第百二十一話 拳銃
おまたせしました。今回も批判はあるのですが開発話です。
日本の職人は変態的なので何とか出来ると思ってます。
永禄元(1558)年九月二十日
■相模国西郡箱根強羅 三田康秀
今日は、試作試射が成功した拳銃を確認に強羅へゴーだ。
それにしても、ロケット魚雷に直進性を持たす方法はコロンブスの卵だったな。まさか、陸上用噴進弾の長竿をヒントに魚雷にも長い尾を付けて直進させるとは、ただ流石に鱒艇には流用できない方法だな、魚雷が小型だから出来たことだから。
拳銃に関しては、いつの間にやら完成かと言うと試作に関しては京都へ行っていた時、内裏の建築やら公家や商人との付き合いとか有り、超忙しかったけど、流石に毎日仕事があるわけでも無く、多少なりとも暇な日は有ったので、どこかへ行こうかと思っても、電車や自動車があるわけでも無いので遠出出来る時間も無く、また二十一世紀のように観光地化されてもないし、交通機関もあるわけは無いので、俺は引きこもり状態に・・・・・・ほかの連中は休みが多いので女の元へ行ったり郊外へ行ったりして羽を伸ばしていた。
だが俺は、妙や直虎さんとの事があるので、女遊びなんぞに行けるわけが無いので、暇つぶしに前世でさんざん分解していた今は無き『東京CMC社』製のコルトSAAとレミントンM1858ニューモデルアーミーを元に朴の木とか金属とかで実寸模型を作っていたのだ。そしてそれがあまりにも良い出来だったので、細かい部品に至るまで書き込んだ設計図とともに完成模型を見本として小田原へ送って砲金と鍛鉄で試作させていたわけだ。
何故砲金で試作かと言えば、この当時の鉄は脆いんだ、銃身なら火縄銃を作る方法、所謂リボン状の鉄を斜めに巻きながら作れるが、シリンダーは流石に作れないから鋳物で行くしか無いが、脆い鉄では発射時の腔圧に耐えられないので、どこぞの電化製品のように爆発まっしぐらだ。
それに、銃身内に線条を切り込むには、鍛鉄を削れる特殊工具でゴリゴリ削るんだが、そんな堅い特殊鋼は日本に無いから、開発するかヨーロッパから輸入するしか無いんだ。尤も今の時代ではチタン合金やモリブデン合金、バナジューム合金、タングステンカーバーライト鋼なんぞは作れるわけも無く、国産ならせいぜい玉鋼の硬度に期待するしか無い。
そこで、冷間鍛造で行けばとなるが、短銃身なら銃身内にライフリングの型を入れてガンガンハンマーで叩いて出来るが、長銃身では狂いが相当出そうなので、取りあえずは玉鋼製のライフリング用治具で砲金製の銃身を削ることにした訳だ。
これには、拳銃だけで無く何れはこの技術を流用してライフリング式小銃や砲金製鋳造大砲も視野に入れているからだ。この時代の大砲は天正四(1576)年に大友宗麟がポルトガルの宣教師から譲り受けたフランキ砲が最初でしかもこの方式は後装式だが、カートリッジ式だから威力がさほど無かった。
よく映画とかで見る前装式大砲は大坂冬の陣での狸親父(徳川家康)が輸入したのが最初だとか言うから今から頑張れば、国産鋳造青銅砲の栄冠は我が手に入るかも?
尤も、信長が作らせた大船、いわゆる鉄甲船には宣教師が驚いた大砲が積まれていたそうだから、もしかしたら信長もこちらが大砲を鋳造したと情報を得て作る可能性もあるか。
やはり、堺、国友村、雑賀、根来の重要性は高いな堺に置いた我楽多屋や浅井の元へ送った塩川屋には今後とも益々鉄炮などの技術や実物が流れないように買い占めをさせなければならないか。信長も、津島、熱田の湊の運上金に、瀬戸焼の生活陶器を都へ輸出する事での運上金も有るから、銭はワンサカあるんだろうが、こちとら、金山銀山の開発で金銀が出る上に、高級塩、乾燥椎茸、各種薬などなどの特産品の販売に、瑞穂金貨、扶桑銀貨、永禄通宝の製造をしているからジャンジャン使えるんだよな。
しかも、戦国の世は近代国家と違って銅銭が全然足りない時代だし、元々、渡来銭がメインの経済の上に、私鋳銭が堂々と流通している最中に製造数を法律とかで報告する義務も無いので、銅銭はいくら作ってもインフレには成らないのだ。だって新聞雑誌TVが無い時代だから、どこの地方でどれだけの銅銭が流通しているかなんて誰にも分からないからな。
さてそんなことより大砲だが、砲金製の大砲自体は旧式どころか、この時代の大砲は大半が鋳鉄製から砲金製へ変わっていた時期で、それから明治頃までの大砲は砲金、つまり銅九割、錫一割の合金、即ち青銅(砲金)で制作されていた。しかもあのナポレオンが使った野砲だって青銅製だし、幕末維新で活躍した四斤山砲も青銅製だからだ。
しかも運がよいことに銅に関しては我が国は江戸時代以前から中国へ竿銅として輸出していたほどで、この時代の消費量からすれば我が国では不足しない鉱物だ。尤も太平洋戦争時には枯渇してどうしようも無い状態になっていたが・・・・・・
それに加えて北條家の勢力圏には主力銅山として多大な算出が見込まれている武蔵国秩父郡中津川上流にある秩父鉱山と現在密かに試掘を始めている下野国都賀郡渡良瀬川上流にある足尾銅山から採掘が可能だからだ。それに、あの南蛮絞りのお蔭で、日本産の銅は一旦、堺と博多へ集められて銅の純度を上げているので、そこから輸入は優先的に出来る様になっているし。
それにしても足尾銅山の地は渡良瀬川最上流で上野国の桐生の奥地なんだが、何故か下野国に属していると言う不思議な状態だった。そしてこの時代は足尾から日光へ向かうのは国道122号線の日足トンネルルートやその上の細尾峠ルートでは無く、遙か西の阿世潟峠越のルートが本道だった。
ところが明治になって足尾銅山から排出された亜硫酸ガスで付近の山の木々が枯れ果てた結果、禿げ山だらけになり峠道が崖崩れで通行できなくなったため、大正時代に代換えルートとしての半月峠が開削され、更に自動車時代に細尾峠が改正されたと。尤も細尾峠自体は日光山僧徒が峰修行の為に開いたそうで、今現在も道はあるそうだ。そして日足トンネルが出来たことで細尾峠は旧道になったわけだ。
まあその辺は未来に出来るトンネルの事なんぞはどうでも良い事で、最大の問題は足尾が日光山の寺領と言うこと、これが早雲公が刀貰った頃のような状態の寺領なら問題ないんだが、ここ数年にわたり日光山を牛耳っているのが、鹿沼城主の壬生家な事だ。
元々壬生家は下野守護宇都宮家の家臣なんだが、先代当主の壬生綱房が相当な悪で戦国の習いで主家の乗っ取りを企み、邪魔になる同僚の殺害など色々行って、十年ほど前に主家である宇都宮家の当主宇都宮尚綱が那須氏との戦いで討ち死にした隙を突いて後を継いだ幼君の宇都宮広綱を追放して宇都宮城を奪っていた。
それ以外にも日光山を支配するため、次男座禅院昌膳を送り込み日光山の実質的な最高位である御留守職に就任させ、自身は享禄の頃に日光山御神領惣政所と言うのになって、日光山の統治者となった訳だが、次男はそれなりに思慮深い人物だったらしく、壬生家の好き勝手に出来ないように抗議の隠居をしたら、あろう事か、謀反を企んでいるとして長男の綱雄に殺させた。
まさに鬼畜の様な男だ、まるで肥前の熊こと竜造寺隆信の様な感じで、絶対に友達には成りたくないし隣人としてもノーサンキューだ。その男も三年前に芳賀高定に謀殺されたらしいが、天罰覿面だよな。そして綱雄が家を継いだが、親父譲りの路線を行ったが、綱房の弟である壬生周長は一貫して宇都宮家に忠節を尽くしていた。
そこで、壬生家の分裂と動揺を見越して、芳賀高定が奔走し、氏康殿や先代の古河公方足利義氏殿の要請で佐竹義昭殿が動いて、その尽力で去年目出度く宇都宮広綱が宇都宮城を見事奪還に成功したんだが、壬生家は未だに牙を研いだまま、その上、まずいことに、壬生家は以前から北條へ秋波を送ってきているんだよな。確かに日光山領を牛耳るなら壬生を取れば良いが、佐竹との盟約を崩すわけにはいかないので、壬生を切るしか無いわけだが、そうなると足尾を強引に奪うことで、何かあると感づかれて桐生佐野家との間にも不穏な空気が流れるかも知れない。
まあ、そんな心配をしても仕方が無いというか、取りあえずは先日の新公方足利恭氏殿のお披露目会には両者とも参加してきていたのだから、小康状態と言う状態だが、見た限り綱雄は牙を研いでいる状態のようだ、その為に風魔の手練れを常駐させて監視させている。
そして砲金制作に必要な錫に関しては、今は堺からの輸入で凌いでいるが、今後は確実に必要量が増える。そこで但馬国養父郡にある明延鉱山に目を付けた。但馬は山名家の勢力圏だが、実際のところ、山名家の勢力は衰えて山名四天王と言われる重臣が牛耳っている。
そして養父郡は四天王の一人である八木家の勢力圏で半独立状態なので公家と堺衆を使って八木但馬守(豊信)との繋ぎを作り、明延鉱山からの錫鉱石の購入と、まだ発見されていない中瀬鉱山の開発をする予定だ。
明延は日本一の錫鉱山で飛鳥時代から採掘されていた。中瀬は江戸時代初期に発見された金、銀、アンチモンの鉱山で、錫はもちろんのこと、アンチモンは鉛と合金にして硬鉛を作るのに必要だ。アンチモンは銃弾用の鉛の添加物としては非常に優れた物で、特徴は鉛に混ぜると堅くなるだけでは無く、普通の金属と違い冷えて固まる際に膨張すると言う面白い性質を持ち、金型ピッタリに形が整うのだ。
しかもアンチモンは金属活字を作る際にも非常に重要な鉱物で是が非でも欲しい、かのグーテンベルクの活字も鉛、アンチモン、錫の合金だったからだ。そしてこの時代の日本ではアンチモンは重要視されていないので搬出が簡単だ。実は『和同開珎』より古い古代銭『富本銭』にもアンチモンが添加されていたんだよな。研究では銅の溶解温度を下げてより堅くするために入れたらしい。
ほかにも錫は美濃の恵那、中津川地方では砂礫層に砂錫として採掘可能。だからこそ馬来屋に稲葉山城下の井之口(岐阜)に店を出させ、一色家(斎藤)に献金等をして商売しているのだ。ほかに佐竹領にも錫鉱山が江戸時代に開かれているので、大久保長安を派遣して、常陸から岩城にかけての鉱山開発をするから、そこからも錫の搬入が可能になる。
その他には、鉄に関してだが石炭は亜炭だが常磐炭鉱から燃料炭として輸入し、原料炭は三池炭鉱から、鉄鉱石は繋ぎを入れている遠野阿曽沼家の勢力圏にある釜石で橋野鉄鉱山と釜石鉄鉱山を開発、石灰石は実家青梅の山と秩父の山なら幾らでも掘れる。そして耐火レンガは伊豆河津で焼成中と来れば、高炉と反射炉は出来るわけで高炉製鉄は数年以内に出来る。
尤も最初は木炭を原料とする小型高炉を作る予定だ。これは江戸末期に橋野鉄鉱山で作られた高炉で日量二トンほどの銑鉄を作れるので、今現在なら十分な量ともいえる。なぜなら、コークス炭に合う石炭がなかなか無くて、三池の石炭でも数が揃うまではお預けになるかも知れないからだ。後は周防国大嶺炭田では無煙炭が取れるので毛利家と交渉して採掘や購入も考えないとだ。
その為に木炭を出来るだけ多く手に入れなければならない。なぜなら、製鉄には出鉄量の数倍の木炭が必要だからだ。そこで一般家庭用燃料に関しては滓木炭から塩原太助が開発した海藻入り炭団や、常磐炭田の亜炭を蒸し焼き加工してから粉炭状態にして練炭や豆炭を製造して普及させることも念頭に置いている。更に無駄になる燃料と火事の原因となる熾火を廃する為に、ファイヤーピストンを開発したのでそれを配布して強制的に使用させる様にする予定だ。
そんなことを一人黙々と考え、ブツブツ言いながら、護衛の風魔に怪訝な顔をされながらも現場へ到着すると早速試作していた職人から挨拶を受けた。
「三田様、お待ちいたしておりました」
「今日はご苦労様」
挨拶も早々に、実物を渡され確認開始。
拳銃の形はレミントンM1858の完全なコピーだ、なぜならコルトSAAは金属薬莢前提の設計で弾丸の装填方法も特殊だからだ。それに今の時点では金属薬莢は試作できるが、それは金属柱からの削り出しなら可能だが、とてもじゃないが量産は不可能だ。それに雷管が作れないので、擬きの天神玉を使うしかないが確実な発火が保証できない。
大砲なら昔懐かしい燃える火を点火口にくっつけて発火出来るし、開発中の水晶や長石などの圧電素子を使った電気発火装置が使えるが、とてもじゃないが拳銃じゃ使えない。
尤も雷汞が出来れば雷管作って簡単なんだ。雷汞自体の素材は知っているんだが、パーセンテージとか反応方法が良く分からないし、失敗すると爆死するらしいので、怖くて手が出せない。何れ誰かが犠牲覚悟で作るかも知れないが、その時に俺は言うのかも知れない『科学に犠牲は付きものです』と。
「試射の調子はどうなんだ?」
「はっ、ご指摘通りに鍛造した砲金に穴を削り掘り回転弾倉を作ったところ、強度的にも不安の無い品になりました。又銃身にも施条を切ることが出来たため、椎の実型の弾丸でも命中度が上がりました」
「はっ、強度的にも命中精度もですが、撃鉄を起こせば回転弾倉が回って次弾の位置に確実に進むことが証明されました」
「実験は成功という訳か」
俺が言うと皆が肯定の頷きをした。
長かったのか短かったのか分からんが、これは画期的とも言えるこの時代に回転式拳銃なら有ったが、まだシリンダーを手で回す方法だった。現在のような回転式拳銃は十九世紀にサミュエル・コルトが開発したのが有名だから、時期で言えば三百年ほど先走った訳だ。
危ないからと試射に関しては万力で固定した状態で盾の後ろから引き金を紐で引いて発射だ。
まあ確かに腕が飛んだり破片で重傷とかは俺には許されないけど、実戦で使う以上は撃たないと駄目なんだが。
『バン』と言う音とともに弾が飛んで的に見事に命中、その後六発全弾ともに見事に的に命中。直ぐにシリンダーを変えて再度発砲。シリンダーを変えるのはM1858の特徴で、シリンダーを止めている中心棒が直ぐに外せるようになっているので、装填済みの予備シリンダーを変えれば連射出来るわけだ。
結局、百発ほど撃っても何の問題も無く結果オーライ。
皆で祝杯を上げて喜んだ。
これで更に強度試験して実用化まで行くことになった。アメリカ式の形式で行けばM1558かな。それに使うのが将校で騎乗だから、愛称は騎兵銃か、それにしてもM1858からピッタリ三百年早いわけだな。
さて、明日は何があるかだな、造船所の視察か? それとも・・・・・・
「三田様!」
て思っていたら、風魔の一人が慌てて来たってことは、何か事件か?
「何か?」
「都より特連絡があり、御本城様が直ぐに帰るようにと」
やれやれ、綱重殿から暗号で連絡か、なにやら大事な事らしいが、一難去ってまた一難か、さてさて何が起こるやら。休める日はいつになるやら・・・・・・
皆様のお蔭で第五巻発売します。
ありがとうございました。