第睦拾参話 参内
風邪でやっと完成しました。遅れて済みませんでした。
永禄元年三月八日
■京 内裏
盛況の中で御馬揃えが終わり、ホッとしたのもつかの間、翌八日早朝には氏堯、氏政、康秀は九條稙通に先導され、内裏の紫宸殿へと向かっていた。本来武家が帝から謁見を賜る際には小御所の庭で対応される事が殆どであったにも係わらず正殿と言える紫宸殿での謁見を賜る事と成ったのは、太閤九條稙通の尽力よりも、帝や上皇の感謝の気持ちが有ったようである。
「それにしても、食の祭典とは旨く言ったものや」
回廊を通りながら、稙通が康秀の行った御馬揃えを思い出しながら話しかける。
それを聞いた康秀が答える。
「大昔の大秦の知者が言った言葉が有ります」
いきなり大秦と言われて稙通が不思議がる。
「それはなんぞじゃ?」
「民衆にパンとサーカスを」
「それは?」
「パンとは大秦や南蛮人などが食している小麦粉を練って焼いた物で、我等の飯の様な物です。そしてサーカスとは、色々な見せ物行う集団です。つまり、民に腹一杯喰わせ、明日への不安を無くし、笑いを与え続ければ、不満を言う民は殆ど居ないと言う事です」
康秀の説明に、氏堯も稙通も考え込んでしまった。
「確かに、あれで主上の名声は公方と比べて大いに上がったの」
「そう言う事です。単なる馬揃えでは、応仁以来散々酷い目に有ってきた京雀達から“野蛮な物よ”と侮蔑されるだけでしょうから、あの様に人の考え付かない事を行おうと考えたのです」
そういう風に説明していたが、実際の所は単にB-1グ○ンプリとお台場○険王を参考にしただけなんだがと康秀は思っていたが、あの様な、B-1○ランプリ、フリーマーケット、パフォーマンスの複合は、この時代では画期的な考えであった。
後に、足利十五代将軍を奉じて京都を制圧した織田信長が二度にわたり御馬揃えを行うが、京雀には征東大将軍恭仁親王の二番煎じと嘲られたうえに、規模自体は大きな物で有ったが行われたのは只単に軍事パレードであり、嘗て行われたような催し物も全くなく、親王の行ったような大盤振る舞いの御馬揃えを期待していた者達からは、“所詮織田は大した事が無い田舎大名よ”と笑われるはめになる。
稙通の案内で紫宸殿に昇殿した氏堯、氏政、康秀は、緊張の趣で帝のお成りを待つ。
帝のお成りを左大臣西園寺公朝が伝えると、三人は平伏する。
御簾の向こうに帝が座ると、面を上げるようにと公朝が命ずる。
続いて右大臣花山院家輔が三人の名を告げる。
「主上、平弾正少弼(北條氏堯)、平左京大夫(北条氏政)、平右馬権頭(三田康秀)でごじゃります」
御簾の向こうでは、家輔の言葉に頷く帝の姿が見える。
此処で帝が何やら命じると、御簾が上がり直接帝が姿を現した。
再度平伏する三人に、帝が声を直接かける。
「霜台(氏堯)、京兆尹(氏政)、典厩(康秀)、内裏の事馬揃えの事、見事な差配であった」
それだけであるが、帝の意志の強い声に三人とも大いに感動し、更に平伏をし続けた。
その後、参内は出来ないが内裏再建の立役者である北條氏康と三人に、帝から天盃(御酒)と御剣が下賜された。氏康には、備前國包平の太刀が、氏堯には粟田口藤四郎吉光の短刀が、氏政には三條弥太郎守家の太刀が、康秀には無銘ながら見事な鎗が。
下賜された太刀、短刀、鎗を見て康秀は焦っていた。“藤四郎吉光って言えば、本来の歴史であれば、永禄三年に上洛する長尾景虎が下賜される物じゃないか。それに此って日本号じゃないか、黒田節の主役じゃねーか。それにこの包平って大包平じゃないか”と。
確かに長さが二尺六寸一分五厘(79.2cm)であり、ずっしり重く、樋に優美な倶利伽羅龍の浮彫があり、熊毛製の毛鞘に総黒漆塗の柄である。しかも“三位の位まで頂戴している鎗だ”と稙通から聞いたのであるから間違いないと。
氏康が下賜されたのは、康秀の推測通り“大包平”であった。本来ならこの後巡り巡って池田輝政が手に入れるはずが、北條家による朝廷への献金で資金が増えた蔵人山科言継が下賜用に京の刀商人から買い求めて居た物で有る。
因みに氏政の守家は永正十四年(1517)に伊達稙宗が左京大夫に任じられた時の礼に、当時の値段で四十六.九貫文(469万円)で購入し献上した品であったから、使い回しと言えば言え無くもなかったが、そんな事は康秀達には分からない事である。
■京 九條邸
こうして帝への拝謁を終えたホッとした康秀達は、稙通に誘われて檜の香りも艶やかな九條邸へと向かった。其処で茶など飲みながら世間話をし始めた。
「主上も御喜びで良かった事よ」
稙通がにこやかに話し、三人が頷く。
暫くすると、稙通が康秀の行った二万貫(20億円)にも及ぶと言われた馬揃えの資金を魔法のように揃えた事を、未だに信じられないとばかりに質問してくる。
「しかし、あれほど行って二万貫で済むとは驚きよ」
「元々、あの地(内野と呼ばれていた荒れ地)は手が入っておりませんでしたから、用地を買う必要はございませんでしたし、造営は連れてきた四千の工兵で事足りました」
「馬場はそうじゃが、あの料理の材料とて集めるのが大変であったろうに」
「あれは、主に小麦や蕎麦などを使っておりますから、米の様に高くありませんので」(この時代麦や蕎麦は雑穀扱いで米より大分安かった)
「それに運ぶにしても関所が多くて大変であったはずじゃ」
(この時代、皆が勝手に関所を作り通行料金を取っていたので物価が上がっていた)
「その辺は、堺より内裏造営の資材と共に運びましたので、全く手が出せませんから」
「なるほどの。それぐらいは禁裏も目くじらなぞ立てぬからの」
「と言う事です」
康秀がクスリと笑いながら答える。
「それでも、あれほどの資金をホイホイと生み出すとは」
「その辺も、色々と珍しい物を売りましたから」
そう言う康秀に、皆が頷く。
「しかし、唐物であれば判るが、あの様なガラクタが高値で買われるとは驚きじゃ」
実は御馬揃えの前、康秀が九條家を筆頭に各公家の不要な陶器を集めていたのであるが、大半の品は何処で作られたか判らない古めかしいガラクタに過ぎなかった。
「世の中には、古い物は珍しいと感じる方々もおりまして“この壺は呂宋の壺だ”と申せば百貫出しても欲しがり、“北宋の壺だ”と申せば千貫だしても手に入れようとする輩が多ございます。それと同じで、“此はさる公卿秘蔵の品で有ったが、やむを得ず手放した”と噂を囁けば欲しがる事欲しがる事」
康秀がニヤリと笑いながらそう話す。
「つまりは、連中を騙した訳か?」
氏堯が感心せんなと言う顔をする。
「騙したわけではございません。誰もそれらが百貫するとは申しておりません。品々は確かに公卿屋敷から出た物には違い有りませんし、確かに年代物でございますから、尤も余りに見窄らしくて恥ずかしくて外に出せなかった物であれば、秘蔵の品と言えましょう」
康秀のねじ曲がった答えに氏堯も渋い顔をするが、稙通は大笑いしはじめた。
「ホホホホ、流石は典厩じゃ、確かに家に隠しておいた物ならば、考え様によっては秘蔵の品よ。確かに嘘は申しておらぬし、買い手が勝手にそう思っただけじゃ。真に見事な頓智よ。霜台(氏堯)、そなたの負けじゃ」
「はぁ……」
氏堯も仕方が無いかと溜息をついた。
「それに、綱重殿の持ち帰った高麗物で、主上や太閤様達に献上した確りした由来の物以外は、與四郎や宗及に譲って万金を得ましたから。他にも内裏の濠を作った際に出た陶土から瓦職人のひよっこに手ごねで作らした茶碗に、賀茂川の黒石を砕いた釉薬を塗っては乾かしを十数回続け、瓦用の登り窯で釉薬が解けた瞬間を狙って取り出した焼き物も、與四郎が唸りながら製造させて欲しいと言ってきましたから、その辺の指導料も貰いましたし」
「王道楽土から楽焼きと名付けたわけじゃな」
「そうです。黒い楽焼きで黒樂茶碗です。まあどうせ都から帰るのですから、欲しいと言うなら譲るのも一つの手ですから」
「確かにそうじゃな」
「西國土産のあの青磁の高麗茶碗は、松永殿がホクホク顔で五百貫出して買い求めておりましたから」
康秀が人の悪い笑みを再度出す。
「うむ、あれほどの品を求めるとは、松永とはかなりの数寄者よの」
「あの東山御物(足利義政が集めた名品)である九十九髪茄子の茶入れを千貫で買い求める程ですから。尤も実休殿(三好義賢)からは、“名物ばかりに目が行って、真の茶の湯を理解していない”と言われている様ですけどね」
「まあ、形から入るのも一つの道と言えようぞ」
「長四郎、不思議に思うんだが、あんな茶碗に五百貫もの価値があるのか?」
氏政が、散々聞きたかった疑問を言う。
「ああ、見る人が見れば五千貫かもしれないし一文の価値も無いかも知れないけどね。尤もあれは朝鮮の一杯飯茶碗なんだよね。所謂庶民が使う雑器が流れ流れて甑島で使われていた訳」
康秀の答えに、氏政だけでなく稙通も氏堯も唖然としてしまった。
「めめめめ飯茶碗に五百貫も払ったのか?」
驚く氏政に、康秀がさも当然という感じで頷く。
「そう言う事、松永殿には五百貫の価値有りと思えたんだろうね。決して此方が騙したわけではないから安心さ。だって東山御物は元より、この世で名品と言われている物の中には、うがい茶碗、筆洗、薬用人参の湯飲み、油壺とか、向こうでは雑器や出来損ないがかなり有るんだよ。
今回は大文字屋の疋田宗観と此方の高麗茶碗とで等価交換した天下三肩衝の初花だって有名な楊貴妃が使った香油壺と言われているけど、実際は南宋時代の作だし、呂宋の壺と言われている松嶋だって、実際は唐物の単なる壺だしね」
その話に、グファーと崩れ落ちる氏政であった。
その姿を見ながら“ホホホホ”と稙通は腹を抱えて大笑いしはじめ、氏堯はなんとも言えぬなと言う感じで苦笑いし、康秀は“ゲラゲラ”笑いながら氏政の背中をバンバン叩いていた。
“長四郎、お前の知識は何なんだよ”
そう氏政は心の中で叫んでいた。
参内しましたけど、帝との突っ込んだ話はまた今度になります。
大包平、藤四郎吉光、日本号、幾らになるやら。