第参拾話 洛中へ
お待たせしました。いよいよ京都です。
すみません。武家伝奏の人物が間違っていました。文章の改訂を致します。宗篤様、ご指摘ありがとうございました。
当時の京都は濠と土塀と柵と櫓に囲まれた城塞都市になっていたそうです。
氏堯と後奈良天皇の話を追加。
弘治三年三月五日(1557)
■近江国滋賀郡園城寺
園城寺で待機する北條家一行に、朝廷よりの使者が今上帝(史実での後奈良天皇)の綸旨を与えた。普段であれば、綸旨ではなく女房奉書辺りが発されるのであるが、違うと言う事は朝廷にしてもよほどの大事と言う事であろう。使者は数日前別れたばかりの山科言継卿と朝山日乗と言う僧であった。日乗は今上帝の覚え良き三千院で出家した僧で、上人号の宣下も受けている程の人物であった。
本来なら、武家伝奏が武家に対して綸旨などの発給を取り仕切るのであるが、この当時の武家伝奏の広橋家と勧修寺家のうち、勧修寺尹豊が丁度風邪をこじらせ寝込んでいたこと。
広橋家は藤原北家日野流で、広橋國光は、本流である日野家の日野晴光が天文二十四年(1555)に死去しその息子、日野晴資は今川家へ下向していたが、十六才で駿河富士川で水死し、(狂気のため自殺したと噂された)当主不在になり日野家の跡目を将軍足利義輝が國光の息子兼保(後の日野輝資)を擁しており、三好長慶が飛鳥井雅綱の子資堯を擁していたため、三好長慶に近い行動を取っていた北條に対して思うところが有り仮病を使って拒否した。
園城寺の客殿で勅使山科言継、副使朝山日乗が上座に座り、下座に北條左衛門佐氏堯、北條新九郎氏政が畏まる。朝山日乗が菊紋の更紗から漆塗りの文箱を恭しく取り出し、中を開け一礼し綸旨を取り出し、山科卿へと手渡す。山科卿も恭しく一礼後、綸旨を読み始める。
「北條左京大夫、昨今よりの献身、国家太平に仕え大儀である。京洛の仕儀、義挙である」
何となく判るか判らないかの、全部漢文の文章を読まれた後、それを氏堯が恭しく受け取り儀式が終わる。その後、山科卿や朝山日乗を接待するために宴を開く。
「山科様、又お早いお帰りでございますな」
氏堯の話に言継が答える。
「なに、お主らの事を主上に奏上したところ、武家伝奏が二人とも居ないので、詳しい儂に白羽の矢が立った訳じゃ」
「それは、御苦労様でございました」
「なんの、なんの、朝家復興の為ならば、この老骨、骨惜しみはしませんぞ」
ケラケラと酒を飲みつつにこやかな言継卿であった。
言継と話が終わると、氏堯に日乗が話しかけて来た。
「朝山日乗と申します。この度の義挙に関しては、主上も御喜びでございます」
「北條左衛門佐氏堯と申します。帝への献身こそ我らの使命と考えております」
「北條殿の為さる御所の修築は、まっこと素晴らしき事でございます。かく言う拙僧も幾度となく御所の修築を夢に見まして、その為に出家し主上にお仕えした次第でございますから」
「それは、素晴らしき事でございますな」
日乗は氏堯に御所修理の重要性や、帝に対する献身に関して幾度となく話していった。
弘治三年三月六日
■山城国京
山科卿達が宴を開いている中、五千の兵達は出発の支度に追われていた。そして翌六日早朝(午前六時頃)未だ暗い中、園城寺から蹴上まで二里半(10km)程は鎧などを着ずに移動した。その後、蹴上で戦闘部門二千の兵全てが煌びやかな北條家五色備の鎧に身を包み、都へ向かい行進が始まったが、代表者たる五人は全員がそれぞれの色に彩られた古式ゆかしき大鎧に身を固めて馬に乗っていた。
「長四郎、その真っ青な大鎧似合っているな」
苦笑いの氏政に康秀も返す。
「新九郎殿も、その真っ赤な大鎧は映えますよ」
「しかし、いくら何でも北條の五色備の色に揃えたこんな派手な大鎧を着るはめになるとは」
「新九郎、長四郎、諦めよ。都の者達に田舎物と蔑まれる訳にはいかんのだから」
そう言う氏堯の鎧は真っ白の白備であり、“まるで源氏の旗じゃ無いか”と、時々ブツクサ言っているのが聞こえるので、新九郎も長四郎も仕方ないと我慢する。
「ちっ、融深の黒備が一番無難なんだが」
「新九郎殿、拙僧は出家の身、黒以外は着れませんので」
さらっと、北條長順が嘘を言う。
一人静かなのは黄備の北條綱重だが、よく見るとやはりブツクサ言っている。
「あー、なんで俺が黄色なんだよ。左衛門大夫殿(北條綱成)に絶対間違われるって。漢字が違うだけで、読み方同じなんだから。絶対、地黄八幡とか言われるに違いない。あー憂鬱だ」
只一人、代表者でありながら工兵隊の指揮をしている関係で、黒いごく普通の鎧を着ている田中融成がホッとした表情でチラチラ五人を見ているが、気づかれそうになると顔を背けながら、通常の黒い鎧の工兵隊三千を引き連れて続いて行く。その後には岡部又右衛門や加藤清忠達が続いていた。
山科卿や朝山日乗の案内で蹴上を発し、蹴上げ坂を下っていく。知恩院を左に見ながら、白川の支流を越えて感神院祇園社(八坂神社)の門前を通り、数少ない鴨川の橋である四条大橋から京へと入った。
当時の京は、応仁の乱以来の戦乱ですっかり衰退し、上京と下京に分かれており、両者の間は十町(1km)ほど離れており、南北に繋がる道は室町通りだけであった。
四条大橋を抜けると少数の町衆が恐る恐るという感じで観察し、口々に話をしている。
『東夷にしてはええ鎧きたるわ』
『北條やからな、承久の様にならへんやろな』
『どやろう。取りあえずは濠と柵があれば、防げるんとちがうか?』
『女子供は、外へ出さんようにせんと、攫われるわ』
『そやそや』
沿道では、北條家の軍勢を見た京雀達が心配そうに話していた。しかし北條軍は規律正しく行動し進軍していく。その行動は、それまでの乱暴狼藉をし続ける軍勢と一線を画した姿であり、町衆も驚いた表情で見送っていた。
軍勢は下京を避けるため、四条高倉から高倉通りへ曲がり北上をする。何故なら下京は惣構が掘られ土塀と柵により防御され、入り口には木戸門があるからであり、町衆に無用な威圧感や混乱を与えないという配慮であった。
二条通りを越えると上京の範囲に入るため、チラホラと公家衆が姿を現した。皆おっかなびっくりという感じで有ったが、公家衆の着物は薄汚れたり烏帽子が壊れかかっていたりという姿が哀れを誘う。
『あんさん、あれが、御所の修築するっていう北條かいな?』
『そや、そや、山科はんが、先導しとるわ』
『うちらも、恩恵有るんかな?』
『どやろう、何でも政所執事(伊勢貞孝)の身内らしいから、公方はんには良いことやろうけど。うちらはわからへんな』
『せやけど、執事はんの顔に泥塗ることはせえへんやろうから、無下なことはしないのとちゃうか?』
『そやそやな』
『それにしても立派な軍列やな』
『公方はんや細川や山名でも、ああはいきまへんな』
軍勢が土御門大路(上長者町通)に到着すると右折し御所へと向かう。
御所の前に到着し全員が下馬し御所へ一礼を行う。その後、山科卿、朝山日乗と共に氏堯が御所へと向かうが、他の者は待機する。何故なら氏堯は左衛門佐の官位があるが、無位無冠の氏政以下は参内が出来ないからである。
氏堯は二条晴良、九条稙通、山科言継と共に御所内に進み、清涼殿において今上天皇と御簾越しに対面した。
「北條左京大夫が臣北條左衛門佐が参りました」
「うむ」
喋るのは二条晴良であり、氏堯はひたすら跪いて居るだけである。
「左京大夫より、御所新造と伊勢神宮式年遷宮の為の苦役を申しております。又大判金千枚、白銀一万枚、永楽銭二万貫を献上致すとのこと、誠に朝臣の鏡と言える行為でございます」
暫く無言でいた主上が質問してくる。
「左京大夫は何が望みなのじゃ。単なる心の行いでは有るまい」
鋭い指摘に二条晴良も喋れない。
「左京大夫は、関東の静謐を願っております」
山科言継が、代わって答える。
「朕も諸国の静謐を願って般若心経を書したが、左京大夫の願いは同じか?」
「臣も関東の事を聞き及んでおりますが、民が安堵して暮らせるとの事」
「真か」
「諸処の税を統一し、無頼の徒の搾取を禁じ、民の意見を聞くための書箱を広く遣わしているそうにございます」
主上は、山科言継の言葉に一々言葉をかみ砕くように反芻している。
「左京大夫が、関東管領を名乗ったのは如何様な仕儀じゃ?」
後奈良天皇の言葉には、元来上杉家が世襲してきた関東管領職を足利晴氏から認められたとはいえ、名乗ったことに不快感が有るという言い方であった。
「それは」
「朕は左衛門佐に質しておる」
山科卿の言葉を遮るように氏堯に詰問する。
その詰問に氏堯が答える。
「恐れながら、関東公方様、関東管領は、本来であれば、関東の静謐が勤め。しかし永享の乱(永享十年(1438))以来、関東に静謐を訪れず、悪戯に戦乱を長引かせ、臣民を蔑ろにし、多くの民が流浪し死を迎えました。その為に祖父早雲以来、関東に静謐を求め民を慈しむ為に戦い続けました。しかし上杉殿は、只ひたすら民を搾取し蔑ろにしてきたため、やむを得ず越後へと追討するに至りました。しかし何時までも北條は凶賊と言われ続けては、民の安全も守れませぬ故、悪名は覚悟の上で関東管領を名乗りました」
切実に訴える氏堯の言葉を主上は聞きながら、反芻していた。
「左衛門佐、朕は左京大夫が我欲にて関東管領を名乗ったのであれば、許さぬ所であったが、そちの言に嘘偽りをかんじない」
結果的に、氏堯の話が受け入れられ、酒一献と剣を下賜された氏堯は、伊勢家から北條家への改姓の詔を頂ける事と、関東静謐の詔も合わせて頂ける事なり、第一段階は成功裏に終わった。実際金銭に対する潔癖症な所のある主上では、これ以上の譲歩は難しいと考えていた事で、その後の工作は次代の天皇、方仁親王(史実の正親町天皇)との交渉をしようと考えていたからである。
御所前で規律正しく待機する北條家の軍勢を、公家衆や町衆は遠巻きに見ながら驚いていた。今までの軍勢で有れば、乱暴狼藉が当たり前であり、彼等は自らの生命財産を護るためには京都中を濠と柵で覆い、各辻には櫓門が作られていたほどなのである。その恐怖の対象に成るはずの東夷が悪さ一つせずに大人しい状態であるのが、彼等にしては異常な状態で有った。
「長四郎。さっきから、チラホラと公家や町衆が見に来てるけど、直ぐ逃げるな」
暇そうに回りを眺めている氏政が康秀に話しかける。
「それはそうさ。彼等にしてみれば、俺達は東から来た恐ろしい野蛮な武士だ。そりゃ怖いと思うさ」
「なんだい、恐がりにも程がある」
「いやいや、何でも未だに朝日将軍や承久の乱の記憶が鮮明らしいぞ」
「なんだそりゃ、戦と言えば応仁の乱や公方同士の戦とかの方が最近じゃないか?」
「都の連中にしてみれば、応仁の乱は管領(細川勝元)と四職(山名宗全)の争いに公方の跡目争い(足利義尚と足利義視)だから、連中にしてみれば身内の争いごとにしか感じないのさ。逆に我々のような東夷は平将門公以来の恐ろしい存在なのさ」
康秀の答えにその場に居た全員が納得した。
その後、氏堯が御所から退出してきたので、二条卿、九条卿、山科卿、朝山日乗に挨拶を行う最中、上京、下京の代表者達、洛中洛外の寺社から禁制(侵攻してくる軍勢の乱暴狼藉などを予め阻止する為、それを必要とする集団が軍勢の統率者と交渉し、礼銭を支払って獲得する文章)を求めてきた為発行した。
その後は、資材も未だ届いていないので、建設予定地の内野(平安京大内裏跡、正史では後に豊臣秀吉が聚楽第を作る場所)は、御所から十五町(1.5km)ほどであるので、直ぐに現場の把握を行い、その後、二条卿達に紹介状を書いて頂いた寺院へと宿泊するために分散した。
この日は、二条室町の妙覚寺、二条西洞院の妙顕寺、六角西洞院の本能寺等々の寺院に静かに宿泊した。寺側は、武家が泊まるのを極端に嫌うのであるが、それは武家が勝手に寺を改造したりしてしまうからであったが、北條家の軍勢は一切その様な事をせず、寺側も驚いていた。
岡部親子や弟子達、加藤家一行や旭などは、疲れたのであろう、いち早く寝入っていた。
氏堯達はその時間も、今後のことを話し合っていたが、その場所が本能寺だったというオマケが付いていて、康秀は心の中で『宿は本能寺に有りって縁起でもない!!』と言っていた。
後奈良天皇は結構金には潔癖でしたから、今回はこの辺で手を打つという。搦め手作戦。急いては事をし損じると言いますから。