第貳拾参話 困ったときに助けてくれるのは真の友人
今回は三河編です。
弘治三年二月十九日 (1557)
■三河国額田郡岡崎城 三田康秀
死ぬ思いをしながら、山科卿の我が儘にも付き合わされながら、岡崎までやって来ました。
昨晩遅く氏康殿からの連絡が有り、氏堯殿が受けたあと氏政殿、綱重殿、長順殿が廻し読み、更に山科卿も読んだんですが、こっちは神妙にしているのにもかかわらず、五人が読み終わり、氏堯殿、綱重殿、長順殿、山科卿は爆笑し始め、氏政殿は苦笑いし始めました。
何が起こったのかと驚いていると、氏堯殿が手紙を渡してくれました。
『長四郎、読んでみろ』
「はっ」
“長四郎。おなごの一人や二人連れてきても、北條の屋台骨は揺るがん。氏堯も氏政も綱重も長順も二人と言わず五人でも十人でも連れて来い。ただし、正室を放置するほどのめり込むな。それと鼻欠け(梅毒)にだけは気を付けるようにな。あと次郎法師殿は小田原へ来ることに成った”
最後にどう見ても幻庵爺さんの描いたと思われる、虎に首根っこを咥えられている俺の姿が…。
「何ですか?これは?」
『良かったな、浮気公認だ』
「いえ、もうこりごりです」
『それが良かろうな。しかし兄上も粋な計らいを』
『北條殿は面白い御方のようじゃな』
『父上も何を言っているのやら』
『まあ、此で無罪放免と言う事だが、慎むように』
「はっ」
てな事があり、やっと死ぬ思いから逃れられたと。ただ妙には確りと謝らないとだよな。それと酒はもうこりごりです。けど次郎法師が小田原へ行くって何をするんだろう?
そうしている内に岡崎城へ到着。
今川家から派遣されている岡崎城代糟屋善兵衛が出てきたが、接待は松平家宿老鳥居忠吉殿が受け持つことになったけど、此は完全に松平党の財力を減らすための策略か、或いはただ単に面倒臭いだけか?しかも氏堯殿が進呈した白銀は糟屋が持って行ったし。あれは完全に着服するな。
宴は贅沢とは言えないが、松平党が必死になってくれた事が判るほどに頑張っていたが、見る限り悲惨すぎる。ただここで、ある人物の父親に接触する事にした。風魔の調べで今回の宴で裏方として参加している事が判っているからだ。
弘治三年二月十九日
■三河国額田郡岡崎城 台所 岸教明
はぁ、働けど働けど楽にならんな。大殿が守山で倒され、殿も亡くなり、頼みの竹千代様は遙か駿河だ。しかも今川の城代の連中が威張り腐って、俸禄さえ碌に出ない有様。此では妻に小袖の一つも買ってやることすら出来ない。
しかも戦闘では真っ先に突っ込まされて、死ぬのは我ら松平勢ばかり。世の無常を感じるの。南無阿弥陀仏と唱えるだけで御利益のあると言う浄土真宗を皆が信仰するのも判るわ。儂も信仰を変えるかの。
しかし、こんな時期に五千もの兵を連れてくるとは、北條も良い迷惑だ。ん?誰かが来たようだ。
弘治三年二月十九日
■三河国額田郡岡崎城 台所 三田康秀
いましたよ、岸教明が。早速話しかけます。
「すみませんが、お水を一杯いただけますか」
怪訝そうにみていた彼が、納得したように水を柄杓ですくい椀に入れてくれる。それを頂きながら、素早く手紙を受け渡す。岸教明は最初は驚いた風であったが直ぐに普通の顔になり別れた。
手紙の中身は、氏堯殿が明日伊賀八幡宮と大樹寺へ行くので鳥居忠吉殿岸教明殿に案内を頼みたいと言う物で、探られても痛くない内容になっている。
弘治三年二月二十日
■三河国額田郡 伊賀八幡宮
北條家一行は翌日岡崎城を立ち、伊賀八幡宮に参拝、その社殿を鳥居忠吉と岸教明が一行を案内している。その後客間にて、北條氏堯、北條氏政と鳥居忠吉、岸教明の四人が話し始めていた。
「鳥居殿、昨日は大変忝なかった」
「貧しい物しか出せず、お恥ずかしい限りです」
「その様な事ありませんぞ。岡崎の方々の心からのもてなしをどうして馬鹿に出来ましょうか」
その言葉に、鳥居忠吉がありがたいという顔でお辞儀をする。
「さて、城代の手の者も居ないようですから、此方を」
そう氏堯が言うと氏政が書付を渡す。
「此は?」
「伊賀八幡へ左京大夫からの寄進でござる」
「なんと」
岸教明が書付を鳥居忠吉に渡しそれを開けると、其処には永楽銭五千貫(五億円)の証書が入っていた。
「此ほどの物を…」
「進物で送れば、城代に着服されるが落ち。しかし寄進で有ればそうは行きますまい」
氏堯の後、氏政が続ける。
「更に現金で送れば、ばれる心配も有りますが、証書ならば大浜の割符屋で換金が可能でもあり、現物に変えることも出来ます」
それを聞いた鳥居忠吉と岸教明は、頭を擦りつける程に下げる。
「かたじけのうございます。此で皆が救われます」
「なんの、困っているときはお互い様でござる」
それを受け取りながらも忠吉が心配だと話し始める。
「何の縁もない伊賀八幡にこれほどの寄進では、知られたとしたら、城代が怪しむのでは?」
「なんの、北條家は鶴岡八幡宮の氏子総代の様な物。同じ八幡様であれば、多少の寄進も道中の安全を図るために致しましょう」
忠吉と教明は益々頭を下げる。
「鳥居殿、岸殿、万が一困った事がありましたら、北條左京大夫を頼り為され。左京大夫は無下にはいたさん」
「心遣い、ありがたく」
こうして、三河武士に“困ったときに助けてくれるのは真の友人”戦法が行われた。
弘治三年二月二十日
■三河国額田郡 大樹寺
その後、松平家の菩提寺大樹寺に向かい、其処でスカウトを行った。
寺の裏庭を掃く稚児が一人、既に風魔によりその子が於亀であると知っている三田康秀が話しかける。
「どうした、そんなところでうらぶれて」
「はっ?兄ちゃんは誰だい?」
「俺か、俺は北條家家臣三田長四郎康秀って言うもんだ」
「へー、今来てるえらい方って兄ちゃんかい?」
「いや。俺はオマケで、氏堯殿は今、鳥居殿と話してるよ」
その話を聞きながら、於亀は箒を振ったりしている。
「良いよなー。都へ行くんだって?」
「ああ、そうだが」
「俺は、口減らしに寺へ入れられて掃除ばかりだよ」
「そう言えば、お前の名前はなんて言うんだい?」
知りながら、知らない振りで聞く。
「俺は、於亀、榊原於亀って言うんだ」
「ほう、その身のこなしは、実家は武家か」
「そうだよ。父ちゃんは矢矧川対岸の上野城主酒井将監様の家臣だよ」
「口減らしと言う事は、嫡男ではないのか?」
「そそ、二男坊で分けるほどの所領もないからここで坊主になれって」
「その口調だと、坊主になるのは嫌か?」
その言葉に於亀は口を尖らせて喋る。
「そりゃ、そうだよ。武士に生まれた以上はそれ相応の働きをしたいじゃないか」
「なるほどな、なら俺の家臣にならないか?」
康秀の言葉に驚く於亀。
「へっ?兄ちゃん、本当かい?」
「ああ、本当だとも、俺も家臣が未だ少なくて、家臣が欲しかったんだよ」
於亀はうーんと言いながら考える。
「兄ちゃんの家臣と言うことは、最初は都へ行くのかい?」
「ああ、都へ行ってから、関東へ帰るぞ」
「父ちゃんに聞いて見てくれ」
「ああ、判った。まず住職さんに聞いてからな」
「ああ、待ってるよ」
鳥居忠吉と北條氏堯が話している最中、住職を見つけた康秀が話しかける。
「ご住職」
「これは、三田様。何か御用ですか?」
「裏庭で利発な稚児と会いまして、その子を家臣として連れて行きたいのですが、ご住職とお父上に許可を受けないとと思いまして」
「於亀のことですか」
「そうですな、於亀殿です」
「なるほど。於亀は当寺の矢矧川対岸にある、上野城主酒井将監様の陪臣榊原平太長政殿の次男で、口減らしのために当寺に置いているのです」
「先ほど話したのですが、良い子なのです。ご住職どうでしょうか?」
「於亀と親が良いと言えば当寺としても吝かではありませんが」
住職の言葉に、康秀は直ぐさまずっしりと重い何かの入った袋を渡した。
「此は」
「於亀殿を育てて頂いた謝礼にございます」
その袋には白銀五十枚(五百万円)が入っていたため、住職も驚きながらも直ぐさま於亀の親に連絡を取ると言い走っていった。それを見た康秀は内心でニヤリとしていた。
僅か半時ほどで、親である榊原長政がやって来た。その頃には鳥居忠吉と岸教明は北条家一行が三河大浜湊まで矢矧川を桜井(安城市桜井町)まで船で下る為の指図で既に居なかった。
康秀と榊原長政が客間で話している。
「三田長四郎康秀でございます」
「榊原平太長政でございます」
「榊原殿、貴殿のお子である於亀殿を是非私の家臣に欲しいのです」
長政はその話を聞いて驚く。何故なら住職から於亀のことで話が有るから至急来てくれと言われただけだったからである。
「なんと、当家の於亀をですか」
「左様、利発そうな姿といい、一角の武将に育ててみたくて」
「なるほど、当家では次男である於亀に満足に飯を与える事も出来ずにここへ入れてましたが」
「このまま、朽ち果てるのは惜しいと思いまして」
長政は頻りに考えていたが、考えが纏まったらしく答え始める。
「於亀は未だ十一ですが、独り立ちするのも良いかもしれませんな。当家にいても満足に分地もしてやれないのですから。於亀が良いと言えば、お願い致します」
今まで大人しく話を聞いていた於亀が話し出す。
「父ちゃん俺、三田様の家臣になる」
「そうか、それが良いかもしれんな」
期待に目を輝かせるながら、父親と康秀の姿を於亀は見ていた。
「於亀、今日から三田様の家臣として勤めよ」
「ああ、父ちゃん判ったよ。三田様宜しくお願いします」
「ああ、於亀。此よりお前は私の家臣になる。暫くは小姓として仕えるように」
「はい」
「金次郎、於亀の支度をご住職と共に致せ」
廊下に待機していた野口金次郎秀房が素早く入ってきて、於亀を連れて去っていく。
それを見た後、佇まいを直した康秀が長政にむき直して話し始める。
「榊原殿、相模と三河は遠く、今生の別れと成るかも知れませんが、宜しいか?」
「こう見えても、武士の端くれ。その様なお気遣いは無用でございます」
「流石、三河武士ですな。於亀殿のこと決して粗略には扱いません」
「忝のうございます」
「なんの」
その後、於亀の実家へ康秀自身が向かい、母親と兄の清政に会い別れをした後で旅立った。その際榊原家に永楽銭五十貫文(五百万円)が支度金として密かに渡された。
弘治三年二月二十一日
■三河大浜湊
北條家一行は尾張へ直接入ることが危険なため、三河大浜湊から主力は北條綱重、長順兄弟が率いて伊勢大湊へ向かい、氏堯、氏政、康秀は分隊を率いて山科卿と共に熱田湊へ向かい熱田大社へ参拝する。今川の同盟者である北條の兵が五千も入ること自体が喧嘩売ってるとしか思われないために、少数精鋭で向かうことにしたのである。
准敵国とは言え、少数である事、山科卿の口添え、朝廷に対する奉仕だと言う事で既に傀儡とは言え尾張守護職、斯波治部大輔義銀に許可を得ているため、織田上総介信長としても嫌とは言えなかったのである。
榊原康政が12才頃に大樹寺に居たことが判っていたため、無理の無い勧誘状態に。
小平太ゲット!