第参拾参話 公方からの召還
お待たせしました。此方はチョボチョボ更新していきます。
京都編が長すぎて、何時終わるか判らない。
弘治三年三月七日
■近江国朽木谷 足利義輝仮行在所
天文二十一年(1552)の都帰還から僅か一年で傀儡からの脱却を狙い、三好長慶との戦いを始めた室町幕府第十三代征夷大将軍足利義輝は、鎧袖一触で三好勢に負け、近江朽木谷の領主朽木元綱の元に逃げ込んでいた。
その足利義輝の元へ関東の雄北條家が帝への奉公に上がったとの知らせが着いたのは、琵琶湖対岸で義輝の支援を行っている、六角義賢からの連絡によってであった。
義輝にしてみれば、北條家は幕府政所執事でありながら、自分の都落ちに同行せずに、三好長慶に尻尾を振る裏切り者でしか無い伊勢貞孝の一族で、北條家自体も初代伊勢盛時(北条早雲)は、元々は第九代将軍足利義尚に仕えていた申次衆、次いでは奉公衆であり、第十一代将軍、足利義澄の命令により、義澄の庶兄であり堀越公方家を義澄の母と弟を殺害して乗っ取った足利茶々丸の討伐を命じた関係で伊豆に所領を得たのに、その恩を忘れたかのように三好に迎合する様に思えたので、北條家を好ましくは感じては居なかったが、貧乏な逃亡生活であるが故、献金を受けた以上は、北條氏康にも管領に次ぐ席次を誇る相伴衆を与えていたのである。
六角義賢からの手紙を見て、足利義輝は憤っていた。
「兵部(細川藤孝)!勢州(伊勢貞孝)と筑州(三好長慶)めが、左京(北條氏康)と組んで、都で何やら暗躍するらしい」
義輝の言葉に、側に仕えていた細川兵部大輔藤孝が、都から来た者達から聞いた噂を伝える。
「上様、都へ北條が参りましたのは、御所の修築をするとの事にございます」
「兵部、口では幾らでも言えることだからな、人などそう易々と信じては馬鹿を見るだけよ」
義輝が藤孝の言葉を聞いても疑ってかかるのは、幾度となく逃避行を続けたからであろう。
「しかし、既に帝にも目通りしたそうにございますれば、嘘偽りを言う訳には参りますまい」
「北條が、真に御所の修築だけに来たのであれば、五千もの兵は要らぬであろう。坂東の田舎侍であれば、嘸や粗暴で粗野であろう。それが五千も来ているのだ。筑州の輩に合力しここへ攻めてくるやも知れん」
この当時の三好家の勢力圏は、摂津を中心にして山城・丹波・和泉・淡路・讃岐・阿波・播磨などに及んでおり、近江・伊賀・河内・若狭などにも影響力を持っていた為、最大動員数は優に六万を確実に越えていたが、それでも播磨、丹波、大和などでは在来の勢力との小競り合いも多く全てを動員するわけには行かないのであるからこそ、朽木谷へ攻めてこないと言う事もあり得たが、実際の所は長慶自身が将軍義輝の排除までを考えていなかったからであった。長慶としても将軍殺しの汚名は着たくなかった事もあるのだが、その様な事を知らない義輝にしてみれば、北條家の軍勢五千が新たな脅威と映るのも、仕方が無いと言えた。
「江州殿(六角義賢)の話ですと、上様にも拝謁したいと申していたとの事にございます」
「詭弁やも知れぬが、会わぬ訳にも行かんか」
「はっ、早ければ数日中にも連絡が有る物と思います」
「うむ、その際には、左京の存念知ることに成るな」
「御意にございます」
細川藤孝が下がった後で、義輝は一人考えに没頭していた。
兵部はああ言うが、予としては北條の輩をそう簡単に信じるわけにはいかぬ。何しろ奴等は、予の専決事項たる関東管領職を、左兵衛督(古河公方足利晴氏)を傀儡として勝手に自称しているのだから。本来であれば、武運拙く越後へ落ちた兵部少輔(上杉憲政)が現在でも正当な関東管領なのにも係わらずだ。
先年会った弾正少弼(長尾景虎)はよく予の考えを判ってくれているが、その敵対者たる北條に関東支配の御墨付きを与える事はせん。精々利用してやるだけだ。まずは、都を占拠している三好勢の洛外退去を北條に命じ、更に江州に坂本まで押し出させ、北條の尻を押させよう。都で三好と北條が消耗し合えば、予の帰洛が現実化すると言う物よ。早速御内書を書かねばならんな。
「誰か有る。左衛門佐(大舘晴光)を呼べ」
暫くすると、大舘晴光がやって来た。
「上様、火急の御用とは如何なる事でございましょう?」
「うむ、竜華越(現途中越)まで行き、洛中に来た北條左京の使者に、仮御所へ伺候するように命じよ」
「洛中へ向かわずに宜しいのでしょうか?」
「北條如きを、態々迎えに行く必要も無いであろう。小物に御内書を関白殿まで届けさせ、後は関白殿にお願いすればよいが、お前は竜華まで向かい、其処で北條が来るまで待機し、連れてくるように致せ」
「御意」
弘治三年三月八日
公方より使いを命じられた大舘晴光は早朝、供の物を連れて、近江と山城を結ぶ鯖街道を南下し、昼前に竜華まで到着した。その後、小物に御内書を持たせて、洛中の近衞前嗣の元へと届けさせた。近衞前嗣は従兄弟である義輝の願いを快諾し、その日の内に北條氏堯が近衞邸へ呼び出された。氏堯に会った前嗣は先日持病の癪で寝込んでいたという割には、えらく元気な姿で、氏堯もやはり仮病であったかと確信した。
「関白様、急の御召し如何為さいましたか?」
「左衛門佐、公方はんより仮御所へ伺候せよとのご命令や」
「はっ、謹んでお受け致します」
「重畳重畳や」
真継の事もおくびに出さない様に前嗣は話していくが、内心は公方に無理難題を吹っかけられるが良いわとせせら笑っていた。
内野の宿舎に帰ってきた氏堯は、北條氏政、北條綱重、北條長順、三田康秀、大道寺政繁、島津忠貞を集めて、足利義輝からの召喚について説明を行う。
「公方様より、朽木谷の仮御所まで挨拶に来いとのご命令が下った」
氏堯の言葉に来る物が来たかと頷き合う皆々。
「叔父上、挨拶だけなら、別段困るわけでも無いでしょうが」
氏政が言葉尻を濁すように話しかける。
「そうよ。単なる挨拶ならば良いが、恐らくは兄者や幻庵老の危惧が現実化するかもしれんな」
「叔父上、それは如何様な事で?」
「それならば、長四郎に説明させた方が良かろう。何と言っても今回の都行きは長四郎の話から始まったのだからな」
仕方が無いかという感じで、康秀が氏堯に代わり説明を始める。
「公方にしてみれば、当家は裏切り者、伊勢貞孝殿の身内であり、京洛を追放し鄙暮らしを強いている元凶の三好長慶殿と協力しているように映ります。その為に公方としては、身の安全に危険を感じたと思います。何と言っても、将軍家では公方の頸のすげ替えなど何度となく起こっていますし、鎌倉幕府では二代頼家、三代実朝は殺害されてますからね。それに足利幕府でも第六代足利義教は暗殺されています。その辺を恐れているのでは?しかも三好家には公方の従兄弟足利義親(足利義栄)も居ますから、尚更でしょう」
公方に様を付けずに、呼び捨てする康秀の話しように皆がビックリする。
「長四郎殿、いくら何でも公方様を呼び捨ては」
島津忠貞が驚いて意見する。
「応仁の乱以来、実力もない上辺だけの権威で、あっちフラフラこっちフラフラした挙げ句、全土に混乱を生じさせている幕府に、それほど遠慮は要らないと思うのですけどね」
「まあ、それはそうだが、言いようが有るからな」
「そう言う事だ、何処で聞かれているか判らんからな」
「了解しました、以後気をつけるように善処します」
氏堯や綱重が纏めてこの件を締めたが、反省する気が全く無い康秀であった。
「しかし、公方様の考えも、実際此までの事を考えれば被害妄想とは言えない所が笑えないな」
康秀の言葉に政繁が呟く。
「その緊張の最中に、裏切り者に縁のある当家が現れたわけですから、警戒はするでしょう」
「その為の召還か」
「それもあると思いますが、恐らくは関東管領についても詰問をされるはずです。元々あれは公方の専決事項ですから、左京様が名乗っている事自体、僭称に過ぎないと言われますから」
「お前な、親父の悪口にも聞こえるが?」
氏政の言葉に、康秀は否定するように手を振りながら答える。
「いや、事実を言ったまでで、現職の関東管領は今越後にいる上杉憲政ですから、そう公方が言ってくれば、そうならざるを得ない訳です。古河公方が幾ら左京様を関東管領に命じても単なる私称にしかならないです」
「それはそうだが、もう少し言いようが有るだろう」
氏政と康秀の言い合いに、事情を知らない者達は冷や冷やしている。
其処へ氏堯が割ってはいる。
「この事は左京殿も幻庵老もご承知の事だ。康秀続けよ」
「左衛門佐殿が公方に会いに行ったら、恐らくは当家が占領している関東管領上杉憲政の旧領を返還せよと命じるか、或いは三好と手を切って、公方の帰洛を助けよぐらい言いかねませんね」
「そうなればはた迷惑でしかないな」
「それに、無茶振りして当家の五千で三好勢十万と戦えとか言いかね無いですね」
「甚だ迷惑な事ですな」
康秀の呆れたような話に、氏政、島津忠貞が迷惑そうに呟く。
「まあ そういった無理を言われないように、左衛門佐殿には旨く煙に巻いて貰わないと駄目なわけです」
「うむ、中々難しいと思うぞ」
「公方は塚原卜伝殿に教えを受け奥義一の太刀を伝授されたそうですから、相当な使い手でしょうから、知より力で何とかせよって言うかも知れません」
「全くだ、其処で、長四郎も伺候させる事にしようと思うが、皆はどう思う?」
氏堯がしてやったりという顔で皆に意見を求めると、皆が皆賛成した。
「長四郎なら、その弁説で公方様を煙にまけよう」
「長四郎殿ならば安心ですな」
「いや、此方の差配もありますので」
必死に拒否する康秀だが、氏堯が止めを刺す。
「長四郎、朽木谷まで往復でも僅か二十二里程だ、二日も有れば往復出来る。それに今の状態ではお前のやるべき程の事も無かろう」
確かに、濠開削と資材運搬だけであれば、政繁達に任せておけば良いわけであるから、ぐうの音もでなかった。
「判りました。公方を煙に巻いてきます」
翌九日早朝に朽木谷へ氏堯、康秀が旅立った。