君たる春日山城の長尾景虎の元へであり、憲政の馬鹿さ加減をご注進に行くのであった。
二人が去った後、憲政は一人、こんにゃくの煮物を突っつきながら考える。
フー、あの二人、儂が気が付いていないと思っているであろうな。既に殆どの家臣は長尾に尻尾を振っておる、仕方なき事よあと数年もすればあ奴が管領様と呼ばれるのであろうからな。
そう頭の中で呟く憲政の顔には深い皺が刻まれていた。
今思えば、耳に痛い忠言を煙たがり、阿諛追従する者達ばかりを近づけて、贅沢三昧の暮らしをし、その癖、身の程知らずの陣を催し、士民に見捨てられしまった。つくづく儂は馬鹿であった。
死なずに命長らえておるが、最早死んだも同然、願わくば龍若丸の成長と管領になって貰いたい事のみだが、景虎が果たして龍若元服のおりに管領職を手放すや否や、景虎が是と言っても、他の者がどう出るか……
兵庫助(曽我兵庫助)と宮内少輔(本庄宮内少輔)に諭されて越後へ来たが、長尾と言えば祖父・上杉顕定、叔父・上杉房能を殺した家。曽我は父親(長尾為景)と違うと申したが、兄を廃し家督を奪うは不忠よ、根は親父と一緒のようじゃな。此処は、身の振り方を考えねばならぬな。
ヨーチンとアルコールで消毒すれば、革命的な事ですよね。
沢庵和尚、大久保長安に次ぐ騙り人材爆誕!
一応、畠と畑は意味が違うんです。
畠=通常のはたけ 畑=焼き畑
その為、今回は畠を使用しています。