第睦拾貳話 京都御馬揃え
大変お待たせ致しました。体調不良、仕事、PCの不良などが重なり二ヶ月近くの停滞真に済みませんでした。
此からも頑張ります。
永禄元年三月五日
■山城國 京
平安の昔から都として栄えてきた京も、応仁の乱以来の各戦乱で焼け続けてきたが、北條家による内裏再建の余波により多くの職人や労働者が集まり、賑わいを取り戻しつつあった。
そんな内裏の西側、平安の昔には内裏の敷地であったが、今回の再建では敷地に含まれる事が無く麦畑しか無かった土地が整地され、立派な馬場が造営されていた。馬場は東西一町(100m)南北五町(500m)であり内裏側である東側に桟敷席などが設けられ、帝や上皇を筆頭に公家衆が見物をし、西側は平坦に整地され、其処に町衆が大勢集まり見物をしている。
時間が来ると、竹ではなく本当の火薬を使った爆竹が次々に爆発し威勢を上げ、その煙が消えると共に、思い思いの仮装をした騎乗の者達と雑賀、根来衆などが現れ、順次馬場に入って行く。ある者は山法師の格好を、ある者は南蛮人の格好を、またある者は芸人の格好をしながら馬を巧みに操り、雑賀衆は見事な鉄炮射撃を見せながら、帝や上皇や公家衆の桟敷席前を練り歩く。さらには畿内各地より集まった大道芸人が、それぞれの得意な芸を披露する。
康秀も参加していたが、悪のり過ぎてまるであの有名なアルプス越え時のナポレオンの様な特注の真っ青な衣装と真っ赤なマントで現れ、馬場で異様に目立ちまくっていた。
帝も上皇も公家衆も女房衆もヤンヤヤンヤとその姿を見て楽しみ笑う。
その中には、本願寺第十一世顯如、延暦寺第百六十五世天台座主 応胤入道親王、興福寺別当覚慶、興福寺多門院英俊などの僧侶も居た。
そして集まった町衆も大賑わいで笑い続ける。しかも都だけでなく、畿内各地からも見物人が集まっていた。
今回の御馬揃えは、恭仁親王の征東大将軍任官と共に、内裏復興と洛中の再建を記念して、大いなる祭りを行うと内外に大きく伝えられた結果、多くの人々が集まってきたのである。
また祭りの期間中は、商売には一切の税がかからないと発布されたため、それを見越して伏見や堺の商人達も集まり商売を始める。さらには、北條家自体も屋台を出して康秀監修の屋台料理を出し、賑わっている。
「いらはいいらはい、明石でとれたタコを使ったたこ焼きだよ!」
「こっちは、相模名物の熱々のほうとうだよ」
「相模名物、蒲鉾と佃煮だよ」
「大判焼きは如何かね」
「梅酒はいかがかね」
「焼酎の果実割りも有るよ」
「多田院の霊験あらたかな神領水は如何かな」
そう言う、店主と洒落た南蛮給仕服(メイド服)を着て給仕する見目麗しい女性達。
「焼きうどんおいしいよ」
「ネギ鴨焼きはどうだね、タレが美味しいよ」
「天麩羅蕎麦も美味しいよ」
捻り鉢巻きに、ステテコ腹巻きと言うテキ屋姿の若衆達。
そんな売り子達の元気な声と、旨そうな匂いにつられて、町衆が屋台に並び、恐る恐る未知の食べ物を食べる。おっかなびっくりな顔が、すぐに笑顔になり“旨い旨い”と言って食べ続ける。それを聞いた他の町衆などが、我も我もと求めて食べ始める。
皆が皆、未知の味に舌鼓を打ちながら、馬場で行われる各種見せ物を楽しみまくる。
気さくな公家衆は、町衆と共に料理を摘みながらヤンヤヤンヤの喝采をあげている。特に山科言継などの人気のある公家は、新種の酒を全て飲み干す様な意気込みで、飲兵衛連中と杯を重ね続けている。
宴は三日間にわたって行われたが、この時ばかりは、帝から河原者に至るまで皆が笑い楽しみ大いに食べまくった。
今回は何と言っても目出度い祭りと言う事で、北條側の屋台だけでなく商人が出している屋台も飲食代は全て只であり、全てが帝の思し召しとして下賜されたと発表された。まあ実際には全ての費用は北條側が出していたのであるが、北條家は裏方に徹して、あくまで朝廷が主であるとしていたのである。
三日間に及ぶ祭りで、多くの民が朧気ながら抱いていた都の支配者は幕府という感覚から、帝こそ都の支配者に相応しいとの思いが浮かび、いやが上にも帝の権威が益し、畿内各地の者達に帝の御威光を知らしめる事に成った。
成功の影には康秀の並々ならぬ苦労が有った事だけは確かで有るが。
事は、一月にさかのぼる。
「やはり、公方は和睦に応じませんか」
「そやな、向こうも意地が有るんやろうな」
九條屋敷で、氏堯と稙通が真剣な顔をして相談していた。
「さすれば、肝心の公方が居ないのでは、御馬揃は公方に対する威圧である以上、無駄に成るかも知れません」
「それなんやが、霜台(弾正少弼の唐名で氏堯の事)はんに良い考えはあらへんか?」
そう言われて、はたと考え始める氏堯であるが、よい考えが浮かばない。
「太閤様、お恥ずかしながら、よき考えが浮かびませぬ」
北條側としてみれば、何かと反北條の動きをする近衞前嗣や越後の長尾景虎に肩入れする公方を威圧する関係で、朝廷側としてみれば、応仁の乱以来まともに朝廷守護が出来ずに、将軍家、管領家などの内輪もめで徒に戦乱を長引かせる公方に対する威圧を、と両者の利害が一致しての馬揃えで有り、既に馬場の造成も終わっているにも関わらず、肝心の公方が帰洛しないのであるから、両者共に頭の痛い問題であった。
暫く目を瞑って考えていた稙通が、ポンと手を叩いた。
「うむー。そや、典厩なら、なんぞやおもろい考えをしてくれるんやないか?」
氏堯は、稙通の指摘に確かにと思った為に肯定する。
「確かに、長四郎であれば、なにか突拍子も無いことを考えつくやも知れません」
こうして康秀が急遽呼び出された。
「お呼びと聞きましたが」
康秀も一応礼儀を持って挨拶する。
「忙しいところすまぬ」
「いえ」
「早速だが、そなたも知っておるが、馬揃えに公方の参加が無くなった」
「そこでや、典厩になんぞ公方が居ないでも馬揃えが派手に成る考えはないかの?」
氏堯と稙通にそう言われた康秀ははたと考える。
暫くして考えが浮かび答える。
「ならば、馬揃えは公方の帰洛祝いではなく、恭仁親王様の征東大将軍の任官式とすれば如何かと」
それを聞いた二人が首を横に振る。
「麻呂達もそれを考えたが、それだけでは些か盛り上がりに欠けるとおもうのじゃよ」
そう言われて再度考え始める康秀、暫しの時間が経ち、ポンと手を叩いて目を開けた。
「なんぞ、思案が浮かんだか?」
「それならいっその事、全てひっくるめて、お祭りにして騒いでしまいましょう」
康秀の言葉を理解できずに二人は目を合わせて首をかしげる。
「長四郎、それは如何なる事だ?」
「最早、馬揃え自体を止めるわけには行きません。止めたら幕府の勝ちになりますから」
「そうやな、主上の名に傷が付くわ」
「その辺が、幕府側の思惑なのかもしれんな」
実際の所は只単に、将軍義輝が三好と北條が気に喰わないと言うだけであったが、そんな事は流石の稙通、氏堯、康秀でも判るわけがなかった。
「その辺りを考えれば、幕府の思惑を外してやれば良いだけと成ります」
「それが、祭りと言う事か?」
「祭りで何とかなるんかいな?」
怪訝な顔をする二人。
「祭りと言っても、規模をあり得ないほどにし、更に内外に大きく伝えて、各地からの見物人を迎え入れます。その上で、河原者達や流れの芸人達も呼び寄せ、馬揃えだけでない賑やかさを演出します。そして、大量の屋台を出し、食の祭典をも併設します」
聞いている二人は食の祭典の意味が判らないようである。
「長四郎、食の祭典とはなんだ?」
「職の祭典かの?」
「いえ、屋台と言う簡易店舗で御当地の食材や名物を使ったり、各地の名産品を調理して祭りに来た人々に食して貰う事を言うのです」
「ふむ、そんな事で、賑わいがでるんかいな?」
「まあ、確かに太閤様の御懸念のように、それだけでは余り盛り上がらないかも知れません」
「ではどうする?」
「まず今回の馬揃えは、主上の天覧になる訳ですから、公家衆の他にも五山の高僧や、奈良や石山は元より高野山、叡山、その他からも多くの方々に内裏復興と洛中の再建記念として招待を行います」
「まあ、それぐらいなら麻呂が口をきく事も出来るの」
「更に、我々が出す屋台以外に堺や伏見の商人も使って屋台を出させます」
「うむ、しかし何ら関係無い気がするが」
「その点も考慮しています」
「それなら良いが」
「その上で、全ての屋台の食事は無料に致します」
「無料とは、此はまた斬新な」
「只にしてなんぞ得があるんかいな?」
「無料と聞けば、民は多数集まるでしょう」
「確かにそうやな」
「民が沢山集まる事で、主上の行っている事が多くの者に知れ渡ります。人の口を遮る物は有りませんし、噂が流れる速度は恐ろしい物ですから」
「確かに」
「そして、今回の馬揃えは内裏復興と洛中の再建を記念しての事と知れ渡るわけです。そうなれば将軍の思惑など吹っ飛んでしまいます」
「確かにそうだが」
「只にするんのはどないなわけや?」
二人の疑念を晴らすように康秀がニヤリとして話す。
「つまりは、今回の馬揃え祭りは朝廷により全ての食事が振る舞われた、ひいて言えば主上の御身心により全ての者へ下賜されたと言う訳になり、主上と上皇様の民を思う御心が益々知れ渡る訳です。まあ尤も資金等は北條が出しますが、宜しいですよね?」
そう言いながら康秀は氏堯を見る。
氏堯は苦笑いながら肯定する。
「あい判った。主上の為ならば、幾らでも出して見せようぞ」
氏堯が芝居じみた言い回しをすると、稙通もノリノリで答える。
「天晴れじゃ霜台、さぞ主上も御喜びに成られよう」
芝居が終わると、康秀が更に追加をする。
「此は三好殿との話し合いが必要なのですが、祭りの期間中だけでも、商売に関しては無税としてやる事も必要です」
今度は先ほどからの話で合点がいった二人は頷く。
「成るほど、主上の御威光を知らしめる訳か」
「そうなりますし、自分の予測では三好殿は近いうちに公方と和睦し、山城を明け渡すのでは無いかと思うのですよ」
「うむー、その様な動きがあるのか?」
「麻呂もその様な事を聞いた事がないが?」
「あくまで推論ですが、三好殿(長慶)はとみに最近気弱になりつつ有るそうです。何故ならあれほど刺客などを送ってきた公方を廃する事すらしないのですから。今までの者達であれば、さっさと対抗の者を担ぎ上げて公方の交代をしていたでしょう。ましてや三好殿には阿波に足利義冬(義維十一代将軍義澄の子で十二代将軍義晴の兄弟)と、子である義親(義栄)等が居るのにもかかわらずにです」
「成るほど」
「恐らく、公方と和睦する事は時間の問題かと思うわけです」
「うむー、其処で布石を打つと」
「そうです。都で既に地子銭の廃止が決まり、その後に一時的にせよ商いに無税と来れば、その後に公方が地子銭の復活や運上金の取り立てをすれば」
「自ずと、公方の権威が落ちるという訳か」
「やって見ないと、結果はわかりませんけどね」
「そやけど、やらないよりはマシと言う訳やな」
「そうなります」
この後、三好への根回しは稙通が行い、それ以外の手回しは北條側が、康秀が主として行った。その為康秀は、この日から二月下旬まで八面六臂の働きをする事になった。
焼きうどん用の鉄板、タコ焼き、大判焼きの焼型、コテなどを前世知識総動員で形を播磨から移動してきた鋳物師や、仕事が一段落した鍛冶屋清兵衛や加藤正左衛門清忠にも頼んで色々な品を製作し、工兵隊の炊事兵に色々な料理を指導していった。
その中で、飯場で給仕を担当していた旭や清忠夫人伊都、岡部又右衛門以言の妻田鶴、娘の凜なども新しい料理に興味津々で参加していた。
その後に、凜などは南蛮給仕服で歩く姿が見られるように成った。
この辺は康秀の悪のりで有ったが、その後に堺などでも南蛮給仕服を着て料理を振る舞う店が出来たそうである。商人は目聡く真似する者である。
取りあえず、メイド喫茶やその他は康秀の暴走が原因です。