第伍拾壱話 新帝即位
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弘治三年(1557)九月十五日
■山城國 京 内裏
知仁天皇が、文正元年(1466)後土御門天皇が行って以来廃絶してしまい、父後柏原天皇は出来ず、自らも長年出来なかった物が、念願が叶い大嘗祭を行った。
その五日後の弘治三年九月一日に、皇太子方仁親王に譲位を行い上皇となった。
寛正五年(1464)に、後花園天皇が後土御門天皇に譲位して以来、実に九十四年ぶりの出来事であった為、知仁上皇の喜びは格別のものであった。此より、上皇は治天の君として尊号後水尾となり、これ以後、後水尾上皇と呼ばれる事になった。
上皇は大嘗祭を行えた喜びからか、病が小康状態になり、寝込んではいるが意識はハッキリしてしていた。だが、政治には最早口出しせず、病の快気を願うばかりであった。
譲位を受けた方仁親王は践祚を行い、その後即位式を行い天皇となった。
新しい帝になり、人事の一掃が行われ、後水尾上皇以来の関白であった近衞前嗣は真継久直問題で左大臣を辞任した物の、関白位だけは手放さない状態で有ったが、関白自体が有名無実化している昨今では無理矢理奪う事も無かろうと留任が認められたが、実際の朝儀には参加出来ず朝廷から距離を取らされる事と成った。
その為により一層、朽木谷に都落ちしている将軍足利義輝との関係を強化する事となり、父である近衞稙家と共に、都で暗躍する事と成る。更に妹を義輝の正室とする事も約束され、以前より近衞家は朝臣と言うより幕臣に近い行動を取っていたが、この事で更にそれに拍車がかかる事と成った。
内裏再建に伴う御所の移転は、旧来の役所の再建により、地下人達にも確りとした仕事が与えられ、それに伴い、公家衆、地下人の帝に対する忠誠心が大いに高まる事と成り、更にそれを成し遂げた北條家に対しての信頼感、親近感へと昇華していった。
昨今都では、民百姓も北條家と朝廷の行う公共事業で潤っており、更に北條家と山科卿が共同で開設した診療所のお陰で、病気の蔓延が阻止され、以前から山科卿の行っていた、お金の払えない貧しい人達にも分け隔て無く治療する事もあり、北條家の悪口を言う者は数少なく、居るとすれば、治安が良くなった為商売が出来ない盗賊か、ぼったくりの医者か、幕府方の支持者ぐらいであった。
そんな中、方仁帝の新たなる朝儀が始まっていた。
今までであれば、大臣は殆ど朝儀に参加する事は無かったが、新たなる朝廷の意志を示す為に、新帝の政治に参加する資格が有ると考えられた公家達が参集されていた。
その中には、先頃准三宮の宣下をうけて金蓮院准后と名乗っている方仁帝の弟宮である覚恕法親王と、伏見宮邦輔親王が参列しているのが公家衆の興味の的と成った。何故なら普段、親王は延暦寺曼殊院門跡として曼殊院に居るはずなのだから。
その様な事もあったが、帝が御簾の向こうへ来ると、早速集まった公家衆を代表し、左大臣兼左大将正二位西園寺公朝と右大臣正二位花山院家輔が帝へ挨拶を行った。
「主上におかれましてはご機嫌麗しく」
「御尊顔を拝見し、恐悦至極に存じます」
主上も機嫌が良いのか、御簾を開けにこやかに応対する。
「朕もそなた達の姿を見て良き気持ちじゃ」
此には公家衆も呆気に取られるが、親しみやすいと考えを切り替えた。
朝儀では、まず伏見宮邦輔親王、九條稙通、二條晴良が中心に決めた、検非違使の復活に伴う人事が決せられ、帰京していないにも係わらず、北條家の承諾を得て、北條綱重による池家の再興と、池右衛門権佐朝氏への改名、そして検非違使佐就任が決せられた。
その次に、覚恕法親王が呼ばれる。
「覚恕、そなたは此より還俗し、宮家の創設を行う様致せ」
帝の言葉に、事情を知る者以外が驚きの表情を見せる。何故なら昨今の財政難により遠江国入野へ都落ちし宮家としての体裁を取れなくなった木寺宮や、天文二十一年(1552)に薨去した為断絶した常盤井宮恒直親王以来、伏見宮家以外の宮家は存在していないも同然だったのだから。
帝の言葉に、形式上一度は断る振りをする覚恕。
「恐れ多き事なれど、主上、拙僧は一度仏門に入った身にございます。今更還俗をしても何らお役に立てぬと愚考致します」
其処で、邦輔親王が宮家創設を勧める事で、皇族としても応援しているという態度を取り、他の公家衆の意識を賛成に回らせる役割を行う。
「覚恕殿、この度の、大嘗祭、譲位、内裏再建、諸々の朝儀の復興は、朝家の復興の兆しにございましょう。その為にも、主上の弟君でいらっしゃる覚恕殿が主上をお助け致すが、孝行と言う物でしょう」
邦輔親王の言葉に、多くの公家が賛同の意志を見せる。
覚恕も此に答える形で、受諾の意志を示す。
「主上、微力なれど、此より天下万民の為に主上のお手伝いを致す所存にございます」
「うむ、覚恕頼むぞ」
「御意」
出来レースではあるが、多くの公家の賛同を得た形での覚恕法親王の還俗であった。
「覚恕には新たなる諱として恭仁と名乗る様に致せ、また二品に叙す。(親王なので正二位、従二位相当)宮家の称号は柳葉とせよ」
柳葉という称号に宗尊親王歌集を思いだした者は、関係者以外は、和歌の権威である冷泉為純(藤原惺窩の父)ぐらいであったが、それがどの様な意味なのかは判らなかった。
「主上、お願いがございます」
身を正した覚恕改め恭仁が主上に話す。
「なんじゃ?」
「私には子がおりません。其処で曇華院に居る妹宮、聖秀女王を我が養女として、伏見宮邦輔親王殿の第六子にて青蓮院門跡尊朝法親王を聖秀の婿にして宮家の後を継がせたく思います。この件なにとぞ、お願い申し上げます」
帝は考え込むように恭仁に尋ねる。
「恭仁は、まだ三十半ばではないか。室を迎え入れ子を成す事も未だ未だ可能であろうに、何故なのじゃ?」
恭仁は、兄の質問に佇まいを直し答える。
「はっ、拙僧は還俗するとは言え、一度御仏に使えた身、その拙僧が率先的に妻を迎えるは、我が心が許さぬのです。この件なにとぞお聞き届け下され」
此処まで言われては、帝も頸を縦に振るしかなかった。
「あい判った、宮(伏見宮)もよいのじゃな?」
「御意にございます」
続いて、大嘗祭、譲位、践祚、即位の連続に依る慶事に対して、恩赦を行う事が決まり、更に京洛の民に対しては、地子銭(現代の固定資産税)の五十年間の免除が決まったが、此も北條側がその分の損失補填をするからと納得させた物である。
これは、次の話と同じく、完全に康秀の考えから生まれた物であり、地子銭免除は幕府の財政を潰す物。更に、織田豊臣政権に対しての嫌がらせ。堺に関しても同じである。
「続いて、太閤殿(九條稙通)からの話じゃが、朝家復興の為に、凡そ六百年ぶりに銭を鋳造する事を話し合いたい」
銭の鋳造の話に、公家衆も再度驚く。何と言っても六百年も朝廷も幕府も自前の通貨を準備出来ず、中国からの渡来銭で経済活動を行ってきたのであるから、それを鋳造すると言う事は、それ成りの経済的な裏付けが無い限り、後醍醐天皇の建武新政時に、紙幣“楮幣”貨幣“乾坤通宝”が発行されるはずが、発行できなかった二の舞になるのではと思われた。
「鋳銭司を復活させ、鋳銭司として、真継久直に家督を奪われていた、御蔵職新見富弘に鋳銭司を兼任させ、堺にて商人請負で公鋳貨幣の鋳造を行いたい」
その話に、公家衆から無理だという言葉が出てくる。
「太閤様、しかし堺は三好の勢力下、旨く行くはずが有りませんぞ」
しかし、次の話で公家衆の不安が消え去った。
「三好家は、幕府との和睦の仲裁を朝廷に求めております。その仲裁が成った際には、幕府側と協議の上、堺を朝廷の御料所として献上すると」
「ほんまかいな?」
「三好側もその旨は承知との事にございます」
この発言で更に場が騒がしくなるのであった。
これらの行動は全て、北條側の工作の賜物と言えた。
数週間前。
北條家と伏見宮邦輔親王、九條稙通、二條晴良が集まり話し合いをしていた。
「つまりは、鋳銭司を復活させよと言うのでおじゃるか?」
「左様でございます。今現在、日の本では乾元大寳が応和三年(963)に製造中止になって以来、公鋳貨幣の鋳造が行われてきませんでした」
「そやな、朝廷の力が落ち始めた頃やからな」
「その為に、今は、唐よりの渡来銭が多数流通しておりますが、昨今の商いの繁栄、年貢の金納により銭貨の絶対量が不足し、大変な状態と成っています」
(実際にこの当時、中国が銭貨輸出を禁止し、日本は大規模なデフレになっていた。)
「其処で、銅の集積地たる堺にて堺商人に請け負わせ、朝廷直営の鋳銭所を開設致します。それにより銭貨の流通量不足を補い、更には朝廷の威信の強化にも繋がります」
その話を聞いて考え込む伏見宮邦輔親王、九條稙通、二條晴良。
「更に、征東大将軍府に付属する形で、関東にも鋳銭司と鋳銭所を設置し、東國に於ける銭貨の供給を行います」
「ふむ、確かにそうなれば、朝廷の権威も復興するであろう」
「この政策を行えば、必然的に何も出来ない幕府に代わり、朝廷が全國の貨幣経済の担い手となり、より一層権威の上昇に繋がります」
「しかし、堺は三好が押さえておるし、本来は幕府の直轄地や。そう簡単にはいかへんと思うが」
「確かに、公方と三好家は敵同士です。しかし三好長慶殿には幕府を倒してまで天下を握る気合はないようです。その気合が有れば、既に公方はあの世に行っておりましょう」
「そやな、確かに幾らでも機会は有ったはずや」
「それに、朽木谷に居るとは言え、数万の軍勢を送れば御首を得る事など易いでしょうし、それでなくても刺客を送れば簡単でしょう」
「三好は公方を殺す気が無い、公方は意地だけで三好から都を奪還しようとしている。此処は朝廷が間に入り、両者の講和の手助けをした方が良いかと」
「せやけど、朝廷も膝元の争乱に足を突っ込みたく無いと言うのが本音なんやけどな」
「その辺は、当家も力を尽くします」
「うむ、やってみるのもおもろいかもしれへんな」
こうして、数日後に三好側との話し合いがもたれた。
大嘗祭、譲位に参列し、参列できない征夷大将軍足利義輝より優位な状態の、三好長慶は伏見宮邦輔親王、九條稙通、二條晴良、北條氏堯達との会談で得る物が何か有るかと考えていた。
其処で話された事は、三好長慶が悩んでいた将軍との和睦の件であり、それに朝廷が力を貸す事、その代わりに堺の表面上の統治権を朝廷へ渡す事などであった。実際表面上でも朝廷の御料所にしてしまえば、将軍と言えども手出しが出来なく成り、裏の支配者たる三好家の利益に繋がる事は自明の理であった。
その為、会談の後、長慶は一族を呼び、対応を協議した結果、水軍を率いる為に堺が重要だと力説する安宅冬康は反対したが、九條稙通の娘婿十河一存、北條と昵懇になった三好義賢などは賛成に回った結果、最終的に長慶自身が結論を出し、話に乗る事に決めた。
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知仁天皇 明応五年十二月二十三日(1497) - 弘治三年九月五日(1557) 史実に於ける後奈良天皇だが、この世界では、朝家復興の先駆けとして、聖君である清和天皇の別名水尾にあやかり後水尾となる。
覚恕法親王 大永元年(1521)- 天正二年一月三日(1574)百六十六世天台座主 信長の延暦寺焼き討ち時の座主。その後武田信玄の元へ亡命、信玄が権僧正の僧位を得るために尽力している
尊朝法親王 天文二十一年八月二十日(1552) - 慶長二年二月十三日(1597)天台座主 越後国の戦国大名・上杉景勝と親交があった。
聖秀女王 天文二十一年八月八日(1552) -元和九年九月二十五日(1623) 将軍足利義輝の猶子
宗尊親王 仁治三年十一月二十二日(1242) - 文永十一年八月一日(1274)鎌倉幕府六代将軍。皇族での初めての征夷大将軍
大分早足です。