第参拾肆話 公方とガチンコ
大変お待たせしました。相変わらずの体調ですが、何とか連休で書ききりました。今回話が途中で切れないので七千字強で普段の倍ぐらいです。
弘治三年三月九日(1557)
■近江国朽木谷岩神館 足利義輝仮行在所
九日卯の刻(六時頃)に内野を発った北條氏堯一行は、高野川沿いを大原三千院を越え、一刻(二時間)ほどで途中越へ到着し、大舘晴光と合流し、ここで休憩後、晴光の案内で朽木谷へと向かった。
安曇川沿いの約六里(24km)の道のりを一刻ほどで走破し、巳の刻(午前十時)には朽木谷へ到着した。そのまま、大舘晴光の案内で、足利義輝の住まう岩神館へ向かった。
岩神館は、享禄元年(1528)に朽木植綱が都より逃れた将軍足利義晴のために建てた館で、この当時は足利義輝が仮行在所として使用していた。
「此方でお待ち下さい」
大舘晴光が館の一角に一行を案内し、部屋を退室して行った。
「左衛門佐殿、どうなりますかね?」
「さてな、此処でいきなり、武者が雪崩れ込んで来ることは無かろうよ」
氏堯は長四郎の質問に、歴戦の武者らしく、落ち着いて対応する。
その頃、足利義輝は大舘晴光から北條一行が到着したとの報告を受けていた。
「上様、北條左衛門佐以下到着致しました」
義輝は晴光の言葉を聞きながら、考えて居る様に見えた。
「うむ、大儀であった」
晴光は、一行に何時会うかが義輝から無い事を訝りつつ待機しているが、一向に話が進まない為、細川藤孝が義輝に言葉をかける。
「上様、北條左衛門佐との引見は如何致しましょうか?」
藤孝の質問に義輝がおっくうに答える。
「うむ、未だ待たせておけばよい」
「上様、それでは、呼んだ意味がございませんぞ」
「そうは言っても、未だ考えが纏まらんのだ」
「では、中食の後で宜しゅうございますな」
「うむ、そう致せ」
「御意」
そう言うと、藤孝は晴光を引き連れて退室して行った。
「兵部大輔殿、上様は如何なる考えなのであろうや?」
「左衛門佐殿、上様も迷っていられるのでは無かろうか」
不安そうな表情の大舘晴光を励ますように細川藤孝が答えるが、藤孝自身は義輝が無理難題を考えているのではないかと思っていた。
「ともあれ、北條殿には中食の後で謁見と伝えねばならぬし、湯茶の接待はせねば成るまい」
晴光が当代きっての茶道家藤孝に湯茶の接待を頼みたいと言わんがばかりである。それに気がついた藤孝も、関東で力を付け伝え聞く限りに善政を布く北條家の者と話して見たいと思っていたために了承する事にした。
「左衛門佐殿、私が接待を致しましょう」
晴光は藤孝の言葉にホッとした表情を見せる。
「兵部大輔殿、宜しくお願い致しもうす」
晴光は、そう言うとそそくさと去っていった。
座敷で待たされていた氏堯と康秀の元へ細川藤孝が現れた。
「お待たせして申し訳ございません。それがしは、公方様の近習を勤めます細川兵部大輔と申します。公方様はただ今御支度中につき、若輩者なれど暫しそれがしがお相手するようにと命じられました」
見事な挨拶を行う藤孝。
「左様でございますか、細川殿、拙者は北條左衛門佐と申します。此処に控えるは、義理甥三田康秀に御座います」
「三田長四郎康秀と申します」
見事な挨拶を返す氏堯と康秀に、藤孝も安堵する。何故なら未だ未だ若輩の自分が相手をしても良いのかという感覚も有ったが、好奇心には逆らえなかった。
「些少で御座いますが、茶室に湯茶の用意を致しましたので、此方へ」
藤孝の案内で氏堯と康秀は、茶室へ向かった。到着した茶室はこぢんまりとした四畳半程の部屋であった。
それぞれ座ると、藤孝が茶入れから茶杓に抹茶を取り、唐渡りと見える見事な茶碗に湯と茶を入れて茶を点てはじめる。
シュンシュンと鉄瓶が湯気を上げ、茶筅がシャカシャカと茶碗の茶と湯を混ぜ合わせていく。
暫くして、茶を点ておわり、藤孝が氏堯の前へ茶碗を差し出す。
氏堯は殆ど作法など知らぬ為に、先だって本能寺で津田助五郎の点てた茶を飲んだときの作法を思い出しながら飲んでいくが、付け焼き刃なために些か滑稽な状態で、藤孝も作法の面では氏堯の底の浅さを感じていた。
氏堯が茶を全部飲んでしまったので、康秀用に再度藤孝が茶を点てた。
康秀は目の前に置かれた茶碗を鑑賞しつつ、藤孝からしたら、多少は独創的作法で茶を味わっていく。その姿に藤孝は驚きを隠せない、氏堯でさえ付け焼き刃の作法なので、田舎領主の四男ではどの様な不作法をしでかすかと思っていたのだから。
「結構なお点前で」
康秀の姿に藤孝だけでなく氏堯も驚いていた。尤も氏堯の驚きはたった一回の茶会で作法を覚えたのかという感心であったが、当の康秀は前の人生で作法を覚えておいて良かったと思っていた。
藤孝は康秀に感心しながら、北條の治世や関東に対する噂の真実を聞き始めた。
「北條殿、貴家では四公六民という低率年貢、雑多な税の一本化などしているとのことですが、何故でございましょう?」
藤孝の質問に氏堯は康秀に目配せすると、氏堯に代わり康秀がすらすらと答える。
「細川殿、それについては私が。そもそも北條家では、二代氏綱より禄寿応隠と言う印判を使ってきておりますが、此は“人民よ皆平和で暮らそう”と言う意味でございます。それを具現化するために、四公六民の税率と、雑多な税を貫高(収穫高)の六分の段銭と、四分の懸銭そして棟別銭にして、民の疲弊を少しでも無くそうとしたのでございます」
なるほどと藤孝は感心するが、もう一つ聞かねばならぬと質問する。
「気を悪くなさらないで頂きたいが、鎌倉御所様(関東公方の当時の一般呼称)や関東管領と争ったのは何故でございましょう?」
藤孝にしても、乱世にその様な質問をする事自体疑問を感じてはいたが、幕臣としては聞かざるを得ないと自問してからの質問であった。
「そもそも関東では応永二十三年(1416)の上杉禅秀の乱以来戦乱に事欠かず、民は疲弊してきておりました。しかし鎌倉御所様も関東管領様も民の事はお構い無しに、権力闘争に明け暮れてきました。その為に民は田畑を踏みにじられ、家屋敷を焼かれ、家族を攫われ、その上で過酷な税の取り立てに苦しんできました。その為に、敢えて北條家は、民のために悪名覚悟で争ったのでございます」
「なるほど、しかし何故其処まで民を?」
藤孝と言えども、この年二十四歳。未だ未だ未熟であった。
「細川殿、武士は親、民は子と考え為され普通“親がたらふく食って、子にひもじい思いをさせる”事は致しますまい。我ら武士は上級武士に成るほど、生産に何の寄与も致しません。民により喰わせて貰っている存在です。親が子に喰わせて貰っている以上、その子を護らないでどうしろと言うのでしょうか?」
康秀の言葉に、藤孝は大いに驚く。
「なんと、斬新な考えでございますな」
此により藤孝が北條家と康秀に大いに興味を持つ切っ掛けとなった。
暫く話し込んでいると、部屋の外から藤孝を呼ぶ声がする。
「兵部大輔様、上様の御支度が調いましてございます」
「祐光あい判った」
そう言うと、氏堯、康秀に向き直した。
「北條殿、三田殿、上様の元へ御案内いたします」
「宜しくお願い致します」
藤孝に連れられ、将軍の御座所へと向かう前に、藤孝は共に向かう近習の紹介をした。
「此は、私の家臣で若狭国熊川領主、沼田光兼が子、祐光と申しまして、若年ながら 陰陽道・易学・天文学に通じております」
紹介された祐光は利発そうな目をしながら挨拶をする。
「沼田祐光にございます」
「北條左衛門佐氏堯と申す」
「三田長四郎康秀と申します」
当たり障りのない挨拶であったが、祐光の視線は康秀に向いていた。祐光にしてみれば、茶室の隣室で聞いていた康秀の話に非常に興味を持っていたからであった。
藤孝に案内され、御座所へと到着し下座で待つ。
周りには細川藤孝、大舘晴光、三淵晴員等が控えている。
「上様のお成り」
氏堯と康秀が頭を下げる中、足利義輝が御簾の中へ現れた。
仰々しく、三淵晴員が義輝に説明する。
「上様、関東より北條左京大夫の使いが訪れましてございます」
知っていながら、芝居じみたことをしていく。
「うむ、御苦労、名は何と申すか」
それを聞いて、細川藤孝が氏堯に目配せする。
「北條左京大夫が四弟、北條左衛門佐氏堯と申します」
この会見場では、康秀は空気状態で有った。
「して、左京大夫は何が望みじゃ?」
いきなりの単刀直入に戸惑う皆。
「上様」
晴員が窘めようとするが、鋭い眼光で言葉が出ない。
意を決して、氏堯が答える。
「上様、直言をお許し頂きありがとうございます。左京大夫の望みは関東の静謐、只それだけにございます」
話を聞いている藤孝以外の者は胡散臭そうに氏堯を見る。
「ほう、関東の静謐、只それだけと申すか。ならば進んで乱を起こし鎌倉御所や関東管領を蔑ろにしておるのはどういうことじゃ?」
その質問に氏堯は、先ほど康秀が藤孝に言ったことを話す。その話が進むにつれ段々と険悪な雰囲気になる御座所。義輝は話を聞きながら、北條を使い潰そうと考えながら命じる。
「例えどう繕っても侵略は侵略と言えよう。北條の行動認めて欲しくば、畿内にいる兵で三好勢を都より放逐し予の帰洛を助けよ」
そう言いながら、約束など履行する気のない義輝である。
「上様、我が家の兵は僅か五千でございます。更にこの兵は御所修築の工人を含んだ数、恐れ多き事ながら、無謀でございます」
その言葉に、ムッとした義輝は小姓から太刀を奪い取り御簾から出て氏堯へ見せるように太刀を抜き放つ。
「此は鬼丸じゃ。北條が滅んだ際、新田義貞が手に入れたが、それを討った斯波高経から等持院様(足利尊氏)の下へ義貞の首級と併せて送られた物じゃ、見事であろう」
鎌倉幕府執権北條家の宝刀を見せびらかす義輝の姿に、氏堯も康秀も眉を顰める。何故なら一応執権北條家を意識して北條を名乗っている手前、鬼丸国綱が弄ばれている様で嫌な気分がしていたからである。
「戦など、戦力の多寡ではあるまい、大将の気合いと腕で如何様にも出来よう」
如何にも自分が免許皆伝で有ることを言っているが、氏堯、康秀にして見れば、子供じみた話であった。流石に不味いと思った藤孝等が止めようと声をかけようとする中で、康秀が喋り出す。
「上様、直言をお許し下さい」
「そちは?」
「北條左京大夫が婿、三田長四郎康秀と申します」
多少なりとも興味を持った義輝が話を聞き始める。
「当家は、宸襟(天皇の心)を安んじる為に都へと参りました。それに背くような事を出来ましょうか?上様も朝臣でございますれば、お分かりと存知奉ります」
一々尤もな返しに義輝もぐうの音もでないが、それで諦める義輝ではない。
「ならば、三好を京ではなく摂津辺りで叩けば良かろう」
「恐れ多き事なれど、三好勢は数万の軍勢を軽く集められましょう。僅か二千で勝てる訳がございません」
「関東に覇を唱える北條にしては臆病な事よ。予のように塚原卜伝老に師事した者であれば、無双するのであるがな」
義輝の無茶振りが出て、藤孝が頭を抱えている。
義輝に対して康秀が皮肉を言う。
「上様、昔、有る武将が、自分より手柄を立てた武将に自分こそ剣術の腕は上だと勝負を求めました。勝負を売られた武将は、同じ主君に仕える武将同士が、その様な事をするのはあほらしいと感じましたが、仕方が無しに勝負を受けましたが、後日支度をしてから受ける事に致しました。
後日勝負の日、売った側は剣術の勝負のつもりで来ましたが、買った側は、戦場における鎧兜に身を包み騎乗し、弓、鎗、薙刀で武装した自らの家臣を引き連れてきました。驚いた売った側が聞くと、『儂の武勲は戦場での物、買った以上は戦場での作法でやらして貰う』と凄んだそうでございます」
康秀は、公方自らが戦場で免許皆伝の腕前だろうと、集団戦闘では役に立たないと比喩しているのである。
この話に御座所の室温が一気に下がった。義輝の手はギュッと鬼丸国綱を握り、康秀の目の前に突きつける。
「予を愚弄するつもりか!」
鬼丸国綱を突きつけられても冷静な康秀は頭を少し低くし、更に話し始める。
「昔、秦始皇帝は元々自分の高級家臣であった尉繚が暇乞いをしたとき、何故かと尋ね、始皇帝の政策を批判した為に煮殺し、それ以降始皇帝へ諫言する者は居なくなり、秦は僅か十五年で滅びました。
また楚の項羽は主君である懐王を蔑ろにし、“懐王之約”(秦の首都咸陽に一番乗りを果たした者に秦の本貫の地・関中を与えるというもの)を履行せよと命ずる懐王の詔を無視し、劉邦には一番乗りの約束である関中を与えず、自ら諸侯を封建し、自身は「西楚の覇王」を名乗ると言ったとき、有る老将が苦言を述べたところ、老将を一刀のもとに両断し文句がある奴は他にいるかと凄みました。
また亜父と呼んだ范増の忠誠を疑い諫言を鬱陶しくなり放逐致しました。その為に最後は四面楚歌となり垓下にて滅び去ることと成ったのです。逆に後漢の光武帝は民を慈しみ、兵を愛し、臣と心通わせました」
康秀の言葉に、義輝も途中で振り上げた鬼丸国綱を、振り下ろせなくなっていた。
義輝に対して、康秀は堂々と諫言する者を排除するようでは、碌な公方には成れない、光武帝のようになりなさいと言っているのである。
その事は、義輝とて判っている事であるが、康秀の堂々とした態度にはかなり頭に来ていたので、つい鬼丸国綱を振り上げてしまったのである。
周りからは康秀は、斬るなら斬って見よと言う態度に見える。
康秀自身は、『どうせ一度の人生を二度して居るのだから』と居直った気分であった。
この状態では、北條氏堯、細川藤孝、大舘晴光、三淵晴員達も固唾を呑んだ状態で動けない。
刀を振り上げた状態で義輝は葛藤していた。
“この小童を、此処で斬るのは容易いが、将軍としての予の矜持、世間体に係わる、糞っ、小童如きに論破させるとは何たる仕儀、えええい”
次の瞬間、義輝は鬼丸国綱を康秀の目の前の畳に突き刺した。
ドシュッという音で、康秀の前髪を散らしながら鬼丸国綱が畳に刺さると、義輝は踵を返し上座へ戻り仁王立ちしながら、引きつった顔をしながら笑い出した。
「ハハハハ、三田康秀、天晴れよ。予に此処まで諫言したはそちが初めてよ、褒美に鬼丸国綱は呉れてやる。しかし、光武帝は昆陽の戦いでは、王莽の新軍四十二万の大軍に三千人で突撃して中央突破、その大将である大司徒王尋を斬っているでないか」
義輝は少しでも康秀を打ち負かそうと知っていた光武帝の戦の話をして、先ほどの康秀の話に矛盾があると攻める。
「上様、光武帝には雲台二十八将を始めとする名将が綺羅星の如く付き従っておりました。一騎当千の将兵が三千有れば可能でございましょうが、恐れながら今の借りた兵ではそれは難しいかと。光武帝が挙兵したは二十八の時、上様は二十二にございます。それまでに将と兵を集め鍛え為され」
康秀の言葉に、悔しいが義輝も納得しなければ成らなかった。
“この小童の言うように、将や兵の質が悪いのは判っている。致し方ないか”
結局、何の言質も取らず取られず状態で、将軍と北條家の会談が終わった。
その後、馬で帰洛する氏堯、康秀一行。
「長四郎も肝が座った物だな」
「あの時は必死でしたから」
「兎に角、あまり冷や冷やさせんでくれ」
「出来うる限り、熟考してみます」
「こやつが、お主だけの体でないことを考えよ」
「はっ」
「良いな」
笑っていた康秀が、神妙な顔で氏堯に話しかける。
「鬼丸ですが、如何致します?」
「そちが貰った物故、そちに任す。儂が取り上げることが出来ようか」
「判りました。帰国後左京様にお伺いをたてましょう」
「それが良かろう」
「それにしても、言質を取れないことは折り込み済みであったが、言質を取られなかったことが大きいな」
「そうですね」
「此も長四郎が命を張ったお陰よ」
そんな話をしている中、葛川細川村で、後方から一騎の騎馬が迫ってきた。すわ追っ手かと刀に手をかけるが、見ると先ほど話した沼田祐光であった。
「北條殿!」
「沼田殿、如何致した?」
呼び止められ話を聞くと。
「この先の途中越で大舘晴光の手勢が御両人を討ち果たそうと待ち構えております」
「何故それを?」
「兵部大輔より伝言に御座います。“上様は辛うじて納得したが、納得できない者が居る”と」
「なるほど」
「その為、兵部大輔より百井越えのお供をせよと命じられました」
「しかし、宜しいのか?」
「上様に悪名を着させる訳には行かないと」
どうする、という感じで氏堯が康秀を見る。康秀としては藤孝がそう言って間道へ誘い、襲うのではと、三好長慶に幾度となく刺客を送った義輝であるし、藤孝自身、本能寺の変後、一色義定を宮津城で謀殺した事が頭をよぎったが、あれは明智光秀に荷担したためで有るし、現在は其処までは黒くはないと信じる事にし、氏堯へ無言で頷き返す。
「判り申した。宜しくお頼み申す」
「はっ」
その結果、北條家一行は間道を使い鞍馬へ抜け、大舘晴光の雇った夜盗の集団は待ちぼうけを食らい、大舘晴光を大いに悔しがらせた。
百井越えをした一行は強行軍で、夜遅く到着した鞍馬寺で一泊した。
途中康秀に祐光は多くの質問をしていた。
「三田殿の仰る事は一々面白く興味が湧きます」
「それは光栄です」
翌日別れ際に氏堯が心配した。
「沼田殿、この様な事をして、細川殿、沼田殿のお立場が悪くなるのでは?」
「北條殿、ご心配為さるな、上様は責めません。兵部大輔は何も知りません。それに私は馴染みの女の所へ、お役目を抜け出してしけ込んだだけにございます」
そう言いながら、ニヤリと笑った。
「成るほど、昨夜はお楽しみでしたね」
康秀も笑いながら茶々を入れた。
「真に」
「沼田殿、細川殿によしなに」
「はっ、確と」
北條一行が去っていく姿を見ながら、ポツリと祐光が呟いた。
「さて、武者修行を考えていたが、関東へ行くのも面白いかもしれんな」
その後、氏堯、康秀は無事、帰洛した。
始皇帝と項羽の話は本宮ひろ志先生の赤龍王の話です。