第参拾玖話 雑賀衆
お待たせしました。
又康秀が無茶なことをしでかします。
弘治三年四月二十八日
■和泉國 堺南荘 開口神社境内念仏寺
和泉國堺南荘で、北條氏堯達が数人の男達と会談に及んでいた。
「鈴木佐大夫と申します」
「土橋平次と申します」
「佐竹源大夫と申します」
「岡太郎と申します」
「北條左衛門佐と申します。皆様、遠きところをよくおいで下さいました」
北條家が会談しているのは、紀伊國北部の土豪集団雑賀衆と、根来衆の中で康秀が是非にと呼んだ人物達であった。各々二名の子を連れ控えさせている。
関東の大大名北條家との会談だと言うのに、四人とその子達は悠然としている。流石傭兵として名を売っている者達であると氏堯も関心していた。
「北條殿、我等を態々名指し為されたのはそれなりの理由があるのでしょうな」
鈴木佐大夫が不敵な顔をしながら問いかける。
それに答えるように、氏堯が話し出す。
「今回の件は、皆様が持つ鉄炮技術を北條家が学ぶ為に伝授をお願い致したく。日の本に名高き皆様をお呼びした次第です」
「なるほど、我等雑賀の者は銭により兵を貸し出してきましたが、今までの北條殿であれば例えどんなに銭を積まれましてもお断り致したところでしたが、上人様(本願寺顯如)との和睦、そして関東での真宗の布教許可で我等としてもお断りする理由が無くなりました。しかし、北條殿には以前岸和田流の炮術師が伝授を行っていたのでは?」
流石に鉄炮の事に詳しい雑賀衆であるから、鉄炮の流れもかなり気にしているようである。
「戦は刻一刻と進化致す物。既に七年経ちさほど改良も加えていない状態では時代の流れに対応出ません故、お願い致したく」
「なるほど、上人様のお手紙通りの御方のようですな。上人様が認めた以上は派遣も吝かではございません」
佐大夫の言葉に、今まで黙って話を聞いていた土橋平次が話し始める。
「当家は雑賀とはいえ、真宗だけではなく真言宗にも伝手がございます故、何の憂いもございません」
「当家も同じく」
「当家も」
佐竹源大夫、岡太郎も賛同の意志を見せる。
四家を代表する形で鈴木佐大夫が話を続ける。
「して北條殿は如何ほどの兵をご希望なのでしょうか?」
「うむ、各家より一名ずつを頭領とし、各々七十から八十名ほど、都合三百名をお願いしたい」
三百名という、雑賀衆三千の一割にも及ぶ数に驚く雑賀の者達。
「北條殿、畿内ならいざ知らず、遙か彼方の坂東まで行けと言えば行く者もおりましょうが、あまり期待できない人数になりますぞ」
佐大夫の言葉に他の三人も頷く。
「集めるとして、残す家族が困らぬだけの物も必要なれば」
平次が暗にどの程度の実入りがあるのかを聞いてくる。
「その事だが、それぞれの頭領に支度金千貫文(一億円)、その他の者に支度金百貫(千万円)を、更に北條家在籍中には頭領には五百貫文の所領を、その他の者には五十貫文の所領を与える事を確約致しましょう」
その金額に更に驚く雑賀の者達。
「それは真でございましょうか?」
いつの間にやら、佐大夫の喋り方が丁寧になっていた。
「当家は家祖早雲より根無し草故、嘘は言えませんから」
氏堯が祖父早雲の事を例に挙げる。
「ハハハハ、此は参りましたな」
氏堯の自嘲気味の話に、佐大夫も平次も笑いはじめる。
「全くよ。そうまで言われるからには間違いはあるまい」
平之丞の言葉に佐竹源大夫、岡太郎も頷く。
「北條様のお話は素晴らしいのですが、昨今の畠山殿や三好殿との問題が有る為に、我等は國に残らなければなりません」
「さすれば、東国へ行くにあたり、誰を行かせるかですな」
「技量の問題もあります故」
佐大夫や平次にしてみれば、自ら行けば大口の顧客である以上、実入りが良いのは判っているのであるが、如何せん先年弘治二年(1556)には根来の泉識坊と杉之坊が抗争、今年初めには雑賀の中之島で戦闘が起こったばかりであり、畠山氏や三好氏達の抗争も有り、留守にするわけに行かず、かといって他家の者を行かせて、みすみす千貫文を棒に振るのも惜しい思いがしていた。
佐大夫達がそう考えている中、氏政が話しかける。
「北條新九郎と申します。皆様、宜しゅうございますか?」
「何か妙案でもございますか?」
「妙案という程でもございませんが、聞けば、鈴木殿、土橋殿、佐竹殿、岡殿のお子等は幼少の砌より鉄砲に慣れ親しみ腕前も素晴らしいとのことでは有りませんか。しかも鈴木殿の御三男と佐竹殿の御次男は雑賀の中之島の戦いで活躍為さったとか。皆様のお子等では駄目でしょうか?」
佐大夫や平次達にしても次男以降の子等を坂東へ向かわせることも考えはしたが、自分からすれば未だ未だ未熟な息子達を出して不評を買うことを考えて、自ら言えなかった事を氏政が言ってくれたのであるから、内心では喜んでいたが、傭兵業の信頼の為には自分達から数段落ちると伝えなければと考えた。
「北條様のお話は嬉しきことですが、息子達は未だ未だ未熟にございます。北條様のご期待に添えるとは思えないのですが」
鈴木佐大夫の話を聞き、後に控えていた三男の重秀が、鉄炮には自信も実績もあるから行かせろと言うニュアンスで話す。
「親父、それはないぜ。平太(土橋守重(土橋平次重隆長男))や平尉(土橋重治(土橋平次重隆次男))と違って、俺と源左(佐竹義昌(佐竹源大夫允昌次男))は北條様の言う通りに何度も手柄を立てているんだぜ。中之島の戦じゃ源左の危ないところを助けたしな」
「孫六、嘘を言うな。お前が危ないところを俺が助けたんだろうが」
重秀の嘘に佐竹義昌が抗議する。
「まて、鈴木の小僧(重秀)。俺達が活躍していないとは馬鹿にするな。貴様が小手先の遊びをしている中で、俺達は指揮していたんだからな」
重秀の大言壮語を巫山戯るなと土橋守重が睨み付ける。この二人相当仲が悪いようである。史実を知り、端から見ている康秀にしてみれば、こういう事が高じて、後に重秀が守重を謀殺したんだなと考えていた。
「お前達、いい加減にせんか、北條様の御前だぞ!」
「北條様、見ての通りの未熟者でございます故、ご無礼は平にご容赦を」
左大夫、平次、源大夫が頭を下げる。
「いやいや、元気があって良い事です。それに此だけの勢いがあれば、坂東でも活躍して貰えましょう」
氏堯の言葉に重秀が自信満々に答える。
「北條様、俺や源左が行けば千人力だぜ」
「北條様、申し訳ございません。阿呆に付ける薬はないと申します故」
それまで黙っていた岡太郎次郎(岡吉正(岡太郎長男)が苦笑いしながら話す。
「何を言う、太郎次郎。お前など友垣もいないで、一日中鉄砲稽古ばかりの稽古阿呆ではないか」
「賞め言葉と思っておく」
重秀の言葉を軽く流して、吉正が真面目な顔で氏堯に話す。
「北條様、私は嫡男でございますが、是非とも坂東にて鉄砲の粋を見せたく存じます」
「岡殿、御嫡男はこう申しているが如何ですかな?」
氏堯の質問に岡太郎が答える。
「はい、太郎次郎は一度決めたら親の言う事など聞きませぬ。北條様のご迷惑にならなければ、お連れ頂きたく」
「うむ、岡太郎次郎、禄五百貫と千貫文を約束致す」
「はっ」
最初に決まったのは意外にも岡吉正であった。
「北條様、太郎次郎だけでは不安ですから、我等もお願い致します」
吉正が先に仕えることが決まり、焦った重秀が真面目な顔で懇願する。
「鈴木殿、佐竹殿、お子等の坂東行き、許して頂けますかな」
ここまで行けば、左大夫も平次も嫌とは言わずに是と答える。
「はっ、北條様のお役に立つようにお使い下さい」
「判り申した。では、鈴木孫六、佐竹源左、禄五百貫と千貫文を約束致す」
「任せてくれ」
「はっ、お任せ下さい」
こうなると、土橋家も出さざるを得なくなるが、孫六と仲の悪い嫡男守重は無理であるから、些か技量の落ちる次男の重治を出す事に決めた。
「北條様、当家は次男の平尉重治をお仕えさせたく」
「土橋平次が息、平尉重治にございます」
平太に比べて冷静そうな次男が挨拶をした。
「判り申した。土橋平尉重治、禄五百貫と千貫文を約束致す」
「はっ」
このやりとりの中、他の雑賀根来の者達は冷や冷やしながら兄弟達の言動を聞いていたので、無事に済んでホッとしていた。そんな中、氏堯が左大夫に話しかける。
「左大夫殿、我が北條領には鍛冶はいますが、残念な事に鉄炮鍛冶がおりません。今は堺などから買い集めてはおりますが、坂東の田舎と思われているのか、一度撃つと壊れるような不良品が多く含まれており、大変困っております。又堺より一々買い求めていたのではいざという時に間に合いません故、腕の良い鉄炮鍛冶を雇いたいのですが、ご協力お願いできませんでしょうか?」
不良品を売りつけられたと言う話に、鉄炮をこよなく愛し使いこなしている岡吉正などは「許せぬ話だ」と言い始める始末。鉄炮撃ちにしてみれば、鉄炮の故障が即自分や仲間の死に直結するだけに、胡乱な鉄炮など使えないと言う感覚から、鉄炮鍛冶派遣にも積極的となった。
「判り申す。不良品の鉄炮ほど、厄介な物はございません。我等の伝手で優秀な鉄炮鍛冶を紹介致しましょう」
「忝ない。鉄炮鍛冶達には、それぞれ支度金五百貫と二百五十貫の禄を与えましょう」
「何と破格な。そんなに出されたら、雑賀根来はおろか、畿内中の鉄炮鍛冶が移住してしまいますぞ」
左大夫や平次の話はあながち誇張ではない。鉄炮鍛冶の禄について、天正七年(1579)信長の家臣の鉄炮屋与四郎は百石扶持、天正二年(1574)羽柴秀吉は近江國友村の國友藤兵衛に百石扶持、慶長三年(1598)頃の上杉家では和泉松右衛門に二百石扶持を与えていたのであるから、この時代なら二百五十貫(千石)は破格であった。
その後、最近の北條家では恒例となっている康秀監修の料理で持てなされた雑賀根来の面々は、本願寺へお参りに行った。
雑賀根来でも腕前の確かな四名が北條家に来ることになり、康秀がニヤニヤすることになる。
鈴木左大夫達が帰った後、康秀の台本通りに狙う人物を手に入れた氏堯、氏政と康秀が話す。
「思惑通りに四名の招致が出来たわけだな」
「ええ、此で当家の軍政改革が一気に進みますよ」
「雑賀衆に自作鉄砲か、しかし考えた物だ」
「大量の扶持をこんな方法で手に入れるとは中々考えられんぞ」
氏堯と氏政が呆れたように康秀と話す。
「まあ、どうせ上杉憲政の旧領へ移動した者達の旧領ですから禄として与えても我々には何の痛みも無い訳で、しかも換金作物増産の為に余剰が出来てますから、新知二万貫ぐらい楽に出せますし」
「確かに、それで雑賀衆三百を雇えるなら安いと言えるのか?」
氏堯も些か高い気がしているが、費用対効果を考えれば有益な戦力と言えた。
「まあ、此から益々忙しくなりますから、覚悟を決めて下さい」
康秀の話に、氏政が「堪らんな」とぼやいていた。
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鈴木重秀、別名雑賀孫一。天文三年(1534)?or天文十五年(1546年)?~(天正十四年(1586)?)雑賀孫一伝説を構成する一人。雑賀衆の鉄砲衆を率いて織田信長と本願寺の戦いで活躍。弘治二~三年に雑賀や根来で既に活躍している為に1546年誕生説を採らず、1534年誕生説を採ります。
佐竹源左衛門義昌、(1538~?)
後の佐武伊賀守義昌、雑賀衆。一時四国へ渡り長宗我部氏の宿敵本山氏に田畑70町歩で仕える。仕える際、長宗我部、本山両氏から競って勧誘されるが、先に本山氏が声をかけたので本山氏に仕えるも敗戦。雑賀帰国後、織田軍と戦いに参加するなどで活躍。鈴木重秀とは共に戦場を駆け回った戦友。的場源四郎とも戦場を共にしている。後に浅野家に仕え、1619年以降広島で死去。
岡吉正(?~?)
紀州雑賀の土豪 狙撃の名手。鈴木重秀と共に活躍。天正四年(1576) 第二次石山合戦で信長を狙撃し大腿部に重傷を負わせる。羽柴秀吉の紀州攻めでは早々に降伏し、雑賀衆の早期崩壊の要因となったとされる。
土橋重治(?~?)平之丞、平尉 紀伊名草郡の土豪土橋重隆次男
兄と共に反織田で戦う。1579年には、別所長治の三木城へ兵糧搬入を成功させている。1582年に兄守重が鈴木重秀に謀殺されると城に籠もり抵抗するも敗戦、長宗我部氏を頼る。本能寺の変後雑賀へ戻り羽柴秀吉に招致されるも、重秀も呼ばれた為拒否。その後秀吉の紀伊攻めで敗戦後、再度土佐へ。その後北條氏政に仕えるも、小田原落城で又浪人。その後毛利氏に仕える。
雑賀衆コンプリート間近?
鈴木重秀ですが、孫一としない事ですが、未だ家督も継いでいないので孫六としています。又他の武将で名前の判らない人は家族等から作者が推測した名前になっています。