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三田一族の意地を見よ  作者: 三田弾正
第参章 京都編
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第伍拾玖話 永禄改元

お待たせしました。

永禄へ改元しました。

弘治四年 永禄元年(1558)一月十三日


■京 内裏 


再建が成った内裏にて、新年の行事がつつがなく終わり、改元の詔も発せられ、弘治四年は永禄元年と改元された。


改元後、春の除目(正月十一日から三日間に亘り叙任が行われていた)にて、公卿達は位階と官職の上昇を得た。


それに伴い、皇弟恭仁親王は二品親王となる当初の話と違い、生者としては異例とも言える一品親王いっぽんしんのう(立場としては正一位・従一位と同様に扱われており、皇親の筆頭たる地位)に叙せられ、征東大将軍せいとうだいしょうぐん上総守かずさのかみ上野守こうずけのかみ常陸守ひたちのかみ(三國は親王任國と言われ、國主は親王しか成れない為、律令時代における実質的な最高権威は次官の介であった)に任じられた。


此により、関東へと下向する事になった恭仁親王は後に征東大将軍宮せいとうだいしょうぐんのみや、或いは鎌倉将軍宮かまくらしょうぐんのみやと呼ばれるようになる。


此により足利将軍家の設置した鎌倉公方から古河公方の系統は実質的な権威を失い、象徴的な存在へと変わっていく事に成る。それに伴い、関東管領の権威も失われる事で、関東管領かんとうかんれい上杉憲政うえすぎ のりまさを保護して擁立している越後の長尾景虎ながお かげとらの越山(関東侵攻)に大きな歯止めがかかる事と成り、北條家の関東に於ける戦略の幅が広がる事と成っていく。


幕府よりも遙かに歴史のある朝廷を動かし得た北條氏康の謀の方が、武田晴信たけだ はるのぶ、長尾景虎、里見義堯さとみ よしたか佐竹義昭さたけ よしあきなどより優れていた事が要因の一つではあるが、実際の所は、当時武田と長尾は川中島で睨み合いを続けており、事も有ろうに景虎に至っては前年に出家騒ぎを起こした挙げ句に家出を行っていた事もあり、北條の動きにそれほど気を配れる状態では無かった。


武田は、本来であれば、夫人の実家三條家を通して朝廷の情報を仕入れられる筈であったが、三條家は当主不在でその伝手も使えず、他の家との繋がりも、北條が経済的な裏付けを行ったが故に、態々武田にヘコヘコする必要も無いと公家衆が考えてしまった事で、途絶えがちになりつつ有った。


此には、武田家が甲斐や信濃に有った公家の公事役の上がりを掠め取り、渡さなかった事も影響していた。同じく長尾家も青苧の上がりを掠め取っていたために、公家衆からは頗る評判が悪くなっていた。


その上武田は、本来であれば本願寺から情報を仕入れられる筈であったが、康秀の謀で、本願寺顯如夫人が北條氏康養女として嫁いだ事、更に浄土真宗と手打ちを行った事も影響し、本願寺が武田家より北條家との付き合いを重視する事にしたため、情報がさほど手に入れられなくなっていた。


また里見家は上総西部を北條に奪われ、裏切った國人の討伐で忙しく、京との外交どころでは無く、佐竹は宇都宮家の内紛に手を突っ込んでいる状態で有った。


つまり、北條氏康は四方の勢力が他の事で気が向かないうちに事を運んだ訳であるから、その状況判断の的確さは四者以上と言えた。尤も原案を作った三田康秀に関しては、全くと言って良いほど知られていなかったが。



征東大将軍就任以外にも、今回の内裏再建、朝廷の権威復興の立役者北條氏康一党、三好長慶一党にも叙任が行われた。


北條氏康には、従四位下じゅしいのげ左近衞権中将さこのえごんのちゅうじょうという位が与えられたが、これは朽木谷から帰洛しない征夷大将軍足利義輝と同じ位階と官職であり、朝廷側の将軍家に対する憤りを現しており、また北條家に対する期待感の表れとも言えた。


更に、三好長慶が従四位下修理大夫に任じられ、位階において将軍義輝と並んだ事も特記すべき事であった。


また、本人は不満気であったが、当初の計画通りに北條綱重が池家を再興し、従五位上じゅごいのじょう右衛門権佐うえもんごんのすけ兼検非違使佐けん けびいしのすけとなった。


その他北條家に対して、嫡男新九郎氏政が従四位下じゅしいのげ左京大夫さきょうたいふ兼相模守さがみのかみに正式に叙任され、三男平三氏照が従五位上じゅごいのじょう武蔵守むさしのかみ、四男新太郎氏邦が従五位下じゅごいのげ左京亮さきょうのすけ、氏康四弟十郎氏堯は正五位下しょうごいのげ弾正少弼だんじょうしょうひつ、幻庵嫡男三郎時長は従六位上じゅろくいのじょう相模介さがみのすけ、北條孫九郎綱成は今まで自称であった従五位下じゅごいのげ左衛門大夫さえもんたいふに正式に叙任され、北條幻庵宗哲は既に僧籍であるために上人しょうにん号と紫衣しえが許された。


北條氏堯の弾正少弼への任官は、越後の長尾景虎を刺激しまくる事になる。何故なら長尾景虎は関東管領かんとうかんれい上杉憲政うえすぎ のりまさを迎え入れた際に従五位下弾正少弼を自称し、その後天文二十二年(1553)九月に上洛した際に将軍義輝から推挙を受けるはずであったが、既に将軍は八月に三好勢と交戦し敗北後、朽木谷へ逃亡しており、拝謁が叶わなかった為に未だに自称している状態が続いていたからである。


(長尾景虎=上杉謙信の官位だが、歴名土代りゃくみょうどだいには記録されていない為に、自称の可能性が指摘されている)(歴名土代 中世日本の四位・五位の位階補任(叙位)記録簿)


何と言っても、関東管領上杉憲政を保護し、その養子に収まる予定の自分は、自称でしかない弾正少弼であるにも係わらず、上杉憲政を越後に追った伊勢(北條)の輩が自分より上位の位階と、自分の職分である官職を得たのであるから、収まりが付くはずもなかった。


その為か、関東へ帰國後に本来であれば小机城主になる予定であった氏堯が征東大将軍軍代として上野國平井城に入城後に、数度にわたり刺客に襲われる事と成った。


そして家格においても、関東管領上杉憲政の位階と官職が従五位下じゅごいのげ兵部少輔ひょうぶしょうゆうでしかなく、従四位下左近衞権中将となった北條氏康より下位に置かれた事も、関東情勢に影響しする事は目に見えていた。更に三男氏照の武蔵守も、北条得宗家が任官されてきた官職で有り、足利幕府内であれば管領細川家代々の受領名で有る事も、朝廷が征東大将軍府の管領たる職責を氏照に背負わす気であると考えられたのである。


更に北條家家臣団でも正式に叙爵した者達が多数出た事は、既に関東管領より北條家の方が関東では正当な政治権力であると朝廷より認められたと、後々関東諸将は考えるようになり、征東大将軍府が置かれた鎌倉へ参内する者が多数出る事と成るのである。


北條家では、松田憲秀まつだ のりひで尾張守おわりのかみ大道寺政繁だいどうじ まさしげ美濃守みののかみ遠山綱景とおやま つなかげ丹波守たんばのかみ垪和氏続はが うじつぐ伊予守いよのかみなど、宿老達にも従五位下の位階と受領職が与えられたのは、征東大将軍の権威を見せつけるが為であったが、それ以外にも康秀の叙任を他の者達に嫉妬させないが為の行為でもあった。


康秀は、恭仁親王うやひと しんのう九條稙通くじょう たねみちの推挙により従五位下じゅごいのげ右馬権頭うまのごんのかみに叙せられ、三田家として過去最高の位階に上り詰めたが、三田家では従五位下に就いたと言う先例が無いと苦言が出る可能性も有ったが、長年公家社会を渡り歩いてきた九條稙通により、三田家の先祖であるたいら の良将よしまさ従四位下じゅしいのげ鎮守府将軍ちんじゅふしょうぐんであった事から、先例有りとして処理された。


此により、康秀は位階と官職共に、父や兄を抜いてしまい、家に顔向けできないと悩むが、父綱秀、兄綱重(偶然にも幻庵次男と同名)は、康秀の叙任を聞いて喜んでいたのだから、康秀の取り越し苦労であった。尤も二兄、三兄はねたんでいたので、その点は合っていたのであるが。




その頃、将軍仮御所には、風の噂で改元が行われた事が伝わってきていた。しかし改元の目出度さなどこの地には全く存在していなかった。何故なら今までで有れば、改元は朝廷から幕府に対して相談があり、資金を幕府が出す事で改元が決まっていたのであるが、弘治から永禄への改元に関しては全く相談が無く、一方的な事後承諾どころか、朝廷から全く連絡すらない状態で有ったからである。


その為、へそを曲げた義輝は改元があったにも係わらず、弘治の年号を使い続ける事にした。これはあからさまに朝廷に反旗を翻した事と言っても良く、嘗て、鎌倉公方足利持氏が同様の事を行い、朝敵として成敗された事例を、現職の征夷大将軍が行い、帝に対する謀反人になるという前代未聞の現象となった。これは下手をすれば将軍義輝が朝敵として討伐の対象と成りかねない行為であった。


しかし、朝廷側も其処まで事を荒立てる気は無く、内裏造営の余波で復興の兆しが見え始めた都を焼くわけにも行かないために、遠隔地の鄙で有る故、改元の詔も届かぬのであろうと、大人の判断で敢えて将軍義輝を無視し、代わって修理大夫三好長慶を摂津守、山城守など畿内の國主に任ずる事で、義輝に対する当てつけとした。


それに喜んだ長慶は、先年の和睦成功の際に引き渡す約束であった堺を、御礼として朝廷へ献納した。此処において堺は、幕府直轄領から朝廷の御料所として全國に知らしめられる事に成った。受け取った朝廷は早速、北條側からの話に有った鋳銭司ちゅうせんし(貨幣の鋳造を司る役)を置く事とし、長官として従五位上じゅごいのじょう内蔵頭くらのかみ山科言経やましな ときつね鋳銭正ちゅうせんのかみけん和泉守いずみのかみとして任じる事とした。

(鋳銭正はその國の守が兼任する事が多かったため)


此は山科家が朝廷の財政の最高責任者であるが為の任命であり、更に父山科言継が後水尾上皇(史実の後奈良天皇)の時代に献金の確保に多大なる奮闘をした事、そして九條稙通や北條家の面々と親しい事も考慮され決定した人事であった。


この後、言経は北條家の面々の助言を聞き入れ、堺衆の面々に銭貨鋳造を請け負わせる事にする。此により朝廷が出す貨幣に堺商人の経済力が裏付けされる事になり、良質で貨幣の文字を先帝後水尾上皇御自ら筆を取り揮毫して頂いた“永禄通寶”は、渡来銭に代わり日本全國へ流通して行く。このため、渡来銭(中國からの輸入)、鐚銭びたせん(すり減ったり欠けたりした銭)、私鋳銭しちゅうせん(民間で作った銭)などは次第に淘汰されていく。


此により堺をはじめ博多などで経済活動が益々発展し、堺以外でも征東大将軍府でも鋳造が行われたため、鎌倉、江戸、小田原などの北條家の勢力圏内各地の発展に多大な影響を与えていく。




永禄三年一月十六日


近江國朽木谷おうみのくに くつきだに岩神館いわがみやかた 足利義輝仮行在所


一人蚊帳の外に置かれた亡命幕府では、正月十六日に甲斐國の武田晴信が信濃守護に、嫡男義信が三管領に任じらていた。これは、将軍義輝が越後の長尾景虎を京へ呼び寄せ、その武力を背景に三好一党を退治しようと考えたために、信濃で対峙している武田家をどうにかしない限り景虎が動きが取れないため、武田に長尾との和睦を命じていたのである。


其処で、晴信は将軍の命令を逆手に取り、和睦するのであれば、自分を信濃守護職に任じて貰いたいと逆提案を行ったのである。晴信は腐っても将軍権威の前には長尾景虎が馬鹿正直に命令に従う事を判っていたために、取れる物は全て取っておけと考えたのである。


その為、義輝としても背に腹は代えられない為、晴信の信濃守護職と義信の三管領準拠の扱いに同意したのである。結果として、この信濃守護職を根拠に、晴信の信濃侵略が正当化された為、武田は益々攻勢を強めて行ったのである。


結局は、義輝の状況を見ないでその場凌ぎの場当たり的な外交が、混乱を却って助長させる事に成ったのであるから、見る者が見れば、義輝の未熟さが在り在りと浮かび上がる結果になった。



一応、義輝が弘治年号を使い続けたのは史実です。


上皇御自らの文字じゃ、この銭を忌諱する事は出来ませんからね。渡来銭なんかしかない長尾への経済封鎖になります。


堺商人が永禄通寶しか受け取らなければ、大打撃ですからね。

信長の津島経済も影響与える事が出来ますから。

渡来銭が一気に価値が減って、金貯めてる織田家とかが大打撃。

逆に北條や三好とかと友好勢力は等価交換されますから、損は無し。


商人とはウインウインの関係じゃないと駄目ですからね、取るだけじゃねー。

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[一言] 信長を虚仮にした形になる松田憲秀の尾張守就任には驚きかたまりましたww
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