第伍拾貳話 引き抜き
大変お待たせしました。
タイトルが思いつかなかった。
弘治三年(1557)九月二十五日
■山城國 京 大内裏 池右衛門権佐朝氏邸(北條綱重)
晴れて御所と成った大内裏に宮家、公卿、地下人(昇殿の勅許を得ていない官吏・官人)などの屋敷割が行われ、槌音が絶え間なく響いている中、右衛門権佐となった綱重の屋敷が早々と完成し、其処に北條家の面々が集まり密かな会議が行われていた。
北條氏堯の質問に二曲輪猪助が、各地に散って情報を仕入れ工作を行っていた者達を代表し、説明を始める。
「それで首尾は?」
「はっ、播磨鋳物師の引き抜きは、首尾良く進んでおります」
「それは重畳」
猪助の報告に氏堯が満足げに頷く。
「全くの所、長四郎様の御機転に助けられました」
「いえいえ、猪助殿。今回の事は、三好方の許可が無ければ、無理な事でしたから」
猪助の感謝に康秀が手を振りながら、自分の功績は大したことないと言う。
「まあ、播磨を征服しかねた三好家にしてみれば、憎っくき別所家や小寺家支配下の職人衆を引き抜いて貰って、有りがたいと考えているのでは無いでしょうか?」
「まあ、その職人衆が近隣の者や公方に仕えるならいざ知らず、遙か関東へと移住するのですから、三好方としても文句は少ないでしょうな」
氏政と大道寺政繁が話す。
「しかし、赤松殿も小寺殿も馬鹿な事をした物よ」
氏堯が、さも有らんと渋い顔で話す。
「まあ、小寺の被官になった鋳物師の芥田五郎衛門の懇願で、今までならば何事も平等で話し合って決めていた惣中を止め、鋳物師を芥田一人が全てを取り仕切る様にし、相論で揉めていた所も合戦の恩賞として与えましたから」
「それで、今までの平等な関係から支配されるようになった鋳物師達の不満をついた訳だからな」
康秀が資料を見ながら答えると、氏政が頷きながら答える。
「そのお陰で、野里(姫路城の東方。市川の至近で、播磨の鋳物師の根拠地)を筆頭に、大村、津田村などの鋳物師に加え、加古郡、印南郡、加東郡、多可郡、神西郡、神東郡、飾西郡、飾東郡の芥田が独占した播磨東部で、芥田に恨みのある百人を超える鋳物師衆が、家族ごと引き抜けましたから」
康秀がニヤリとしながら答える。
「しかも、全てが全て小田原への移住を希望しているのですから」
「それはそれ、あれほどの好条件では断る方が可笑しいかと」
「住居、所領の下賜、それに一定量の仕事をすればそれ以上は商売の自由」
「我々としてみれば、彼等の技術を、小田原に開校する技術学校での教育に役立てれば良い訳ですから、安い買い物と言えます」
「学校か。足利学校の様に易学、兵学を主とするのではなく、今までは徒弟制だった職人の均一的な教育を行うとは。康秀に言われなければ思いつかなかった事よな」
「この都へ来た事で、多くの者が関東へと向かう事となりましたな」
「そうよ。貧民窟で死にかけていた者達も、地侍も、町衆も、皆大事な民ですし」
「そうよな。春松院様(北條氏綱)のお言葉を借りる様だが『侍から農民にいたるまで、全てに慈しむこと。人に捨てるようなものはいない』」
「叔父上、五箇条の訓戒でございますな」
「そうよ、父上がお亡くなりになる前に書き残された物よ」
「一、大将から侍にいたるまで、義を大事にすること。たとえ義に違い、国を切り取ることができても、後世の恥辱を受けるであろう。
一、侍から農民にいたるまで、全てに慈しむこと。人に捨てるようなものはいない。
一、驕らずへつらわず、その身の分限を守るをよしとすべし。
一、倹約に勤めて重視すべし。
一、いつも勝利していると、驕りが生まれ、敵を侮ったり、不行儀なことがあるので注意すべし。
でしたな」
「左様、この訓戒を忘れぬようにせねば成らん」
「はっ」
氏堯と氏政が、亡き北條氏綱の遺訓を話しながら感傷に耽っている。
鋳物師の話が終わると、猪助が西國各地から上がった人物の話を報告し始める。
「播磨でございますが、康秀様がお探しであった、鎌倉幕府の評定衆・引き付け衆を歴任した後藤家の事にございますが、神東郡に山田村という所があり、春日山城主をしておりました」
「そうか、それで話はどうだった?」
「当主、後藤基信殿は別所家に仕えている為に関東への下向は承知されませんでしたが、弟の基國殿は“このまま実家に居ても展望が開けぬ”と、関東への下向を承知して頂けました」
「ふむ、弟か、私としては後藤家全てが家臣として欲しかったのだが、致し方ないか」
「力が及ばす申し訳ございません」
康秀がガッカリするのを見て、猪助が済まなそうに謝るが、康秀が気を取り直して感謝する。
「いや、猪助達は良くやってくれている。かえって心配させて済まない」
康秀の言葉に、氏堯達も感心する。家臣を思う心こそ北條家の家訓なのだから。
「しかし長四郎。そんなに後藤家が必要か?」
氏政が、康秀が行う人材収集を不思議がりながら質問する。
「ええ、幼き頃、沢庵坊に教わりました人材収集の易学で、良き者との気が出ましたので」
無論これは、後藤又兵衛が播磨後藤氏の出身だと知っていた康秀の嘘であるが、この時代は呪術的な事が大ぴらにまかり通っていた為、誰もが納得するのであるが、康秀自身は後藤家全体を手に入れられなかったので、未だ生まれていない又兵衛は手に入れられないとガッカリしていたのであるが。
「其処で、山崎の飯田直澄や摂津の国人森本一慶などを引き抜いた訳だな」
「そう言う事です。最近は丹波屋の小西弥左衛門の孫、弥九郎を貰い受けようかと思っていますし」
「あの小童にそれほどの器量が有る訳か?」
「孫九郎(大道寺政繁)、虎の子を見て猫だと勘違いする事に成りかねぬぞ」
氏堯に言われて政繁は浅慮であったと謝る。
政繁を思って康秀が猪助に小寺家の事を聞く。
「猪助、小寺だがどうであった?」
「はっ、小寺でございますが、当主小寺政職は中々の人物にございます。天文十四年(1545)に家督を継いで以来、出自を問わず多くの有能な人材を登用し、領國を大きく発展させております」
猪助の話に皆が感心してる。
「所で、子供とかはどうなのか?」
「政職の子供ですか?」
「そうそう、父親がそれほどの人物で有れば、子が居ればそれらも優秀なのではないかと思って」
「子は氏職と申しますが、父と違い凡庸と感じられました」
「はっ?」
「何か有りましたでしょうか?」
「いや、何でもない。立派な父親なのに、子が凡庸とはと驚いただけだ」
康秀は小寺の子であるはずの黒田官兵衛の事を聞きたかったのだが、小寺は小寺でも小寺違いであったし、実はこの頃、未だ黒田を名乗っていたのであった。
「そう言えば、小寺の宿老で黒田職隆なる者は、主君を越える相当な切れ者の様にございます」
「ほう、どの様な男だ?」
氏堯が興味を持つ。
「はっ、詳しくは不明なのですが、元は近江の出身で佐々木一族の出とも言われておりまして、何でも十代将軍足利義稙公の怒りに触れ、先々代黒田高政が近江を退去させられ、備前福岡に土着し、先代重隆の代にて目薬を売り巨万の富を得て、それを元手に小寺を支援し仕えたようにござます」
「斉藤山城(斎藤道三)の家の様ですな」
「彼処は、親父が西岡の油売りだったはず」
「新九郎、長四郎、話の腰を折るでない。猪助、話を続けよ」
猪助の話を聞いて雑談をし始める氏政と康秀を、氏堯が諫める。
「はっ、その黒田職隆は城下に百間長屋なる物を建てて、貧しい者や下級武士、職人、行商人などを城下で見かけると、自ら声を掛けて住まわせるなどして面倒を見ております。そして彼等を配下に組み入れたり、噂話や各地の話を聞き、情報収集の場所としても活用しております」
「ほう、情報こそが重要と言う事をよく判っている者が此処にも居た訳ですね」
「まるで戦国四君の様な事をしていますな」
「戦国四君?」
氏政が言った戦国四君の事が判らずに康秀が聞き返す。
「なんだ、長四郎でも判らない事が有るのか。戦国四君とは大昔の唐の戦国時代の四人の有力な政治家で、それぞれ三千人もの食客を養っていたそうだぞ」
自分ではとても敵わないと感じていた博識の康秀にも判らない事が有るのかと嬉しくなった氏政が、丁寧に戦国四君の事を教える。
「ああ、なるほど、斉の信陽君でしたっけ?」
康秀が“ポン”と手を打って閃いたとばかりに答えるが、氏政がだめ出しをする。
「長四郎、それは間違いだ、信陽君っていったい誰だ?」
「えっ、幻庵老に聴いた気がするんだけど……」
「長四郎、恐らくそれは、斉の孟嘗君、魏の信陵君、楚の春申君がごっちゃに成っているぞ、因みに後一人は趙の平原君だ」
苦笑いしながら、氏政が答える。
あっと言う顔をして恥ずかしそうにする康秀を見て、参加した全員が笑い出す。
「黒田職隆、成る者相当な知恵者と見えるな」
「長四郎ばりの知者で有るやも知れんな」
「私などそれほどではありませんぞ」
賞められた康秀が恥ずかしそうに否定する。
康秀は話を聞いているうちに、黒田職隆こそが黒田官兵衛の父親であると確信を持ったが、官兵衛が軍師として活躍する素地が父親に有ったとはと驚いていた。
「所で、子供とかはどうなのですか?」
「職隆の子供ですか?」
「そうそう、父親がそれほどの人物で有れば、子が居ればそれらも優秀なのではないかと思って」
「職隆には二男二女がおりまして、嫡男は満吉と申して、天文十五年(1546)生まれの十一歳でございますが、父御と違い武芸を好み弓乗馬に明け暮れる毎日にございます。次男は齢三歳、娘は八歳と五歳にございます」
「ふむ、未だ未だのようなのか」
「しかし、十一で弓馬の修行と言う事は父の血を濃くは引いていないようですな」
康秀の知る黒田官兵衛と真逆の姿に頭が痛く成っていた。官兵衛の事柄が職隆のした事で有ったのかと怪しんでいた。
それらの話の後、讃岐に送った密偵からの報告が行われた。
「三田様の仰せになりました竹糖でございますが、讃岐では見あたりませんでした」
密偵が土下座するかの如く頭を下げ続ける。
「いや、仕方が無い事。あるかないかの物であったし、気に病むな」
香川県といえば和三盆という康秀のうろ覚えで、実際は徳川吉宗の時代に始まった砂糖栽培であったから、この時代に探す事が出来る訳が無かったのである。
「長四郎、砂糖の原料は無かった訳か」
「ええ、沢庵坊の話がうろ覚えだったのかも知れません」
「仕方が無い事よ」
「こうなれば、板屋楓から砂糖が取れるそうですので、それをやってみます。何れは唐や琉球から砂糖黍を手に入れ、暖かい土地で作って見せましょう」
「そうよ、そのいきだ」
こうして北條家の談合は夜半遅くまで続いて行ったのである。
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