第睦拾壱話 時は今
あけましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。
過去を振り返ったら、2013年に第三十一話を投稿しているので、年間三十話のペースなのですね。
今年もそれに負けないように頑張ります。
永禄元年(1558)二月十五日
■京 三條西邸
大内裏にある三條西邸で歌会が開かれていた。参加者は当主三條西実枝、三條西公条、九條稙通、二條晴良、北條氏堯(北條氏綱四男)、北条氏政(北条氏康次男)、池朝盛(北條幻庵次男)、北條長順(北條幻庵三男)、三田康秀であった。
「いやいや、流石は幻庵宗哲殿(北條早雲四男)の御子じゃ、見事なものですな」
北条綱重改め、池朝盛(朝は岳父西園寺公朝からの偏諱、盛は池家の通字)を三條西実枝が、歌の見事さに関心して褒め称えている。
「亜相様(実枝が権大納言だったのでその唐名)直々にお褒めの言葉を頂き、唯々恐悦至極に存じます」
和気藹々と続く歌会には、当主実枝の父である仍覚(三條西公条)も出家していたが参加してきていた。何故なら三條西家は三田家と浅からぬ繋がりが有ったからである。
「ささ、典厩殿の番ですぞ」
歌が上手くないと参加を渋っていた康秀をからかうように氏政が形式張った顔で歌を求める。康秀としても、幻庵の元で、和歌などを習ってきたので多少の心得はあるが、直ぐに思いつかないので破れかぶれに、有名な歌を先取りする事にした。
「時は今 雪が解けたる 二月哉」
完全に明智光秀の“時は今 雨が下しる 五月哉”のコピーであるが、先に言った者の勝ちであるが、内心では光秀すまんと謝っていた。
「うむ、先ず先ずですが、些か平凡すぎますな」
添削をした実枝からは落第点を貰ってしまったのであるが。
「ハハハ、知者と言える典厩にも苦手があったか」
稙通が笑うと、皆が笑いはじめた。
「その方が可愛げが有ると申しましょう」
そんな感じで、相変わらず可愛がられている康秀であった。
一通りそれぞれが歌を披露すると、仍覚が康秀に慈愛の顔を持って話しかけた。
「典厩殿(康秀)の曾祖父、弾正忠殿(三田氏宗)と、我が父、逍遥院(三條西実隆の号)は昵懇の間柄でしてな」
仍覚が康秀の顔に氏宗の姿を重ねたのか、懐かしそうに見ながら話を続けていく。
「なんと、父からは曾祖父が上洛したとは聞いておりましたが、意外な御縁がある物でございますね」
「そうよの、弾正殿は、永正七年(1510)禁裏御服御料所の上総畔蒜荘を武田三河守(真里谷城主武田信嗣)が横領したときに、先々帝であらしゃった後柏原帝の御為に、それを諫め取り返してくれた。まっこと氏宗殿は坂東でも随一の尊皇家であった」
「曾祖父がそれほどの事を為していましたとは」
「なんじゃ、典厩殿は知らなかったか?」
「はっ、残念な事に、四男と言う手前、幼くして家を出ました故、其処まで詳しくは知りませんでした」
康秀が初めて聞いたと驚いた顔をするので、仍覚は更に懇切丁寧に教えはじめる。
「あれは、明応(1492~1)の中頃で有ったか。父が歌道で昵懇にしていた駿河嶋田の連歌師宗長を通じて、弾正殿と知りったのは」
「それほど昔からでございましたか」
「そうよ。あの頃、都はすっかり興廃してたうえに各地の所領は横領され、我等は日々の糧に困るほどであったが、為す術もない状態で有った。されど本朝に根付いた伝統を消さぬ為に、ある者は下向し、ある者は学も何も無い國人共が己の格付けの為に飾りとして使う事を知りながらも、貴重な文献を切り売りするしか無い中、宗長殿に紹介された弾正殿は全く違った」
仍覚がしみじみと話す。
「あの時、父は宗長殿の師、宗祇殿より古今伝授を受けてはいたが、それで腹が膨れる訳でもなし。そんな中、宗長殿の仲立ちで弾正殿と音信をはじめたのであるが、坂東に居ながら都の世情にも詳しく、また歌の腕もまこともって見事なものであり、未だ未だ未熟であった麻呂など足元にも及ばぬ程であった」
「そう言えば、家に古き歌集などが大事に保管され、正月には恭しく上座に置かれた事を見た記憶がございます」
「それならば、恐らく道信朝臣歌集であろうな」
「恥ずかしながら、道信朝臣歌集とはどの様な歌集でございましょうか?」
「中古三十六歌仙の一人である、藤原道信卿の残した歌集でな、それを麻呂が常徳院様(第九代将軍足利義尚)の命により書写したもので有り、題箋と奥書は常徳院様、御自ら御筆跡し愛蔵していた物であった」
「その様な貴重な物が我が家にあったとは、驚きでございます」
「先ほど申したように弾正殿は、尊皇の志に厚き御仁成れば、自ずと朝廷だけではなく幕府にも知られた存在でな。あれは天文二年(1533)年五月十五日の事であったが、弾正殿が上洛してきてな。朝廷や幕府に献金を行い、将軍義晴公に拝謁した折りに下賜された品なのじゃ」
「何と、それほどまでに曾祖父は譽でありましたでしょう」
「そんな多忙の中、十九日に父に会いに来てくれてな。その際に源氏物語の鑑賞を行い盃を与えて持てなしたのじゃが、その時に道信朝臣歌集を持参し、麻呂に奥書を是非加えて欲しいと頼まれて書いたのじゃよ。その際に土産として弾正は黄金一枚(米二石が買える)を持って来てくれてな。あの当時の父の喜び様は今でも目に浮かぶの」
仍覚の話を聞いた九条稙通が話す。
「その話は麻呂も聞いた事がある。しかし弾正がなし得た事を、曾孫の典厩が再度為すとは。何かの縁と言えようぞ」
稙通の言葉に、康秀が慌てて否定する。
「今回の事は、左中将(北条氏康)様の御英断有っての事にございますれば、私の功績など微々たる物」
「なんの、霜台(北条氏堯)も判っておる」
そう振られた氏堯も肯定する。
「左様にございます。典厩の話無ければ今回の事は無かったはずにございます」
「そう言う事よ」
「しかし」
「判っておる。そなたの事は秘中の秘と言いたいのであろう。それならば他にも功績がありすぎて瓦解気味じゃがな」
ニヤニヤしながら笑う稙通に康秀も困惑気味である。
「なんと言っても、現職の将軍に啖呵を切った訳じゃし。あの止瀉薬丸(正○丸)は元より純度の高き酒精、多田神領水、薬酒(養○酒)など上皇様が御健康に成られたのであるからな」
実際の所、康秀が北條家の政治経済に多大な影響を与えていると言う事は秘匿されてはいたが、それ以外の料理、薬学知識などに関しては、既に藤田○ことのTVCMで覚えていた製法で養○酒擬きを作り上げ、後水尾上皇に進呈した結果、病気がちだった上皇の病状が安定し、史実と違い未だにご健在である時点で、都の公家衆には知れ渡り、同じ薬酒や止瀉薬を求めてきていたのであるから。
「はあ、些かやり過ぎましたか」
「ハハハハ、大丈夫で有ろう。既に御身には主上様より八瀬童子が遣わされておるのでな」
笑いながら稙通が驚くべき事を言い放つ。
「八瀬童子と言えば、主上の輿を担ぐ役と聞いておりますが?」
歴史的知識から八瀬童子=天皇の大喪の儀で棺桶を担ぐ役と思っていた康秀が不思議そうに尋ねる。
それを聞いた稙通は、実はと前置きして説明をはじめる。
「余りこの事は話せぬが、確かにそれも仕事なれど、実はあの者達は皇家の影守りでもある。麻呂のような公卿でも知っている者は少ないがの。主上としては、今回の朝家復興に多大なる功績を上げ、更に疱瘡の予防法まで編み出した典厩である。それを知られればその身を狙う者が多く成ろうとお考えでな。其処で弾正(氏宗)以来の朝家への貢献を鑑み、主上のご判断で八瀬童子をつける事と成った訳じゃ。無論、左中将と風魔には知らせた上でのことだが」
余りの驚きに、驚愕の表情をする康秀達。それを見ながら笑う太閤九條稙通、真に悪趣味である。
稙通の話に参加者達は驚きを隠せない。
「なんと、主上からの格別のご配慮、海よりも深く山よりも高い感謝の念で一杯にございます」
康秀が深々と頭を下げる。
「麻呂に頭を下げても仕方有るまい。典厩には、柳葉宮様にお話しした南蛮人の教義について、主上に直伝する事が決まっておる。その際に御礼する事よ」
「太閤様、それは真にございますか?」
再度の発言に流石の康秀も恐れ多くなる。何と言っても現代人の前世を持つのであるから、天皇に拝謁するなどよほどの有名人が園遊会で会うぐらいで、自分程度が会って良いのかと思ったからである。
「真も真じゃ、馬揃えの後、偶然にも御所で主上とお会いすると言う筋書きじゃ」
「何とも、恐れ多い事にございます」
「典厩任せよ。麻呂も一緒じゃ」
その後に何度となく付き合い続ける事と成る稙通と康秀であったが、この時ほど康秀は稙通を頼もしいと思った事は無かった。他の時は大概大変な事に巻き込むので、そのうちに“あのジジイ”と呼ぶようになったとか。
この後、影仕えである八瀬童子の巖笑坊と勿来の兄妹に会い、親しく話しかけて恐縮されたりしたのである。
永禄元年三月二日
■京 上京 新町通今出川下 狩野図子
久々に来た狩野家は相変わらずの賑わいであった。
「元信殿、お久しぶりでございます」
「典厩殿か。今月には小田原へお帰りとか。寂しくなりますな」
「何から何まで、元信殿にはお世話になり申した」
「なんの、儂の余生の楽しみを与えてくれたのですからな」
和気藹々と話す二人であるが、その年の差は七十歳近かった。
なぜ此ほどまでに親しいのか。それは都へ来たその月に、康秀は絵師狩野家へ挨拶に来たことから始まっていた。
その日、主の狩野元信は康秀が尋ねて来たにもかかわらず、見向きもしないで、机の間から足を投げ出して絵を描き続けていた。余りの無礼な態度に、お付きで来た加治兵庫介秀成が“無礼な”と小声で言い始めるが、康秀がやんわりと諭す。
「よいか兵庫。我等武士と同じく、狩野殿にも絵師としての矜持が有られる。しかも狩野殿は今まさに絵に命を吹き込んでいるのだ。それを我等の勝手で断ち切るは、傲慢と言えようぞ」
それを聞いた兵庫介は恥ずかしそうに謝った。
その言葉を聞いてか聞かずか、筆を置いた元信が、八十二歳には見えない鋭い眼光で康秀に目を合わせた。それが仕事を終えた合図だと悟った康秀が、丁寧に挨拶をする。
「狩野元信殿とお見受け致します。お忙しい所お邪魔致して誠に申し訳ございません。拙者は、相模小田原の北條左京大夫が臣、三田長四郎康秀と申します」
その挨拶を聞いて元信も、投げ出していた足を正座し佇まいを正して返答する。
「狩野元信と申します。三田殿が私のような一介の絵師に何の御用でしょうかな?」
「はい、是非とも狩野殿の御手をお借りし、洛中洛外の神社仏閣の正確な絵を残しておきたいのでございます」
康秀の提案を不思議がる元信。
「三田殿、それは如何なる仕儀にございますか?」
「はい、今の世は乱世にございますれば、神社仏閣とていつ何時兵火に焼かれるかも判りません。それはこの日の本の損失と成りましょう」
「確かにそうですが、それと私に何の関係が有るのでしょうか?」
「はい、幾ら用心しても兵火にかかる事を止める事が出来ないでしょう。その為に狩野殿のお力で、畿内各地の宝の絵を残しておきたいのでございます」
康秀の話に驚く元信。今までその様な事を頼む武将は居らず、自分に絵を頼むのは自らの権威の象徴として飾る為であったからである。その為に、この突拍子も無い事を言う若者を試してみたくなった。
「三田殿は、その絵を集めて如何するおつもりですか?」
元信に質問された康秀は、考える事もなく直ぐに答えた。
「絵を集めた後は、再建する御所に土蔵を造り、其処に保管し、何れ平和な世が来た際に再建の資料として使います」
此には、元信も驚き、康秀が心からそう言っていると感じたため、協力する事としたのである。それから約一年にわたり、狩野派の絵師達は畿内各地に向かい、貴重な建造物を次々に描いていったのである。
因みにこの時から狩野派が朝廷御用絵師として活躍を続けたために、都へ上洛した有る覇者は自らの居城の絵画を描かせる際に、天皇に頭を下げるはめに成った。
康秀曾祖父氏宗のエピソードは史実に基づいております。
実際に歌集を貰ってますし、上洛もしていますし、朝廷領を取り返したりもしています。
狩野家により作られた絵図により戦国時代以前の大仏殿とかの様式が判明したとか後々言われそうですな。