第伍拾睦話 足利義輝の野望
お待たせしました。今回は将軍側の態度です。
康秀君は全然登場しません。
弘治三年十一月十日
■近江国朽木谷岩神館 足利義輝仮行在所
この日、既に雪に因り通行が困難になりつつ有る途中越を越えて態々都から武家伝奏勧修寺尹豊が、将軍家と三好家の和睦を斡旋するために朽木谷の義輝の元へ派遣されてきた。
本来であれば、九月前半には三好側の承諾を得ていたにも係わらず、二ヶ月ほど使者の遅れが生じていたのは、将軍家と近衞家に近い武家伝奏広橋國光が感情的な事で仮病を使い続けた事と、御年五十五歳の勧修寺尹豊の夏風邪が治らなかった事などや、譲位、即位などで時間が取れなかった事も影響して、この日の派遣になったのである。
義輝側は既に支援者である六角義賢から先帝の譲位と新帝即位の情報は得ていたために、それに関する事だと考えていたが、その予想は大きく外れる事と成った。
朝廷よりの使者と言う事で、上座へ座る尹豊が徐に書状を取り出し、義輝等幕府側の者達に読み聞かせる。
「朕は、従四位下征夷大将軍兼左近衞中将源義輝並びに従四位下筑前守源長慶両名に畿内平穏の為、和睦を勧告するものである」
尹豊の言葉を聞いていた義輝の眉間に、次第に皺が寄っていった。
「如何でおじゃる?筑前守は既に和睦に同意しており、公方の帰洛には是であると言うておじゃるが?」
義輝にしてみれば、この帰洛では都に三好の輩の大勢力が残ったままで有るため、この和睦には否であると言いたい所であるが、帝の斡旋による和睦で有る以上は、即断できずに考え込んでいた。その為にも暫し側近と話す必要があると考えた。
「はっ、帝の御慧眼には頭の下がる思いにございます」
そう言われた尹豊は義輝が同意したのだと思い話す。
「流石は、当代一と言われし室町殿(将軍の別名)でおじゃるな、嘸や帝も御喜びにおじゃりましょう」
「御使者様、当家としても、等持院様を始めとする御先祖様に御報告しなければ成らぬ故に、暫し席を離れる事をお許し頂けないでしょうか?」
義輝が先祖に報告すると聞き、既に仕事は成ったと考えた尹豊は何の疑問も持たずに許可する。
「先祖への報告は大切な事でおじゃりますからな、気にせずに報告してくるが良いでおじゃろう」
「忝なく存じます。御使者様には些少なれど湯殿と酒宴を用意させます故、暫し旅の疲れを御緩りとお慰め頂ければ幸いにございます」
義輝の下手に出た姿に気分を良くした尹豊はその言葉に甘えて、座敷を出ていった。
尹豊を送り出した義輝の顔には、憤怒の相が浮かび上がっていた。そのまま表情を変える事もせずに直ぐさま別室へ移り、近臣達を呼び寄せた後、人払いを行い余人も近寄れない状態にして、朝廷よりの和睦の話をし始めた。
話を聞くうちに、近臣の中でも賛成と反対に分かれ喧々諤々と話し合いが始まる。
曰く、絶好の機会成れば、一刻は恥を忍んででも帰洛し、その後力を付け直すべし。
曰く、征夷大将軍としての意地と誇りがある以上、三好如きに迎合する必要は無し。
曰く、勅命講和であれば致し方ないが、内々の和睦斡旋であれば断るべきである。
曰く、是であろうと非であろうと、ある程度の条件の上乗せは行うべきである。
近臣達の話し合いを聴いていた義輝が、ある程度意見が出尽くした所で、野太い声で宣言する。
「臣等の意見はよう判った。予はこの和睦は御先祖様に対しても亡き父、萬松院様(十二代将軍足利義晴)にも顔向けできん事と思う」
義輝の言葉に近臣達の脳裏に否であるとの言葉が浮かぶ。
「さすれば、お断りするのでございますか?」
三淵藤英が恐る恐る質問する。
「そうは言うておらぬが、ある程度の条件を出し、三好腹がそれを呑むのであれば帰洛も吝かでは無い」
その言葉に、皆が表情を変える。ホッとした顔をする者、悔しそうな顔をする者、困惑する者など、義輝は目聡くその者達の顔色で近臣達の感情を読み、階層分けを行っていた。何度となく辛酸を舐めてきた以上、猜疑心が頭をもたげていたからである。
「さすれば、どの程度の条件を出すのでございますか?」
続いて義輝にしてみれば義理の叔父(晴光の姉が義晴の側室)にあたる大舘晴光が質問した。
「そうよの、山城、攝津、河内、和泉よりの三好勢の退去、堺の返還、人質として孫次郎を出させるぐらいかの」
義輝の話に近臣達も息を呑む、とても三好が呑むと思えない程の条件だったからである。
「上様、それでは……」
老齢の側近、三淵晴員が目を見開きながら諫めようとするが、その言葉を義輝は遮る。
「伊賀、主の言いたい事は判るが、これは予と長慶との戦いよ。将軍たる者あの様な輩に負けるわけには行かぬのよ」
他の意見は認めんとばかりに、眼光凄まじく近臣達を睨む姿に皆が皆、反対意見を述べる事も出来ずに、義輝の言葉通りに返答する事になってしまった。
その話を末席で聞いていた沼田祐光は義輝の強引さに心中では呆れながら“何処まで行けるか興味はあるが、問題山積と言えよう”と考えていた。
湯殿で侍女と戯れ、酒宴でも良い気分になった勧修寺尹豊は、義輝が待つ主殿に案内された。
「室町殿、如何でおじゃりましたかな」
ほろ酔い気分の尹豊がにこやかに義輝に話しかける。
義輝は佇まいを正して答える。
「和睦に関しては、吝かではございませんが、幕府として条件がございます」
勅命講和に等しい和睦斡旋にも係わらず条件を出す義輝の態度に、尹豊は息を呑みながらも条件を聞き出す。
「条件とはなんぞや?」
「はっ、一に山城、攝津、河内、和泉よりの三好勢の退去、二に堺の返還、三に人質として筑前守嫡男孫次郎慶興(三好義興)を差し出す事を筑前守が呑むのであれば、この和睦を受け入れましょう」
義輝の余りの無茶な条件にほろ酔い気分も吹っ飛んだ尹豊は目を見開いて義輝を見つめる。
「なんとっ、過大な条件でおじゃる」
尹豊の言葉を聞いていない風を装いながら、義輝は話す。
「元来畿内は将軍家の差配する土地にございますれば、不法占拠を続けて居る筑前守に非がございましょう、それを返還さすのは、征夷大将軍として当然の義務であり権利でもありましょう、その旨を筑前守にお伝え下さい。さすれば、帰洛であろうが和睦であろうが、自ずとできる事にございます」
この義輝の言いように、尹豊は驚きながらも言葉を発する。
「む、室町殿、その様な条件で筑前守が納得するとでもお想いでおじゃるか?」
例え、勧修寺尹豊が自分より格上の正二位権大納言であろうと関係無いとばかりに、武家の事に公家が口を出すなと、義輝は有無を言わさぬ表情で話す。
「御使者殿、この事が為されぬ以上は、誰が何と言われても和議などできる事ではございませんぞ」
義輝の威圧感に怯えた尹豊は身の危険も感じ、このまま居ても詮無き事と考え、帰洛する事にする。
「判り申した、室町殿の存念、確と筑前守にお伝えしようぞ」
尹豊は内心では“この分からず屋の公方め”と毒突きながら屋敷を出て行く。
その姿を見ながら、義輝は甲賀出身で臣下の和田惟政を近くに呼び寄せ耳打ちする。話を聞いた惟政は無言で頷き屋敷から退出し、その後故郷である近江甲賀へと向かった。
その夜、義輝は屋敷の縁で酒を飲みながら、一人で考えていた。
帝の即位に出られぬのは致し方ない、しかし何が悲しゅうて、三好腹と講和せねば成らぬのだ!予は征夷大将軍足利義輝じゃ!本来であれば、来年にでも左京大夫(六角義賢)を先鋒にして三好腹を撃退し、都を長慶から奪還できたものを、さすれば、予の手により帝の譲位を執り行えたものを、伊勢の輩のせいでこのざまじゃ!
全く忌々しきは伊勢の輩よ、伊勢(伊勢貞孝)といい左京(北條氏康)といい、碌な事をせぬ兇徒じゃ!伊勢の輩共は、左馬頭(古河公方足利義氏)を旗印にしておる。予が認め偏諱を与えた藤氏を差し置いてじゃ!
伊勢腹は、武田、今川と組んでおる。あ奴等、左馬頭を予に代わる将軍に押し立てる気では無かろうか。持氏もそうで有ったが、関東公方は危険分子よ。やはり早急に弾正少弼(長尾景虎=上杉謙信)に攻めさせねばならんな。
厄介な関東公方は藤氏がなろうと、予に刃向かうかも知れん。元々遠き血の薄い繋がりでしかないのだから、此処はやはり勝幡院(堀越公方足利政知)の様に我が身内を送る方が良いやもしれんな。さすれば、覚慶、周暠が有力じゃが……
覚慶は駄目じゃな。あ奴は予がこの様な片田舎に居て、即位式に出られぬのを知りながら、即位式に出る様な痴れ者じゃ。あ奴まさか予に成り代わろうと画策しているのでは無かろうか、有りうる事よ。等持院様(足利尊氏)の時の下御所(足利直義、お父上の時の義維(足利義晴庶兄)の事もある故、油断するべきでは無いな。
此処は覚慶を始末するか。長慶の時は一度目は忍び衆を送って失敗し、二度目は進士(進士賢光)に襲わせても失敗であったが、河内(遊佐長教、三好長慶岳父)は成功しておる。ならば、さほど注目されておらぬ覚慶であれば可能か。全ては惟政が戻り次第じゃな。
今に見ておれ、征夷大将軍たる予を虚仮にした報いを受けさせてやろうぞ!
「フハハハハハ」
義輝の笑い声だけが、月明かりの縁に響いていた。
資料見ていると、結構義輝は刺客を放っている様に見えるのでこの様な感じになりました。
都で辻斬りしていたと言う話しもあるぐらいですから。