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三田一族の意地を見よ  作者: 三田弾正
第参章 京都編
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第貳拾漆話 近江の麒麟児

やっと近江へ、今回もやり続けます。

弘治三年二月二十六日(1557)


伊勢国桑名郡桑名いせのくにくわなぐんくわな


「失礼でございますが、北條様ご一行でございますか?」

僧体の男からの問いかけに、氏堯が答える。

「如何にも儂は北條左衛門佐だが、そちは?」


「はい、拙者は以前北条氏康様にお仕えし駿河国善徳寺城するがのくにぜんとくじじょうにおりました、平野右京亮賢長ひらのうきょうのすけかたながの子権平長治(ごんべいながはる)と申します」

それを聞いた氏堯が思い出したように顔を見る。


「ああ、あの平野か、確か駿相一和で善徳寺城が今川へ割譲された際に、国へ帰ったのであったな。しかし、そちのような子が居るとは知らなかったぞ」

その言葉に、長治が話し出す。


「はっ、その節は尾張より追放された亡き父がお世話になりまして、お礼のしようもございません。私は養子でございます」

「なるほど、それでか。それで右京亮は亡くなったか」

「昨年、織田上総介により再度追放され、桑名にて」


「左様か、して権平、儂等に何の用だ?挨拶だけでは無かろう?」

氏堯の言葉に、権平達は土下座しながら答える。

「北條様が尾張へいらっしゃっていると、津島の大橋和泉守殿から伝手がありまして、亡き父の手前今更、北條様に合わせる顔などは御座いませんでしたが、是非今一度、御配下にしていただけないかと」


康秀の記憶では平野権平長治はあの賤ヶ岳の七本鎗の一人、平野権平長泰ひらのごんべいながやすの父親で、その祖父賢長は津島出身で有ったが、織田信長との確執から、加賀を経て北條家へ仕え、駿河国善徳寺城に居住していたことを知っていたため、北條家で動けるようになった後で調べたのだが、既に北條家を出奔していた為諦めていたのだが、まさかここで会えるとはと驚いていた。


「大橋と言えば、当家に仕える大橋山城守と同族であったな。それで伝手を頼ったのか」

「はっ、恥ずかしながら、このままでは妻と幼い息子達を喰わせる事すら出来ません。あつかましいお願いと判っておりますが、平に平にお願い致します」


長治達を見ながら氏堯や氏政は少々困った顔をしながら、康秀の方をチラチラ見てくる。つまりは“お前が何とかしろ、以前平野を捜していただろう”と言う事であった。


「平野、儂もそちの境遇は気の毒に思うが、例え父親の時とは言え一度北條家の禄を離れた以上、左京大夫殿も納得いたさんだろう」

長治はその言葉を聞いてガックリと肩を落とす。


その姿を見ながら、氏堯が康秀に目配せしてくる。

「左衛門佐殿」

「長四郎、なんだ?」


「窮鳥懐に入れば猟師も殺さずと申します。この様な幼子を抱えて明日の糧にも困る者を見捨てることは出来ません。ましてや北條家に縁のある者です」

長四郎の言葉を聞いて、長治も妻も長四郎を縋るような目で見つめてくる。


それを見ながら、氏堯が氏政に目配せする。

頷きながら、氏政は直ぐさま、長四郎に意見をする。

「長四郎、そうは言うがここは出先だ。父上の許可も無くおいそれと家臣を増やす訳にはいかんぞ」


「それが問題だ。左京大夫殿からは御所の造営に対する権限を委託はされているが、それ以外は独断とはいかんぞ」

「確かにそうですが」


氏堯と康秀の話し合いを聞いている長治達の顔に曇りが見え始める。

「それほど気の毒に思うなら、長四郎の家臣とするのはどうだ?」

其処へ氏政がフォローを入れる。


それを聞いた長治達は、目を見開いて長四郎を見つめる。

「なるほど、長四郎であれば、一家の主だ、家臣を迎え入れるのも自由だ」

氏堯の問いに康秀が考えた振りをして、その康秀を拝み倒すように見つめる長治一家。


「判りました。平野権平長治、そちが良ければ、当家の家臣として召し抱える事に致すが」

その言葉を聞いた長治夫婦は地べたに頭を擦りつけるように土下座をして感謝の言葉を言った。

「はっはー、御殿様、是非ともお願い致します」


「私の名前は、三田長四郎康秀だ。平野権平、当座の資金として四十貫を渡す。所領については都から相模へ帰り次第決める事と致すが、よいか?」

「はっはー、この平野権平、三田様の御恩は一生忘れません」


「よいよい、こうして認めてくれた、左衛門佐殿と新九郎殿にも感謝してくれよ」

「はっはー」

土下座しまくりの長治夫婦を見ながら、山科卿は康秀達による人心の掴み方を見ながら、“旨いのー”と含み笑いしていた。


こうして、更に増えた一行は桑名で一泊し、尾張における今川方である尾張服部党の党首で荷ノ上城主服部友貞と会った。

服部左京亮友貞はっとりさきょうのすけともさだと申します。北條様にはご機嫌麗しく」

「北條左衛門佐氏堯と申す」


この後、この付近で治水に慣れた人材を関東へ紹介して欲しいと頼んだ。

友貞からは、朝廷に寄進する品物を預かった。


その頃、伊勢大湊へ向かった別働隊は伊勢国守北畠具教へ使者を送り、領内通過許可の再確認と挨拶を行っていた。その後伊勢神宮へ北條綱重が代参し百貫文を奉納し安全を祈った。その後、鈴鹿峠の手前である関まで向かった。



弘治三年二月二十九日


■伊勢国鈴鹿郡亀山


鈴鹿峠を目前にした亀山近郊で北條家一行は再集結を完了した。伊勢国は伊勢平氏発祥の地であり、北條家の本家伊勢家発祥の地としても重要な地である。又この亀山城主は伊勢平氏の流れを汲む関氏であり、一帯を一族で領していた。


関氏一族の所領に入ると、早速関安芸守盛信からの使者が現れた。

馬に乗ってきた二名が直ぐさま下馬して問いかけてくる。

「失礼で御座いますが、北條様御一行にございますか?」

「如何にも、北條左衛門佐じゃ」


「拙者、関安芸守が弟関兵庫助に御座います。皆様のご案内に参りました」

「それは重畳、よしなに」

「はっ」


兵庫助に案内され一行は亀山城へ向かった。亀山城では関安芸守盛信せきあきのかみもりのぶが門先まで迎えに来ていた。


「山科様、北條様、拙者伊勢平氏関一族当主、関安芸守盛信と申します。遠いところをようこそお越し下さいました」


「山科内蔵頭言継じゃ」

「北條左衛門佐氏堯と申す」

「北條新九郎氏政と申す」


「北條新三郎綱重と申します」

「北條覚胤長順と申します」


挨拶が終わると、旅の疲れを癒すようにと風呂が用意され汗を流した一行は宴へ呼ばれ伊勢の山海の珍味を味わうことと成った。ここまで関安芸守が歓迎するのは、別に同族だからと言う訳だけではなく、思惑があるからでもあった。


関家にしても最近北上してくる北畠家や南下してくる六角家の圧力を感じて居たために、都で大規模な寄進をする北條家に便乗するという事もしたかったのである。


「北條様、鈴鹿峠ですが、この所の佐々木六角氏と伊勢北畠による戦で幾度となく軍馬が通り、更に南隣の長野と北畠の戦が、昨年には六角家が、伊勢に攻め込んで来たことも有りまして、この程度の物しか出せずお恥ずかしい限りです」


「なんの、関殿は当家と同祖でございます。こうしてお会いできただけでも、何よりの馳走でござる」

「そう言って頂けると幸いです」

氏堯の言葉に盛信がはにかみながら喜んでいる。


そして関家へ伊勢波切の海賊九鬼家への紹介を頼んだ結果、快諾を得た。

その後、盛信は自分の弟盛貞を都まで同行させる事を頼んだ。

氏堯もそれに関して快諾した結果、関家との間では非常に和気藹々と宴が進んだ。


亀山城で一泊後、共に都へ行く関兵庫助盛貞せきひょうごのすけもりさだの案内により鈴鹿峠へ向かった。


鈴鹿峠では六角側からの使者である蒲生賢秀が一行を迎え入れた。一応仮想敵国から来る軍勢で有る以上蒲生側も兵を引き連れての挨拶であった。


「山科様、北條殿ですか。拙者、六角左京大夫が臣、蒲生下野守定秀がもうしもつけのかみさだひでと申します。此は、息子の左兵衛大夫賢秀です」

蒲生左兵衛大夫賢秀がもうさひょうえのたいふかたひででござる」

蒲生親子が挨拶を行った。


「山科内蔵頭言継じゃ」

「北條左衛門佐氏堯と申す」

「北條新九郎氏政と申す」


「北條新三郎綱重と申します」

「北條覚胤長順と申します」

「三田長四郎康秀と申します」


「お久しぶりにございます。義叔父上」

兄関盛信の妻の父である定秀に関盛貞が挨拶をする。

双方の挨拶が終わると、緊張していた双方の兵達にもホッとした空気が流れた。


実は六角義賢ろっかくよしかたは、北條家などという彼にしてみれば得体の知れない家の軍勢五千が領土内を彷徨くのを嫌がったのであるが、朝廷への寄進に行く一行で有る以上それを妨害することは六角家の為にも成らないと言う、後藤賢豊ごとうかたとよ進藤賢盛しんどうかたもり、蒲生定秀、平井定武ひらいさだたけ三雲賢持みくもかたもち目賀田綱清めかだつなきよの六宿老達に諭され、渋々ながら通過を認めたのである。


その為に、六角義賢自身は現れず、観音寺城かんのんじじょうにも招待せずに、通り道に近い蒲生家に接待を丸投げしたのであった。その為蒲生親子の案内で蒲生家の居城日野城へ向かい、其処で一泊する事に成ったのだが、何が幸いするか判らない。後々まで康秀は六角義賢のこの行為にちょっぴり感謝することになる。


一行を迎えた日野城ひのじょうでは出来うる限りの持てなしを行った。


「残念な事に、左京大夫が寝込んでおりまして、皆様にご挨拶出来ないことを申し訳ないとの事でございます」

「左様ですか、左京大夫殿にはご自愛下されとお伝え下さい」


定秀は苦しそうな言い訳で何とか取り繕う。

その事を氏堯も判っているので、そしらぬ顔で受け答えする。


「ささ、皆様、心ばかりの宴でございますが、ささどうぞ」

「下野守殿忝ない」


定秀は山科卿に会わすために定秀の子供や孫まで集めていた。


「山科様、これは、次男の青地駿河守茂綱あおちするがのかみしげつな、三男の小倉左近将監実隆おぐらさこんしょうげんさねたか、此方は、孫の忠太郎、松千代、鶴千代でございます」


定秀が山科卿に紹介している孫の中で、未だ二歳になったばかりの鶴千代こそ後の蒲生氏郷がもううじさとであった。


康秀は赤ん坊の鶴千代を引き抜けないかと考えていたが、子供を出さないだろうと一刻は諦めたが、夜中に考えが纏まって、氏堯、氏政に相談の後、朝に山科卿に相談をした結果、山科卿の協力を得ることが出来た。尤も相模帰国後に山科卿へ送る酒の量と種類が増えたのは確実だったが。


酒で攫われるはめになった鶴千代こそ良い迷惑であるが、あの蒲生氏郷を信長に取られる前に奪い去るというとんでも無い事をしでかしたのである。更にこの時期であれば、蒲生家も長男次男が居るため、三男を養子に出すことに嫌とは言えなかった。


朝餉の後、山科卿が蒲生定秀に話しかけた。

「蒲生殿の孫の鶴千代殿が気に入りましてな、婿養子に迎えたいのだが、如何であろう?」

いきなりの山科卿の話に定秀が驚く。


「鶴千代をでございますか?」

「さよう、我が家に鶴千代殿と同じ年の姫がおる。その婿に是非お願いしたいのじゃ」

定秀の頭の中では、ここで帝の覚えが高い山科卿に伝手を作ることも、六角家が支援している将軍足利義輝の早期の都への帰還にプラスに働くと考え、ここで断れば、山科卿の機嫌を損ねると考えて、承諾することにした。


「それほどまで、鶴千代をかっていただけるとは、蒲生家末代までの誇りとなりましょう。しかし養子となれば自分だけの勝手になりません故、主左京大夫に伺いを立てましてから、改めてご返事を差しあげると言う事で宜しいでございましょうか?」

「よいよい、下野守殿、吉報を期待しておりますぞ」


その後、蒲生一族の見送りと案内を受けながら、一行は日野川沿いを池田まで向かい、其処で北陸道へ合流し、地元の豪族池田景雄から湯茶の接待を受け、その後南下し草津に到着しこの日の宿を取った。


その間に、元近江水口城主で敗北後、草津郊外の長束村に逃げ込んで帰農していた、水口安芸守盛里みなくちあきのかみもりさとの元へ使者が向かい、北條家へスカウトが行われた結果、快諾を得て夫婦揃って翌日には合流してきた。何故なら、落城以来の貧乏暮らしで持ってくる物など殆ど無かったからである。


ここでも康秀の青田買いが遺憾なく発揮された。


平野家は史実でも信長により追い出されていたようですし、北條にも仕えていましたから、あり得る歴史に。


今回も基本的にあり得る事を書いております。北條へ仕えるのはご都合ですけど。



抜けているかもしれませんが、今現在のスカウト&押しかけてきた&来るかも知れない&生まれる予定人材のリストです。


遠江、井伊直虎

三河、榊原康政

三河、加藤嘉明

尾張、加藤清正

尾張、岡部以言

尾張、毛利勝信、勝永

尾張、津田信澄

尾張、前田利久、利益

尾張、平野長治、長泰

近江、蒲生氏郷

近江、長束正家


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― 新着の感想 ―
[一言] あと5年くらいで火力ゴリ押しのヌルゲーするんだろうし青田買いせんでも
[一言] いいですね…。北条家は地位もお金もあってそれも近隣に有力な武将たちが揃ってる。それに比べて、私は…。
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