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三田一族の意地を見よ  作者: 三田弾正
第参章 京都編
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第貳拾玖話 堺会合衆

お待たせしました。康秀達以外にも船で堺へ向かった一団の話ですので少し時間が戻ります。大道寺政繁1533年生まれなので、この時二十六才。

弘治三年二月二十日(1557)


和泉国大鳥郡堺いずみのくにおおとりぐんさかい


泉州堺に相模小田原から遙々到着した商船が碇を降ろした。その商船から堺を見つめながら、数人の身分卑しくない姿の武将が話していた。


「流石に畿内一の大港だ。多くの船が停泊しておるな」

二十歳前半ぐらいの武将が、四十代後半の武将に話しかける。

「そうですな、私が以前来たときより更に発展している気がしますな」


「新三郎殿が堺を出たのは何時のことでしたか?」

その質問に四十代後半の武将が答える。

「そうですな、あれは享禄元年(1528)の事でしたから、今から三十年ほど昔のことですかな」


二十歳前半ながら代表者らしい武将が労う。

「なるほど、新三郎殿も苦労なさいましたな」

「なんの、それしき。今はこうして大役を与えられたのですから、こうなる運命であったのでしょう」


その時、若いが新三郎によく似た武将が話しかけてくる。

「大道寺様、父上、そろそろ準備が出来ますぞ」

「おお、孫四郎殿、そんな時間になったか」


「大道寺様、父の昔話に付き合わせて、すみません」

「何の、新三郎殿は世が世であれば、島津の当主で有ったかもしない御方、そのお話は私のような若輩者には何よりの糧になりますからな」


「なんの、大道寺様、買いかぶり過ぎでございますよ。相州家が島津の当主になったのは、従兄弟の未亡人に惚れた挙げ句に、その連れ子を相州家の当主にすると言う話を受けた事で、連れ子である義兄の三郎左衛門尉さぶろうさえもんのじょう島津日新斎忠良しまづじっしんさいただよし)が才覚で島津宗家を継いだに過ぎませんから。私が相州家当主ではとてもとても敵いませんよ」


「爺様が色に狂って、息子二人を捨てた結果が、今の状態ですから」

孫四郎が自嘲気味に吐き捨てる。

「孫四郎殿、まあその結果、北條としては優秀な医師であり武将である新三郎殿に来て頂けたのだからな」


「そうよ、私が相州家当主であれば、とっくに島津は滅んでいたかもしれんからな」

カラカラと笑いながらそう答える相州家二代目当主、島津運久しまづ ゆきひさの嫡男、島津忠貞しまづたださだであった。


島津忠貞、本来であれば、彼の実家相州島津家は島津宗家の有力支流であり宗家を継ぐ可能性も有るほどの家であったが、二代目当主島津相模守運久が、従兄弟に当たる伊作島津家九代当主島津善久が下男により撲殺された後、その未亡人に恋い焦がれて、連れ子である善久の子忠良を養子として家督を継がす約束の末婚姻した為、永正九年(1512)に約束通り家督を本当に譲り渡したのである。


その為、永正七年(1510)に生まれた忠貞は本来であれば相州家長男として生を受けたが、生まれた時には、養子の兄忠良が居た為既に要らない状態で有り、直ぐに僧として長徳軒と名付けられた。その後十九才になると薩摩にさえいる事が許されずに、下野の足利学校へ入学すべく薩摩を発ったが、その後の船旅の最中に駿河沖で嵐に遭い遭難、その後彼一人が漂流の末、今川氏親により助けられた。


彼は、仏教の他、軍事や医学にも精通した博学の人であったことから、氏親の要請により還俗して「島津忠貞」と名乗り三浦氏の娘と結婚する。その後、今川氏親の従兄弟に当たる北条氏綱の病気治癒のために小田原へ移り、見事に氏綱の病気を完治させた。その為、氏綱からの強い願いで、そのまま今川氏には戻らず北条氏に仕えたのである。


「さて、昔話もそろそろにして、天王寺屋の津田宗達などが、湊で待っているようですから」

「新三郎殿、今頃氏堯様達はどの辺りでしょうかな」

「そうですな、尾張辺りですかな」


「そうなると、早くしないと時間も無いですな」

「材木、石材、漆喰、瓦と集めるものは天王寺屋を始めとする堺商人に頼んでありますから、あとは三好などへの挨拶をするだけですが、責任重大ですな」


新三郎の言葉に大道寺駿河守政繁だいどうじするがのかみまさしげは緊張した趣で答える。

「新三郎殿、脅かさないで下さい。あの三好長慶みよしながよしが出てくるかは判りませんが、それでも緊張しますよ」

「ほう、天下の大道寺様でも怖いものがお有りか」


「死んだ爺様以外は怖い者など居ないと思っていましたけど、段違いの怖さですな」

島津忠貞に大道寺政繁は冗談を言いながら苦笑いする。


そうしている中、船頭が準備が整ったと知らせに来る。

「殿様、港へ行くための小船も来ましたで」

「おお、御苦労。新三郎殿、孫四郎殿、行きますか」


政繁の言葉に忠貞も孫四郎も頷いて縄ばしごへ向かい動き始める。


小船へ乗り換え、堺湊へ到着すると、天王寺屋の津田宗達つだそうたつが迎えてくれた。

「大道寺様、島津様、堺へようこそお越し下さいました」

「津田殿宜しく頼みます」


政繁の言葉に津田宗達がにこやかに答える。

「無論でございます。堺会合衆は昵懇な御方(お金払いの良いお得意様)には誠心誠意利便を図ります故」

宗達の腹の中を知ってか知らずか、政繁は大仰に感謝する。

「津田殿はじめ、堺会合衆のご協力に感謝致します」

その後、津田宗達の屋敷へ向かうと、三好方からの使者が訪れていた。


宗達が三好家に先に連絡を入れていたのであったが、別に親切心からではなく、堺会合衆としても現在の畿内では最大勢力の三好家と、関東では最大勢力であり、伊勢家出身で畿内とも繋がりが深く、又種々取引でも昵懇の北條家との関係は重要で有った事と、折角集めた材木、石材、瓦等々の資材が無駄にならないようにするためでもあった。


宗達の息子、津田助五郎つだすけごろうの茶の湯の師であり、今は無き武野紹鷗たけのじょうおうの教えを受けた兄弟弟子である、物外軒実休ぶつがいけんじっきゅう(三好義賢)の伝手を頼ったのである。

屋敷では政繁だけが茶室に通された。茶室では三十代ぐらいと二十代後半ぐらいの人物が先に待っていた、まず三十代ぐらいの人物から挨拶を受けた。


「北條殿の御使者の方ですな。私は物外軒実休と申すが、三好豊前守義賢みよしぶぜんのかみよしかたと申した方が判りますかな」

「此は此は、失礼致しました。私は北條左京大夫が臣、大道寺駿河守政繁と申します。この度はお会い頂き誠に恐縮にございます」


義賢は政繁の言葉ににこやかに答える。

「なんの、御所の修築という大事を為さる北條殿の御苦労を考えれば、阿波からの渡海など大して事も有りませんから」

「態々の御渡海、誠にありがとう存じます」


「まあ、まあ、茶会というのも身分の上下も関係無く皆平等に茶を楽しむものです。その様に畏まっていては折角の御茶が不味くなると言うものですから、緊張せずに楽にして頂きたい。のう助五郎殿」


義賢から話しかけられた助五郎なる男は、やっと挨拶を行う。

「ご挨拶が遅れまして申し訳ございません。私は津田宗達が嫡男津田助五郎と申します。三好様には茶の湯の同門として昵懇にして頂いております」


「大道寺駿河守政繁と申す、よしなに」


助五郎の挨拶を受けたが、義賢の言葉に、どうすれば良いかと考える政繁だが、義賢自身が胡座をかいて楽にし始めたので、自分もそうすることにした。楽な姿勢を取ると早速、津田助五郎が茶をたてはじめた。


「大道寺殿、茶の湯とはいいものですぞ。心落ち着かせるにはこの上ないものです」

そう言われても、政繁には茶の湯の経験も殆ど無いので、空返事になってしまう。

「はあ、お恥ずかしき事ながら、私は関東の田舎もの故、茶の湯を知りません」


「なるほど、しかし武士と言えども殺伐としてばかりはいられませんからな、少しでもやってみることをお勧め致しますぞ」

「なるほど」


一通り茶を楽しむと津田助五郎は茶室から下がり代わりに忠貞と四十代後半の人物が入ってきた。

三好日向守長逸みよしひゅうがのかみながやすと申します」

「大道寺駿河守政繁と申します」

「島津新三郎忠貞と申します」


それぞれの挨拶が終わると、四人とも真剣な眼差しで話が始まった。


「筑前守様(三好長慶)は北條殿が都に公方様を迎え入れるのではと心配しております」

長逸が単刀直入に政繁に尋ねてくる。

「それならば、左京大夫様もその事はご心配しておりましたが、例え公方様が我が家に御命じになられても、三好殿のご意志が無い限りは、力を貸すことはございません」


政繁の答えに義賢も長逸も安心した表情を見せる。


「それならば宜しいが、筑前守様にしても、決して公方様を蔑ろにしているわけでは無く、管領細川右京大夫かんれいほそかわうきょうたいふ細川晴元ほそかわはるもと)の策謀に公方様が乗り、筑前守様を排除しようと幾度に渡り戦を仕掛けた挙げ句、天文二十年(1551)には二度にわたって暗殺未遂事件に遭遇しているのです。


それに犯人は、なんと公方様近臣の進士賢光でした。また筑前守様の岳父であられる遊佐河内守長教ゆさかわちのかみながのり様も、自らが帰依していた僧侶の珠阿弥に暗殺されてしまったのです。此も公方様の手の者らしいのです」


その話を聞いた政繁と忠貞はあまりの畿内の混沌に唸ってしまった。

「それはそれは、皆様がご心配になるのもよく判ります。北條左京大夫様の名にかけて、公方様を勝手に帰京させる様な真似は致しませんので、ご安心頂きたく存じます。そしてお願いなのですが、三好殿からも人を出して頂ければ、齟齬も起きないと思うのですが」


それを聞いて安心したのか、義賢も長逸も更に表情をゆるめる。

「確かにそうですな。筑前守様もお喜びになるでしょう。早々に向かわす人材を揃えましょう」

「まこと、ありがたき事です」


「なんの、北條殿の御本家、伊勢伊勢守貞孝いせいせのかみさだたか殿には筑前守様も世話になっておりますから、その繋がりのある北條殿と昵懇になるのは悪い事ではござらん」

「主君左京大夫に代わり御礼申し上げます」


ここから、四人の話も盛り上がっていった。


翌日から、政繁達は堺会合衆と会談をしながら、必要な物資や輸送の手当、それに康秀から名指しで指名された掘鑿や河岸整備に長けた商人、安井市右衛門成安やすいいちえもんなりやすや納屋衆(倉庫業)の田中與四郎たなかよしろうや各地の瓦職人などが召還された。


又都で摂関家における協力者、二条晴良、九条稙通達により、法隆寺番匠、中井正信なかいまさのぶ正吉まさよし親子の招集や、比叡山延暦寺などの石垣などを手がけた石工衆、穴太衆あのうしゅうも近江坂本から呼ばれることになっていた。


後は、主上の御裁可が下りるのを待つだけになっていたが、結局三月四日に御裁可が下り、淀川水運で当日には堺へと連絡が付くと、翌日には堺湊や吹田湊など、摂津各地の湊から大挙して物資が淀川を遡る姿が見られるように成った。

意外や意外、北條家家臣に島津相州家の正嫡が仕えていたのです。


後に子孫は徳川旗本になっていますが、九州島津家は系図に乗せることを拒否したそうです。


中井正信は創作の名前です、正吉の親の名前が判らなかったので。

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