第伍拾伍話 市姫と信長そして猿
お待たせしました。久々の投稿です、新資料を手に入れたためにそれとの整合で時間がかかりました。
今回、名前だけは出ていた、猿が初登場です。
三郎=信長、猿=秀吉です。
弘治三年十一月十六日
■尾張國春日井郡清洲 清洲城
末森城で大火傷を負った市姫は、医師の懸命の処置で命は取り留めた。しかし美男美女の生まれる織田家の中でも類い希なる美しさと称えられた顔は、右側半面が焼けただれ見るも無惨な状態になっていた。母土田御前、姉犬姫、兄信長もその事に触れぬように市を気遣う。市姫は鏡を見る事も許されずに、自分の身にどんな悲劇が起こったのかも殆ど判らない状態であった。
市は我が身の彼方此方に火傷を負って、顔もヒリヒリして痛い事は判るが、顔には医師により軟膏を塗られた上、当て布をさせられてており、治療の際にも鏡を見る事を許される事が無く、侍女達も必要以上に市を気遣う。此処まで来れば、元々十一歳でありながらも聡い市も、皆が自分に見せたくない状態になっていると感じていた。
足繁く見舞いに来る母、姉、兄に“私の顔に何かが起こっているのですね”と問いただしても、母と姉は涙ぐみ、父信秀が亡くなった時でも位牌に抹香を投げかけた気丈な兄が、目を逸らさず自分を抱き寄せて只単に“済まぬ”と耳元で呟く。そして庭には土下座している権六が居ると成れば自ずと答えが判ってしまった。
彼女は気丈にも手水へ行くと、その場を離れ、廊下へ出た所で侍女を振り切り、いきなり庭へ飛び降りて、その行動に大騒ぎする侍女達を尻目に池に自分の顔を写してみた。
其処には、真っ白な当て布で顔半分を覆われた自分の姿が有った。その当て布以外には別段変わりがないように見えたので、原因はこの下にあると意を決して当て布を勢い良く外した。
「あーああ」
水面には、顔半面が焼けただれ見るも無惨な状態になった自分の姿が映っていた。幾ら覚悟していたとはいえ、齢十一でしかない市にしてみれば、この様に爛れた顔を見る事は初めての事であり、また此ほど凄まじい事が自分に振り罹り、自身に起こった最悪の事態に恐怖し、侍女達が叫ぶ“姫様!”の声を聴きながら意識が薄れていった。
どれ程気を失って居たのであろうか、ハッと気が付くと部屋に寝かされていた。辺りを見渡すと心配そうに自分を見つめる母と犬姉、三郎の姿があった。更に廊下には、柴田権六が頭を擦りつけるように土下座しているのが見えた。
さて有れば夢であったかと市は考え、ノロノロと腕を動かし顔面を触ると、其処には間違いなく当て布がされていた。やはり夢ではなかったかと、またも当て布を引きちぎろうと腕に力を入れるが、その腕を兄がガッシリと掴み離さない。
「兄上、御手をお離し下さい!」
市が叫ぶが兄は手を離さない。
「市……」
あの兄が、自分の名前しか言えずに居るだけで、あの焼け爛れた顔が自分なのだと判り、このまま生きていても何にも成らないと考えた。
刹那、市は左手で兄の挿していた脇差しを抜き取り首筋へと突き刺そうとした。
咄嗟の行動に皆が動けない。
そして“ザクッ”と言う音と共に鮮血が流れた。
「ああ兄上……」
其処には自らの体を盾にして肩から鮮血を流す信長の姿が有った。
信長は咄嗟に市に抱きつく形でその刃の位置をずらしたのであるが、自らは刃により肩を斬られていたのである。
母も姉も権六も動けぬ中、兄は自らの体を使い市を助けたのである。
暫し、時間が止まったようになる座敷であるが、姉の悲鳴により時間が動き出す。
「三郎兄様、市!」
「犬、大事ない、そう騒ぐな」
浅いとはいえ鮮血が流れる中、信長は落ち着いた風で犬姫を窘める。
「兄上、兄上、私は私は……」
兄の鮮血を見ながら呆然とする市を、抱き寄せ確りとし声で話しかける。
「市、全て兄のせいじゃ。お前が気に病む事ではない」
「兄上、兄上、市は市は、最早お役に立てぬ身にございます」
市の言葉に、その場にいた者達からすすり泣く声が聞こえる。
齢十一歳の市が、自らの顔の火傷で最早政略結婚の駒としての価値は全く無いと判っている、と言っているのだから。
その言葉を聞いた信長は更に市をきつく抱きしめて、涙を堪えて目を真っ赤にしながら優しく語る。
「市、その様な事、心配無用じゃ。お前は儂の大切な妹、火傷如きでお前を邪険にするわけが無かろう!かえってお前を嫁に出さずに済むのだから、一生涯儂が面倒見ていっても良い」
「兄上、兄上、兄上……」
市が泣きながら兄に抱きつき、それを見ている皆がすすり泣く中、空気を読んでいないのか、いつの間にか庭に降りた柴田権六が地べたに土下座しながら信長に話しかける。
「御屋形様」
市を宥めていた信長が何じゃと言う顔で権六を見る。
「権六、何用じゃ?」
信長や皆の視線が集まる中、権六は頭を地面に擦ったまま、ドスのある声で懇願した。
「御屋形様、この柴田権六、市姫様を妻にお迎えしたく、お願い致します」
鬼の権六と言われた男が信長に懇願する。
それを聞いた皆が一瞬思考が止るが、信長や母が何か言う前に、泣いていた市が顔を上げ、キッという目つきで権六を睨みながら話す。
「権六、下手な同情は止めよ。私なぞを妻にしてどうするつもりなのですか?大方織田家と縁続きになって権勢でも振るう気でしょうが、その様な真似は許しません」
権六の言葉に市姫は同情などご免被るとの態度で挑む。
市姫の気丈な態度に、信長達も権六を睨み付ける。
「権六、お主はその様な男ではないと思っておったが、見損なったわ!」
信長は、権六が醜女になった市姫を出世の道具にしようとしていると考え怒鳴る。
市姫や信長からの冷たい視線に耐えながら、権六は再度意を決して心の底から懇願する。
「違います、何時の頃からかと言われれば、判りませんが、何時の頃からか姫様をお慕い致しておりました。この心に嘘偽りはございません。嘘であれば、この場で殿に斬られても構いません。どうかどうか、市姫様を我が妻に迎えとうございます」
今度は、顔を上げその鬼瓦のような顔を真っ赤にしながら真剣な表情で、信長の目を見て懇願する。
その目に嘘がない事が判った信長も、困惑しながら権六へ質問する。
「権六、お主真か、本当に市を不幸にしないのか?」
兄として市の行く末を悩んでいた信長も、この男の真剣さを試したくなっていた。
「この柴田権六、天地神明に誓って一生涯、市姫様以外の女人も小姓もはべらかす事無く、市姫様だけを一生の伴侶として慈しみ愛す事を誓います。なにとぞなにとぞ、我が妻になって頂きとうございます」
信長もこの言葉には驚く。そして市を見ると、権六を見ている目が涙目になっていた。
市は、権六の真剣さに嘘偽りがない真心を感じ、こんな私でも愛してくれるのだと、そして、この者ならば伴侶となれると泣いていた。
「市、権六はああ言っているが、お前はどうじゃ?」
兄の言葉に、兄も良いと言っていると感じ、自分の心の内を吐露した。
「はい、兄上、権六の言葉に嘘偽りはございますまい。この様な私ですけど、権六殿の妻となりとうございます」
市は三つ指ついて権六へお辞儀をする。
「姫様」
「市、良いのですか?」
「権六、市を不幸にしたら許しませんぞ」
権六がまさかの事態に絶句する中、犬姫と土田御前が話した。
「権六、市を宜しく頼むぞ」
信長にそう言われ、権六は再度土下座し答えた。
「はっ、市姫様を絶対に不幸に致しません」
こうして、市姫は火傷の傷が完治した翌年永禄元年(1558)四月に柴田権六勝家に嫁ぐ事になった。勝家三十七歳バツイチ(死別)、市姫十二歳であった。
弘治三年十一月十八日
■尾張国 丹羽郡小折 生駒屋敷
意外な事で、市と権六の婚儀が決まり、怪我も塞がった信長は翌々日、久しぶりに側室である類(一般には吉乃と呼ばれているが、此は武功夜話での造語であり、生駒家に残る名乗りは類である)に会うために生駒屋敷へやって来た。生駒屋敷は相変わらずの忙しさで、下人達や馬借(輸送業者)が荷物を持って次々に屋敷を出立していく。
「類、俺だ」
そう言うと、奥から類と兄の生駒家長が顔を見せる。
「三郎様、よくお越し下さいました」
「殿、この度は真に御苦労様にございました」
嫡男奇妙丸を生んだばかりの類は、久々の訪問に喜びを隠せないが、市姫の事を知る家長は妹には知らさないようにと慎重に言葉を選んで話す。
「うむ、今宵はお前と奇妙とで一緒に寝るとしようか」
普段の信長らしからぬ言動に、類も何かを感じたが、敢えてそれを口には出さずに、喜びを顔一杯に出しながら答えた。
「三郎様とご一緒とは嬉しゅうございますが、奇妙は夜泣き致しますから、お眠りに成れないかも知れませんよ」
類の機転の良さにホッとした信長は笑顔で答える。
「良いわ、子が泣くのは当たり前よ。儂とて赤子の頃は大御乳様(池田恒興母、信長乳母)以外の乳母には懐かんかったのだからな」
「ふふふ、何でも、大御乳様以外の乳母の乳首に噛みついたとか、奇妙がそう成らない様にしないと行けませんね」
類は笑いながら信長に答えた。
「フッ、若気の至りよ。親父殿(信秀)がその話を聞いて嘘だと思い、儂の口に手を入れて来たのを噛みついたらしいがな」
信長も笑いながら和気藹々と話している。
そんな中、一人の馬借が屋敷へ入ってきた。
「旦那さん、久しぶりやが、荷を買いに来ただよ」
その馬借の声を聴いた信長が笑いながら、声を掛ける。
「猿、久しぶりだな」
猿と呼ばれた二十代前半の小男が、信長を見て直ぐに地べたに座りお辞儀をする。
「殿、此方へ来ていらっしゃったのですか」
「ついさっき来た所よ」
「へへー」
信長と猿の話が始まると直ぐに、類と家長が目配せしその場から立ち去り、その場所へ誰も近づけないように差配する。それを確認した信長が猿に話し始める。
「猿、今川の様子はどうなっておる?」
「へい、現在おらは、遠江國長上郡頭陀寺城主、松下長則殿の元に居りまして、台所奉行をさせて貰っております。其処でその伝手を使いまして調べましてございますだ」
「それは判って居るわ。儂の命でお主を今川へ送り出したのだからな」
「へい、其処で調べました所、今川では皮革が不足し、おらのような尾張からの流れ者でも連雀商人(行商人)で皮革を扱う者は、おざなりな調べで入國を許可されておりますだ」
「ふむ、皮革が足らぬか。昔から今川では皮革は足らんかったが、どの程度集めている?」
「へい治部大輔(今川義元)自らが奉行人大井掃部丞に命じ、皮革の製作と販売を厳しく命じ、今まで以上に買い漁っております」
「それで、鐵などの動きはどうだ?」
「各地で鐵も盛んに買い取らせている模様ですだ」
猿の答えを聞いて、信長は今川の様子を想像していた。
「うむ、それは普段の利用と言うよりは、戦支度と見た方が良いな」
「へい、兵糧なども集め始めておりやした」
「猿、それを早く言わぬか」
信長が猿を怒るようにからかう。
「へへー、殿様、申し訳ありませんだ」
頭を擦りつけるように謝る猿を笑いながら信長は話す。
「猿、よう調べた、賞めて使わす。辛かろうが未だ未だ調べて貰うぞ」
「へい、右手の指が六本で虐げられてきたおらが此処までに成れたのは、殿様に拾うて貰ったからこそですだ。必ずや今川の戦支度の兆候をお伝え致しますだ」
頭を下げながら答える猿の声は最後の方には涙声になっていた。
猿を送り出した信長は、久々に類、奇妙丸と夕餉を食し、類に膝枕をして貰いながら、耳掻きをして貰い、スヤスヤと寝ている奇妙丸を見ながら、鬱積していた心の重みを発散して行ったのである。
市姫は史実と違い初婚で勝家の元へ行きました。