第参拾睦話 本願寺
お待たせしました。調子は相変わらずですが、花粉症じゃないことだけが救いか。
今回は前回製作のカレーが活躍?
弘治三年三月二十五日
摂津國嶋上郡 芥川山城
三好長逸が、転法輪三條家令嬢春子姫の本願寺顯如との婚姻を、元管領細川晴元の養女としてではなく北條氏康の養女として嫁がせたいと三好長慶に相談に上がったのは、長慶が風邪をひいていたために遅れに遅れたこの日になった。
「御屋形様、ご気分は如何でありましょうか」
恭しく長逸が加減を聞く。
「うむ、もう大丈夫じゃ。それにしても世の中には五月蠅い輩が多すぎるな」
「はっ、元管領は丹波で入京を狙っておりますし、河内は河内で治朗四郎(畠山高政)と安見(宗房)が蠢いております。また恥ずかしき事なれど、播磨では三木城を落とせず申し訳ございません」
長逸は天文二十三年八月と二十四年一月に三木城の別所村治を攻めたが、何れも落城させることが出来なかったため、恐縮しているのである。
それに気づいた長慶は、手を振りながら長逸に話しかける。
「よいよい、敵がそれだけ強大と言う訳だ。何れ何とかせねば成らんが、気に病むこともなかろう」
「ありがたき幸せ」
「所で、北條の事だが、何を言ってきたのだ?」
「はっ、元管領の養女となり本願寺顯如に嫁ぐ予定の三條家の姫ですが、北條家当主左京大夫氏康の養女として嫁がせたいとの事にございます」
その事を聞いて長慶は素早く考え、三好家に益であると答えを出した。
「なるほど、北條左京大夫の息子の嫁が三條の孫で有ったな。その縁で養女とするか。それは当家にとっても良い事だ。なにしろ元管領が本願寺と縁を結ぶと甚だ厄介だからな。父上(三好元長)が晴元に連携した一向一揆に殺害されて早二十五年か。再度その様な事起こしてはならんな。北條が義父になれば、晴元が本願寺を利用することも出来まい。長逸、早速北條にはその旨了承したと伝えよ」
「はっ」
弘治三年三月二十七日
■山城国京 管領細川晴元邸
三好長慶と三好長逸が芥川山城で会談した翌日には、白井胤治が三好家側が快諾した旨の連絡を伝えてきた。それに伴い、翌日には氏政が細川邸へ訪問した。
「叔母上、初めてお目にかかります。北條新九郎氏政にございます」
「新九郎殿、よく訪ねて来てくれましたね」
細川邸で、三條家息女春子姫は満面の笑みで氏政を迎え入れていた。その笑みで年上の甥の訪問を心から喜んでいる事が判る。
「叔母上はてっきり丹波にいらっしゃるかと思い、ご挨拶が遅れたことをお詫び致します」
北條家側では、幼少の頃より六角定頼、細川晴元の養女になっていた関係を考え、よもやと思い三條邸へは使者を送り無人と確認していたが、管領細川邸までは調べるわけにも行かず、細川晴元と共に丹波へ向かったと考えていたが、実際には確認不足で細川晴元都落ちの際に同行せず、そのまま細川邸に住み続けていたのである。幾ら三好一党でも管領の養女になったとはいえ、従一位左大臣三條公頼の娘をどうこうする訳にも行かなかったからである。
「いえいえ、左衛門佐殿や新九郎殿が上洛したときに連絡を入れれば良かったのですが…」
そう言いながら、うらぶれた状態の屋敷を目で追う仕草をする。
「ご心配為さらないで下さい。我々が来た以上、叔母上に苦労をかける様なことは致しません」
「新九郎殿、姉上も良き義息子を得られて幸せでしょうし、梅姫も嘸や嬉しい事でしょう」
氏政は、叔母の満面の笑みと、愛してやまない妻のことを賞められて照れまくる。
「はっ、梅は私には勿体ないほどの良い妻にございます」
「ふふふ、ご馳走様です」
「叔母上」
「所で、新九郎殿が来たのは挨拶だけでは無いでしょう」
流石は、幼い頃より政略の駒として養子(家督相続権が有る)や猶子(家督相続権が無い)となっていた事はあり、その頭脳で氏政が来た理由を、単なる挨拶だけでは無いと感じ取っていた。
氏政にしてみれば、言いにくい事ではあるが、ズバリと別の理由があると指摘されたことに動揺していた。
「はっはい、実は真に言いにくい事なのですが、本願寺顯如殿との婚姻の件でございます」
「覚悟しております。破談になるのでしょう」
二十歳の氏政に対して十四歳の春子姫が凛とした顔で言う。
それにタジタジになる氏政。
「いえ、正親町三條公兄殿、三條西実枝殿とも話し合いましたが、叔母上を我が父、氏康の養女として本願寺顯如殿へ嫁いで頂こうとの事に」
聡明な春子姫は直ぐに事の次第と背景を考え終えた。
「成るほど、正親町三條、三條西共に、乗っ取りの汚名を着るのを嫌がりましたか」
「それは…」
「隠さなくてもええ事です。まあおもう様が実教はんを養子にした以上は私は不要ですからね。まあ顯如殿へ嫁ぐのも一興と思っておりましたが、管領はんが都落ちでどないなるかと、心配はしてましたけど、可愛い甥の義姉になれると有れば、面白うことや」
十四歳の娘に論破される氏政は端から見ると滑稽だが、氏政から見れば、凄い義叔母だと感じていた。
「はっ、それでは、納得して頂けるのでしょうか?」
心配そうに喋る氏政。
「そない心配することないで。公家に生まれた以上はそないこと覚悟の上や」
「叔母上様」
「チョイ待ち。今日から、御姉様や、新九郎はん」
春子姫は笑いながら、氏政を弄る。
「はっ、義姉上様」
「ええことや」
その後、新妻のことなどで散々春子姫にからかわれ続けた氏政であった。
弘治三年四月十五日
摂津 石山本願寺
本願寺に北条氏堯、氏政、三田康秀達が、永正年間(1504~1520)(三浦道寸との戦いで浄土真宗は三浦方に味方した為に国府津真樂寺は追放され、それ以来北條領では浄土真宗が禁止されていた)からの禁教体制にあった、浄土真宗との和解をするため、そして養女と成った三條春子姫と本願寺顯如との婚姻についての事を話し合いに来た。
本願寺では、王法為本(統治者を助ける事が仏法の道である)という教えが有ったため、過去の経緯を考えても北條家の訪問を不安視や敵視する者達は殆ど居なかった。何故なら、表面上和平を結んでいたにもかかわらず、三浦道寸が永正七年(1510)に先に小田原城を攻めたのが直接的な抗争の勃発になったからである。
またこの頃の本願寺では天文五年(1536)以降諸大名の行う武力闘争や幕府の軍事行動に対しては原則として不介入の立場を堅持していた事、そして元管領と三好家との抗争に巻き込まれないためにも、今回の北條家の提案は渡りに船といえたのである。
北條家一行は多数の供物を本願寺に寄進した。
本願寺では、供物の一部として送られた干椎茸の山に、僧達が唸りを上げている。
元来椎茸は自然に生える物を採取することがこの時代の常識で、精進料理に欠かせない食材として大変に高価な品であった。鎌倉時代に宋に留学した道元が、地元の僧に干椎茸が無いかと無心されたほど、その当時から日本産の天然椎茸は、殆どが干椎茸として明へ輸出されていた程であり、後に豊臣秀吉の時代でさえ、珍しい食材として珍重されていたほどで、日本本土ではこの当時大変貴重な食材であった。
それを康秀が寒天での菌糸の培養により椎茸の栽培に成功した結果、小田原では干椎茸を進物として大量に送ることが可能となって、各地の寺に対して相当な影響力を持ち始めていたのである。今回の都での活動でも各寺に干椎茸の進物が送られ、大変好評を得ていた。
本願寺の書院造りの客間に案内され、其処で本願寺十一世宗主顯如上人と対面した。
「上人様、北條左京大夫殿よりの御使者北條左衛門佐殿が参りました」
下間頼康が顯如に恭しく伝える。
「北條殿、私が本願寺宗主顯如です」
天文十二年(1543)生まれの顯如は、康秀と同じ十五歳で有りながら天文二十三年(1554)に十二歳で父 証如の死により、十一代目宗主を継いで既に四年目になっていた。
「北條左京大夫が四弟北條左衛門佐氏堯と申します。宗主様にはご機嫌麗しく」
「そう堅くならずとも、我らは北條殿と戦をするわけではありませんので」
「はっ」
「北條殿、他の方のお名前をお伺いして宜しいかな」
「さすれば」
氏堯の言葉に氏政と康秀がそれぞれに挨拶を行う。
「北條左京大夫が息、北條新九郎氏政と申します」
「北條左京大夫が婿、三田長四郎康秀と申します」
「皆お若い、氏政殿はお幾つですかな?」
「二十になりましてございます」
「なるほど、叔母の方が六歳も年下とは」
顯如もにこやかな顔で話をする。
「はっ」
「康秀殿、婿と言われるがお若いようで。お幾つですかな?」
「はっ、天文十二年生まれの十五歳でございます」
その年を聞いて顯如が興味津々で話しかける。
「それはそれは、拙僧も天文十二年生まれの十五歳ですから、同年ですな」
「はっ」
「上人様、そろそろ、左京大夫殿からのお話を」
頼康が、世間話に興じてしまう顯如に釘を刺して、正式な話に戻させる。
「そうでしたね。左衛門佐殿、あらかたの提案は聞き及んでおりますが、左京大夫殿の存念は如何様な事でしょうか?」
顯如が真面目な表情になり、氏堯に身を向け話しかける。
「左京大夫は先々代早雲庵宗瑞、先代春松院(氏綱)以来の真宗への弾圧を侘び、国府津真樂寺を始めとする、領土内の真宗寺院の再興をお約束致します」
その言葉に、その場に居た本願寺側の者達から厳が取れ始めた。
「左衛門佐殿、真樂寺を含む相模の真宗は三浦道寸に味方し追放された物。此ばかりは我らとしても仕方なき事と考えておりました故、お気になさらずに。我ら真宗として再興のお約束、真に嬉しきことです」
「はっ、宗主様のお言葉に泉下の早雲庵宗瑞、春松院も安堵するでございましょう」
顯如の言葉に氏堯は安堵した表情を見せる。
「上人様、更に左京大夫殿より上人様の婚姻のお話が」
「そうでしたね。左衛門佐殿、管領殿の猶子から左京大夫殿の養女となり私に嫁ぐと言うが、その存念はなんなのでしょう?」
「はっ、ここに控える新九郎は三條の姫様の姪婿にあたります。管領様が丹波へ逃走以来、姫様が捨て置かれた状態、あまりの無体に上洛した以上は親族として捨て置けずに、かってを致しました」
「まあ、そうしておいた方が、お互いのためと言う訳ですね。筑前殿(三好長慶)も我らが管領殿と繋がる事を警戒している様ですからね」
「そうでございます」
顯如の言葉に頼康が頷く。
「しかし、左京大夫殿の娘婿になる訳ですから、氏政殿、康秀殿とは義兄弟の間柄となる訳ですね。頼もしき義兄弟ですね。今宵は話を色々聞きたい物です」
こうして、本願寺側と北條側の会談は平和裏に終わり、その夜は本願寺で豪勢な晩餐を御馳走に成った。
「ほう、春子姫はそのような冗談が好きな方のですね」
「はい、散々妻のことで弄られまして」
「いやはや、面白き方のようで、安心致しました」
「下間頼廉と申します。三田殿は天竺の料理に詳しいとか?」
「三田康秀と申します。詳しいというか、天竺の人々の食する物を一部作れるだけにございます」
その話に、本願寺側は顯如を含め興味津々で聞く。
「康秀殿、どの様な料理ですかな?」
「カリーと申しまして、各種の漢方薬や香辛料を使った薬膳料理のような物です」
「ほう、やはり仏教発祥の地らしく薬膳料理を食しているのですね」
「聞くところに依りますと、毎日カリーを食しているとのこと」
「なるほど、是非食してみたい物ですね」
「宗主様、私が我が國風に直した物でしたら作ること可能ですが」
「なんと、それは是非、食してみたいですね」
そんな会話の結果、材料を堺から取り寄せ、翌々日の四月十七日にカリーを康秀が作ることになった。
弘治三年四月十七日
■摂津 石山本願寺 庫裏(台所)
本願寺の広い庫裏では、康秀が次々と漢方材料や香辛料を計ったり混ぜたりしているのを、興味津々の顯如が見学している。
「その黄色い粉は何でしょうか?」
「此は漢方の秋鬱金です」
「なるほど、間違いなく薬膳料理なのですね」
「そうなります。天竺では各家庭でそれぞれ独特の調合があるそうで、家ごとに味が変わるとの事です」
「なるほど、興味深いことです」
「今回は、私が幼き頃、旅の僧沢庵殿から頂いた本に基づいて試行錯誤の末、我々の口に合うようにした物でございます」
「それはそれは」
顯如はそれを聞き関心したのか頷く。
「秋鬱金、馬芹(クミン)、胡荽(コリアンダー)、唐辛子、黒胡椒、大蒜、生姜、丁子(グローブ)、桂皮(シナモン)、肉荳蔲(ナツメグ)などを臼でひき程よく混ぜてた物が、天竺語でマサラという物です」
「なるほど、香ばしい匂いが漂いますね」
「それにしても、康秀殿は博識でございますね」
「いえいえ、探求心が深いだけにございます」
「探求心が深いことは良い事と思います」
顯如の言葉にその場に居た皆が頷く。
「ありがたく」
康秀が顯如に礼を言いながらも手は止めない。
「さて、人参、長葱、里芋、大根、鴨肉等を油で炒め水で煮込みます。程よく煮えたところで、マサラを混ぜて行きます。その際に溜醤油と味醂に、鰹節、昆布、干椎茸から取った出汁を混ぜ仕上げます」
康秀が手際よく作っていくと、何とも美味しそうな匂いが漂ってくる。
「更に、飯にかける場合は、とろみを付けるために片栗粉を溶かし込みます。また饂飩の汁とする場合はこのまま丼に入れ、茹でた饂飩にかけます」
「おお、非常に食欲をそそる匂いですね」
完成したカレー丼とカレー饂飩の色を見て二十一歳の下間頼廉は一瞬躊躇したが、味見と毒味を兼ねている以上意を決して食べ始める。一口二口と食べる内に、どう見ても散々待たされた末にやっと来た食事をガッツク姿にしか見えなくなった。
「上人様、これは非常に美味でございます」
「このままだと頼廉が全て食べてしまいそうですね」
顯如が笑いながら、頼廉を弄る。
「上人様、其処まで意地汚くはございません」
「そうですね、では私達も頂きましょう」
そう言い、顯如達全員がカレー丼やカレー饂飩を食べ始める。
「確かに、美味です。頼廉が夢中になるのも判る気がしますね」
「色が、何とも言えませんが、この味といいコクといい素晴らしい」
「天竺では毎日このような物を食しているとは」
「天竺の物とは少々違いますが、概ね近い物と言えます」
「うむ、此は是非、真宗にも取り入れたい物です」
「宗主様、詳しき作り方を伝授致します」
「なんと、ありがたい事です」
顯如も頼康も頼廉も康秀の答えを聞いて喜んでいた。
「その他の、料理も判る限りお伝え致します」
この後、氏政、康秀は顯如自身から義兄弟の契りを結ぶ事を提案され快諾した。その後本願寺と北條家の繋がりは非常に強くなる。また康秀の伝えた創作印度料理は本願寺で天竺料理として作られ続けるが、後々一向一揆と戦ったある勢力はカレーを食べる一向宗を見て『一向宗はク○を食う』と馬鹿にしたという。
浄土真宗は僧に妻帯と肉食が許されていました。