第参拾漆話 其処の頃の小田原
お待たせしました。今回は小田原方面の話です。
マイナーすぎる武将が参加します。
一部人名については創作です。
地元の国人領主ですから、名字ぐらいは判るんですけどね。
弘治三年三月十七日
■相模国足柄下郡小田原城
康秀を夜這いした為に尼寺へ入れられる所であった井伊次郎法師は、北條家側から康秀の側室として是非嫁いで欲しいとの連絡で、今川家からも許可を受け、髪を切ることもなく実家のある遠江井伊谷を旅立った。
途中駿府では今川義元に非公式で謁見したが、その際『女地頭にも春が来たか』と茶々を浴びて、『恥ずかしながら』と顔を赤くして答えた。小田原に到着すると早速、城へと招かれた。広間に通されると其処には当主北條氏康、長老北條幻庵が待っていた。
「今川治部大輔が臣、井伊直盛が娘、祐と申します。左京大夫様、お初にお目にかかり恐悦至極に存じます。又この度はお呼び頂き、真に忝なく存じます」
丹田に力を込めた次郎法師が本名を名乗り深く挨拶を行うが、自ら泥棒猫と思っているので重苦しい状態で有る。
「祐殿、遠き小田原まで大儀であった。北條左京大夫だ」
氏康が真面目に対応するが、相変わらず場の空気が重い。
「儂も海道一の女傑を見たくてな」
「幻庵老」
「ホッホッホ、冗談じゃ、冗談」
幻庵が冗談を言いながら場の空気を和らげる。
「して、祐殿、今回来て貰ったのは他でもない。長四郎にひかれたそなたなら判るであろうが、あれは未だ危うい、そなたの慈愛で包んで欲しいと思ってな」
「しかし、長四郎様には奥方様が……」
「ホッホッホ、それを知っていて、夜這いをかけたのでは無いのかな」
「あれは、つい酒の勢いと言いましょうか……」
幻庵の言葉に次郎法師は真っ赤になって手をモジモジさせる。
「祐殿、儂も人の親だ。我が娘妙は未だ未だ幼いが、姉の綾が上総介殿(今川氏真)に嫁いで以来、妻として奮闘している。更に康秀は遠き都よ、お主の様な姉が出来ればどれ程心強いか。既に妙には伝え、納得済みだ。康秀の側室として、そして妙の姉として仕えて欲しい」
氏康の誠意を込めた言葉に、次郎法師も腹を決め、見事なまでの挨拶を行う。
「左京大夫様、私如きに、此程の温情、真にありがたく。誠心誠意お仕えいたします」
「祐殿、頼みますぞ」
「御意」
「さて、そろそろ良かろう」
幻庵がそう言うと、襖が開かれ、十代前半の姫が現れた。
「祐殿、私が三田長四郎康秀の妻、妙です。此から宜しくお願いしますね」
妙姫が、その朗らかな笑顔を祐に向け挨拶してくる。
祐にしてみれば、罵声を浴びる覚悟であったが、それが無く驚いている。
「井伊祐にございます。妙姫様にはお初にお目にかかり恐悦至極に存じます」
「祐殿、そんな堅くならないで下さい。康秀様の魅力を知れば、それはひかれますから」
妙姫は朗らかに喋り、その場の空気が一気に軽くなり、祐もやっと安堵した。
「はい、康秀様に救われました」
「でしょう。康秀様はお人好しですし困った方を捨てて置けませんから、都で何人の側室が出来るやら判りません。だから祐殿も気にしないことですよ~。それに近江では稚児を拾ったそうですし」
妙姫は朗らかで明るい顔立ちながら、時々毒を吐く。
それを見ながら、氏康と幻庵はたいした者よ、と妙姫の度量を賞めていた。
「さて、祐殿も疲れたであろう。続きは夕餉の時にでも致そう」
幻庵が幕引きを行い、顔見せが終わった。
その日から、妙姫と祐が二人で色々することが多く成ったが、極めつけは北條家の姫達に祐が武術を教えたことであろう。数か月後には薙刀を振り回す妙姫達とかが見られるようになったそうだ。
流石に妊娠が発覚した氏政夫人梅姫は参加しなかったが、お茶会などでは話を聞いて和気藹々としていたそうだが、妙も祐も康秀の功績については完全に隠し、康秀が夜這いされた話などしか話さず、康秀は甲斐から来た者達には完全に笑いものになっていた。
弘治三年三月十五日
■武蔵國多東郡喜多見村喜多見城
北條氏綱の娘婿で北條家から「蒔田殿」と呼ばれ、後北条氏分国内に在りながら独自の印判状を用いることを許された世田谷城主吉良頼康の家臣でありながら、北條家にも仕えている喜多見城主喜多見摂津守頼忠は、北條氏康から直々の手紙を唸りながら読んでいたが、読み終わると近習を呼んだ。
「官八郎、官八郎はいないか?」
「はっ、何用でございましょう?」
頼忠が呼ぶと、未だ若い二十代前後の若侍が現れた。
「うむ、直ぐに猪方(狛江市猪方)へ向かい、小川次郎左衛門を連れて参れ」
「はっ」
話を聞くと直ぐに谷田部官八郎は走っていった。喜多見と猪方の距離は僅か二里(1300m)(戦国期の一里=六町(648m))程であるので直ぐ行き来出来る距離である。
次郎左衛門が参上するまで、御本城様から直接の命令に色々考えている頼忠である。
彼の喜多見家は元々は坂東平氏に属し、後三年の役で先陣を務めた名族秩父氏の支流の一族江戸氏であり、江戸太郎重長は源頼朝から武蔵の棟梁と呼ばれるほどに勢力を増していた。
しかし南北朝時代に武蔵守護畠山国清の命により、新田義貞次男、新田義興を矢口渡(東京都大田区矢口か東京都稲城市矢野口)で味方をすると騙し、船に乗せて船底に穴を開けて沈め謀殺するという事件を引き起こした為、『汚き者よ』と蔑まれ、次第に勢力を衰退させていった。
元々江戸城の地に館を築いていたが、衰退と共に江戸も明け渡した末、喜多見に移転していたのである。この時代は吉良家の家臣と北條家の家臣として二足のわらじを履く状態で有った。
あれこれ考えて居る間に半時ほどがたち、押っ取り刀で駆けつけた様な姿の小川次郎左衛門と官八郎が現れた。
「殿、小川殿を連れて参りました」
「官八郎御苦労」
「殿、いきなりのお呼び如何致しました?」
野良仕事中だったのであろう、顔、手足が若干泥で汚れた状態で次郎左衛門が質問してくる。
「すまんな、小田原の御本城様(氏康)から手紙が来てな」
次郎左衛門はその話に怪訝そうな顔をする。末席とは言え宿老の地位にある次郎左衛門としては、殿が御本城様から手紙など貰った試しが無く、命令と言えば大概が本来の主君である吉良家との相談で決まることが普通だからであった。
「御本城様から手紙とはいったい何を?」
「うむ、何故か知らんが、お主を小田原へ参内させよとの事なのだ」
喜多見頼忠の話に、次郎左衛門は驚きを隠せない。
「私がですか?」
「うむ、お主を名指しで指定している。それと、何故か知らないが、小川家の系譜や感状などの文書類も持参するようにとの事だ」
「何故文章類を、いったい何があるのでしょうか?」
次郎左衛門の質問には頼忠も全く覚えが無いので答えられない。
「判らんな、しかし御本城様の命は守らねばならんから、早急に支度し小田原へ発ってくれ」
「判りました」
怪訝な表情で屋敷へ帰る次郎左衛門であった。
■武蔵國多東郡猪方村
屋敷(屋敷と言っても農家に毛が生えた程度)へ帰ると、隠居した父と母、妻が出迎えた。三人ともいきなりの呼び出しに何かと思っている様で、一様に心配そうな顔をしている。
「お帰りなさいませ」
「うむ」
「次郎左衛門、どの様な仕儀であった?」
父の太郎左衛門が難しい顔をしながら尋ねてくる。
「取りあえず屋敷に入ってからに致しましょう」
「そうじゃな」
屋敷に入り、畳などと言う高級品のない板の間で丸茣蓙に座り話し始める。
「私に御本城様から小田原へ出頭せよと命が下りました」
その話に太郎左衛門は驚く。
「御本城様というと、あの御本城様か」
「はい、北條左京大夫様です」
「なんで、そんな恐れ多いことが」
「私にも判らないのです」
「次郎、なにかしたのけ?」
「何もしてないです」
四人が皆、考えながら頭を働かせるが答えが出ない。
「取りあえず、支度をしないと」
「父上、御本城様からの命には、小川家の系譜や感状などの文書類も持参するようにとの事のございます」
「なんと、我が家の系譜を……」
考え込みはじめる太郎左衛門。
「全く見当が付きません」
「何故なんでしょうかね?」
皆が皆、判らないと言う表情で頭を抱える。
「次郎、考えて居ても仕方ない、小田原へ行くしかなかろう」
「では支度をしませんと」
「七枝頼むぞ」
「はい」
翌日早朝、小川次郎左衛門は支度を済ませ、主君頼忠の元へ向かい挨拶を行った。
「殿、行って参ります」
「うむ、息災にな」
「はっ」
喜多見からは二子へ抜け多摩川を渡り足柄道(現国道246)を厚木まで行き、其処から相模川沿いに平塚まで行き、其処から東海道へ入り小田原へと向かう二日間の旅を終え十七日夕刻に到着し、そのまま小田原城へと向かい到着した旨を報告した結果、翌日早朝から北條左京大夫自らが謁見するとの事で、指定された宿で旅の疲れを癒すことになった。
弘治三年三月十八日
■足柄下郡 小田原城
翌日早朝小田原城へ登城した小川次郎左衛門は謁見の間ではなく、十畳程の小部屋へ通された。其処で待つこと四半時(三十分)もしない間に、奥の襖から北條左京大夫らしき人物と六十代過ぎと思える老人が現れた。
「北條左京大夫である。遠路御苦労」
「北條駿河守(幻庵)じゃ」
「それがし、喜多見摂津守が家来、小川次郎左衛門直高でございます。御本城様、駿河守様に拝顔を賜り恐悦至極に存じまする」
カチカチで次郎左衛門が挨拶をする。
その姿を見ながら氏康が話を始める。
「さて、次郎左衛門、そちを呼んだのは他でもない、左衛門佐(氏堯)達が都へ行っているので、此方からの使いを頼みたい。梅姫にやや子が出来た故、新九郎に伝えねばならんし、家族からの手紙も届けて欲しい」
次郎左衛門は内心“エッ”と言う思いで氏康を見た。確かに嫡男の奥方妊娠は大切なことだが、態々何故自分を呼んだと思ったらであるが、此処は主君の主君の命は逆らわずに了承せねばと考えた。
「はっ」
疑問が生じている次郎左衛門に幻庵が話しかける。
「次郎左衛門」
「はっ」
「不思議そうな顔をしておるな。何故自分が呼ばれたか、それに拍子抜けの仕事じゃからな」
「いえ、滅相もございません」
「次郎左衛門、そちの家は元はと言えば武蔵七党の西党と聞くが確かなことか?」
此処で家系の事が出たので次郎左衛門も驚くが、事実なので肯定する。
「はっ、初代、日奉武蔵守宗頼が武蔵国守として下向して以来西党として西、小川、平山、二宮、由井、立川、川口などの地に土着して来ましたが」
此処で次郎左衛門の口が重くなる。何故なら小川氏は鎌倉時代初期に和田義盛の乱で和田側に付き、執権北條氏に敵対した末、族滅寸前までになり、所領を全て失い生き残りの少数が現在の地に逃げ込んで鎌倉時代は細々と暮らしていたからである。鎌倉北條氏の後身を標榜する小田原北條氏にしてみれば、小川氏は先祖に楯突いた謀反人の子孫にあたるわけで、それを咎められるのではと思ったからである。
次郎左衛門の態度を見て、氏康が安堵するように話しかける。
「次郎左衛門、昔のことは気にする事も無かろう。既に三百五十年も昔の話だ」
その言葉に、次郎左衛門も安堵した顔を見せる。
「お主の家は武皇嘯厚大禅門殿(源頼朝)に仕え、宇治川の合戦や承久の乱で活躍したそうじゃな」
次郎左衛門は、先祖の功績を語る幻庵に驚きを隠せない。
「はっ、確かにその通りでございます」
「其処で、日奉流西党小川氏である次郎左衛門に都へ上がり、左衛門佐の旗下に付いて貰いたい」
「日奉が都で通じましょうか?既に宗頼より六百年以上都へは帰っておりませんが?」
「疑問は有ろうが、そちで無ければならんと、左衛門佐からの催促が有ったのでな」
次郎左衛門もこう言われてしまえば、何が必要なのかさっぱり判らないが、行くしかないと腹を決めた。
「はっ、微力なれど力の限りを尽くす所存にございます」
それを聞くと徐に氏康は佇まいを只して喋る。
「うむ、頼んだぞ。使いをするに辺り、小川次郎左衛門直高を直臣とし旧領武蔵多東郡猪方村を安堵、武蔵多東郡大蔵村に新恩二十貫文を与える事とする」
次郎左衛門はあまりの厚遇に驚き、頭を畳に擦りつけるようにお辞儀を行う。
「摂津守には伝えておく故、確りと勤めを果たすようにせよ」
「はっ」
こうして、武蔵の零細国人小川次郎左衛門直高は北條家直臣として取りたてられた。二日後の三月二十日に共に都へと向かう者達と共に小田原を発った。
妙姫が恋姫の風に思えてきた今日この頃。