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三田一族の意地を見よ  作者: 三田弾正
第伍章 坂東怒濤編
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第百十九話 帰りは帰りで盛りだくさん

おまたせしました、やっと更新できました。


大変お待たせしました。返事も返すことができました。

永禄元(1558)年九月二日


■相模国西郡小田原 三田康秀


やっと帰ってきたぞ。以前も同じような感じだったが、今回は一月ほどの旅だったし、戦や何やらで忙しかったせいか、あっという間だったな。


それにしても、行きは香取海周りだったが、帰りは陸路だった。これは『北関東まで来たので、長四郎が計画書を出していたことも、決めるがよい』と氏康殿が言ってきたからなんだ。


その上、佐竹義重殿も義昭殿の命令で、家督相続の面通しとして一緒に軍勢率いて古河の公方様に挨拶するということで、一緒に行くことになった。


結果最初は佐竹、江戸、鹿島大宮司などの常陸の諸将との話し合いで、涸沼から北浦へ向かう運河の建設が本格的に決まった。原型は江戸時代の水戸藩が宝永(1700)の頃に建設したが結局失敗したものだけど、基本計画自体は優れていた。


ところが、担当者の松波勘十郎が給金一日百五十文払うと言って集めた四千人の農民に対して実際には一銭も払わず、逆に村高百石につき年間五~六百人もの人手を出させたという無茶ぶり、その上、土砂崩れで死者が多数出たのにその事実を隠蔽したという悪辣非道をおこなった。


なぜこうなったかといえば、松波計画は二十一世紀では田んぼになっている涸沼の上流部と北浦に流れ込む巴川を結ぶもので運河は距離十二里(8km)なんだが、それを半年で掘削したと称して上層部に偽装報告したが、実際には工事は二年かかっても終わらなかったからだ。


結果、大規模な農民による強訴が発生、ことの大きさに驚いた水戸藩は事態を確りと調べた結果、農民側の話が正しいと判断し、松波は罷免の上に牢へつながれ獄死したが、農民側には一人の犠牲者も出さなかったらしい。その結果、一応なりとも完成していた運河はうち廃れて史跡となっている。


その他にも明治十一(1878)年にも大久保利通が計画した運河もある。これは鹿島臨海鉄道大洗鹿島線沿いを南から北流して涸沼に流れ込む大谷川と北から南流して北浦へ流れ込む鉾田川を利用して中間の分水嶺を掘削する方法だったが、大久保の暗殺で中断して二十一世紀でもその跡が残っているんだ。それを踏まえての計画だ。


計画の中で簡単なのは松波計画で本格的なのは大久保計画だが、今後の測量次第ということで、今は実際に完成したこともある松波ルートを開削することにした。


松波の場合、無茶な時短が事故などを起こしたのであろうし、地質調査もせずに掘っているであろうから、今計画では確りとした地質調査と、施行時の矢板を確り打ち込むこと、さらに工兵隊の監督で作業手順をマニュアル化して安全第一でいくことにしよう。それに土留めと底盤にコンクリートを使えば崩れずに長持ちするからな。


さらにその後の計画として、松波が作った大貫運河も建設しなければならないわけだ。松波の場合、防波堤とかができなかったために掘った運河はあっという間に海砂に埋まってしまったが、我にはローマンコンクリートがある。これならば海水でも十分に施工可能だから埋まることもなくなるだろう。


そんなこんなで、水戸からは大洗、この当時は磯浜村・大貫村から涸沼経由で鉾田を経由して涸沼・北浦運河プロジェクトの目安をつけたわけだ。そしてやはり聖地だから磯前神社にもお詣りしたよ。


その後は、南下して常陸府中である石岡で大掾氏の歓待を受けたが、ここはすでに佐竹の影響下にある小勢力に過ぎなかった。史実じゃこの後佐竹義昭が当主の妹を嫁にして石岡へ乗り込んで自分の息子、義重殿の弟を新当主にして乗っ取りかけるんだよな。まあこの世界線ではどうなるかわからないけど。


その後、土浦ではあの有名な戦国時代の不死鳥いわゆる戦国アイドル天庵様たる小田氏治殿を含めた、近隣の国衆が勢揃い、そこでしばらくの間は現状維持と北條・佐竹同盟の締結、征東大将軍恭仁親王殿下と関東公方足利恭氏殿の代理人、北條氏照、簗田晴助それぞれが関東静謐の宣言書を発して私戦を禁じた。


まあ、俺だけじゃなく、多くの人物鑑定ができる連中からすれば、いい諾々とする者より、不満げな連中の方が多かったがね。まあ、将軍様と公方様に反するなら、やっていいけどね、どこから味方を得るのやら。


けどなー、国衆なんかはメンツと家臣団からの突き上げで動くことがあるし、それを示唆する公方(足利義輝)とか戦馬鹿(長尾景虎)とかダボハゼ(武田信玄)とか、自称関東管領(里見義堯)とかそんな奴らもいるから監視は確りさせないとだめだな。この辺は義重殿よりは一緒に来た佐竹北家の義廉殿に相談だな。


この場で、石榴石の産地である真壁を領する真壁久幹殿と商売の話をして領民が潤い真壁家も潤うということで採掘をすることを快諾してくれた。石榴石の利用方法は、甲斐から食料などの代わりに輸入する水晶を研磨するために必要だと言っておいた。そりゃそうだ、雷管代わりに使いますなんて言ったら、どこから情報が漏れるかわからないじゃないか。


土浦での会談を終え、古河御所まで着いてくる連中がぞろぞろ増えて、国衆だけなら山ほど状態に、その結果、俺は将門公をお奉りする岩井の国王神社へ小田氏の家臣の豊田治親殿の案内でお詣りすることに、そこで、小田殿と豊田殿と話して、神社付近の土地を購入し神社に寄進するということにした。


いつの時代もだが、今でも所領の売買は普通に行われているから普通に売ってもらえた。まあ、氏康殿の根回しがあったからこそなんだがね。そのあたりは感謝しているが、俺としてみれば神社自体がうらぶれていたので、立派な社殿を再建をしてご先祖様は確りと奉るつもりだ。


それが終わって、関東各地、主に常陸、下総、下野、上野、武蔵の大名、国衆の多くが集まり、古河御所周辺がすごい混雑に、そして、俺は出ていないが、古河御所での新公方恭氏殿の謁見を皆が受けた。


それに参加したのは、北條、佐竹、宇都宮、小山、結城、深谷上杉、足利長尾、成田、小田、千葉、原、長野、野田、太田、由良、桐生、鹿島、大掾、江戸、多賀谷、水谷、笠間、菅谷、土岐、宍戸、真壁、岡見、信太、相馬、烟田、玉造、芹沢、島崎、富岡、赤井、那波、安中、小幡、岩櫃斉藤、厩橋長野、大胡、沼田、上泉、那須七党、芳賀、益子、壬生、茂木、塩谷、長沼、皆川、小野寺、阿曽沼、善、後閑新田、倉賀野、和田、鎌原、羽尾、菖蒲佐々木、臼井、白井、高城などなど、覚え切れないほどが集まって、形だけだろうが関東静謐を誓ったそうだ。


氏照に聞いたら、恭氏殿は鼻高々で鼻の穴が終始膨らんでいたとのこと、まあこれで、権力持ったと勘違いして阿呆な命令とか出さなきゃいいんだが、その辺は、宿老たる簗田殿の腕の見せ所だがね。


一応は、征東大将軍府と関東公方に権力というか、権威を分散してあるので、統一することはないだろうけど、念には念を入れて、各大小名国衆には監視をつけることは必定と。歩き巫女をフル操業させにゃならんな、過労死しないようにローテーションは確り決めないとだ。


しかし集まった面々を見れば、北條派、独立派、公方派、上杉長尾派、佐竹派、武田派など玉石混交だ。ここでも宴をしたんだが、案の定、俺が料理の監修と制作にかり出されたのさ。おれの能力のカモフラージュのために俺が料理好きとしたから、それのせいでもあるんだけどね。


まあ、そのお蔭で西上野勢を率いてきた長野殿にも会うことができた。何故ならば足利晴氏に医食同源に基づく健康食を義氏が勧めて以来、本来ならそろそろ死ぬはずの晴氏が未だにピンシャンしているからだ。そのために医食同源が各所に伝わってその執筆者に会いたいと言う話になったそうだ。


それで、それらに興味がある連中が俺に話をしてきたと、いやー小市民である俺としては大物小物併せて会いまくりで圧倒されそうになったよ。その中でも長野業正殿はすごかった。確かかなりの年のはずなのにもの凄い覇気を感じられたよ。


ここで佐竹義重殿たちとはお別れ、本来ならば征東大将軍に会いに行きたいそうだが、まだ戦の後始末があるので家督を継いだのが確り固まってから来るため、今回は代わりに佐竹南家の義里殿が代理で挨拶に来るとのことだ。


そのような中、由良家、赤井家などに対して、東上野に十二世紀頃に建設途中で放棄されたまま残る、利根川から水を引き赤城山南麓を灌漑する灌漑用水路『女堀』の復活プロジェクトを発表し、由良氏などから大変な興味を持たれたし、館林赤井家が大谷休泊を支援して行っている、防風林植樹も支援すると言うことになった。


その結果、俺たちは、館林城下で分福茶釜で有名な茂林寺で三者面談みたいなものに、なぜ館林かと言えば、赤井家の本拠地であることとともに、あの有名な戦国一くそ婆『妙印尼』こと由良成繁夫人輝子さんの出身が赤井家だからだ。


で、茂林寺では分福茶釜の実物にご対面、何でも十四世紀から十五世紀にかけて住職をしていた守鶴って言う人の使用していた品だそうだ。


まあ、それはさておき、ここでも、由良成繁殿、赤井文六殿、大谷休泊殿との話し合いがもたれて、女堀の復活プロジェクトと防風林植樹支援計画が目出度く決まった。


正直言って、女堀の方は楽にいくと思ったが、意外にも大谷休泊殿がすぐに承諾したのは驚きだった。なぜなら彼は元上杉憲政に仕えていたからだ。その点を恐る恐る尋ねたら『すでに昔のことですし、武門の勝ち負けで恨んでも仕方がありません。それに北條殿は空っ風に苦労する民百姓を支援してくれると言うのですから、嫌とはいえません』と、すごい人格者だと感動した。


そこで、近いうちに、今までいろいろ試してきた農業関係の書物を送り、二宮尊徳も農業指導に派遣すると約束したよ。それを聞いた休泊殿はすごくよい笑顔で『それならば、この地の民も暮らしがよくなるはずです』と喜んでいた。


いやー、今まで海千山千の連中が悪辣な考えをしている顔を見てきた身としてみれば、心が洗われる心境だった。まさに一服の清涼剤だった。


その後、急いで女堀跡を観察して、由良家の本城金山城に招待された。この金山城は完全な独立丘陵で標高が240mぐらい、比高が190mほどという完全な山城、すげー高くて疲れる城だ。前世には何度か登ったが、あのときは途中まで車道があったからバイクで登ったが、今度は徒歩だから疲れた。


そこで会ってしまった。赤井輝子さんに・・・・・・はい、まんまゴッドねーちゃん(和○アキ子)だった。なんと言っても身長が旦那に比べて遙かに高くてぱっと見俺と同じぐらいだった。


しかも色々読んだエピソードが絶対本当だろうと思える豪快さで、直虎さんもどん引きするぐらいだ。『がははは』って豪快に呑んでって言うか流し込んでる感じ?


この姿を見れば、息子二人が北條家に捕まって金山城下まで軍勢率いた北条氏直が人質と交換で城を明け渡せって言ったら『そんな捕まる様な馬鹿息子どもなどいらん』と息子たちのいる本陣めがけて大砲撃ったとか言う話もあながち嘘じゃない気がする。


それに比べて旦那の成繁殿は酒は少々食事も少々だが、息子で九歳の六郎(国繁)は食事も程々だが、そんな中、豪快に食べる娘がいた。聞けば、長女の光殿と言うらしいだが、まだ十三歳なのに母親譲りの威丈夫で槍、弓、格闘何でもござれの姫様って・・・・・・直虎さんそっくりじゃん。


そういえば、輝子さんの長女は成田氏長へ嫁いだはずだけど・・・・・・あっこの子、甲斐姫の母親じゃんけ! 確か甲斐姫は天正十八(1590)年に二十歳ぐらいだったから1570年ぐらいの生まれだから辻褄があう。


おうおう、こんなすごい祖母とこんなすごい母親のDNA引けばあんな甲斐姫ができあがるのもわかる気がした。と言うことは、沙代も直虎さんの様な感じになるのか?

んー、沙世が結婚して旦那を虐待しなきゃ良いんだが、まあ嫌なら帰ってくれば良いだけだし。問題ないよな。


そんな宴の最中でも気を抜かず、風魔衆などが万が一の騙し討ちに備えていたが何もなく終わった。

宴では光姫が直虎さんが大活躍した鎌倉襲撃や今回の戦の話を聞いて手合わせをねだったので、輝子さんの許可をうけて翌日やることが決まった。


翌日、成繁殿は二日酔いでダウンだが、輝子さんは平気で迎え酒。直虎さんと光姫は約束した手合わせをすることになったが、十歳も年が違えば結果は推して知るべしで、赤子の手をひねるが如く直虎さんの完勝。さすがは我が奥さんである。


だが、光姫は悔しいらしく、何度も再戦しては負けまくり、すごく負けず嫌いのようだな。この辺も忍城で最後まで抵抗した甲斐姫を彷彿とさせた。


で、なぜか帰りには光姫が同行している羽目に・・・・・・輝子さん曰く『光が祐子殿に勝てるまで修行したいから、一緒について行くと、初めて駄々をこねた』それでそれならば頑張ってこいと熱血系の輝子さんが許可・・・・・・旦那は止めるが輝子さんに適わず渋々承諾、その結果、祐子さんと俺に直接のお願いで仕方なしに引き受ける羽目に・・・・・・。


けど端から見たら北條家が由良家から人質取ったように見えるから。完全な弟子だと言うことにしてもらったよ。だって、こんなこと知られたらまた松田の馬鹿に専横甚だしいと突っかかられるし、我が三田家はダーティーなイメージではなく、クリーンなイメージで営業しているからだい。


それにしても、成田家との婚姻はどうするのかと心配して聞いてみたら輝子さん曰く『はっ? そんな話は毛頭出ておりません。それに出るとしても今は征東大将軍と関東公方が関東静謐を保証しておりますから、わざわざ、ギクシャクしている成田へかわいい娘を嫁がすわけがないでしょう?』と言われてしまった。


はっ? 歴史が変わっているのかな。そう思ったら、成田の御曹司、今は北條家から偏諱を受けていないので氏長じゃなく長範と言う名前らしいは、太田資正の娘と婚姻したとか、えーとえーと、史実だと成田家が先で太田家が後のはずなんだが、それとも最初っから逆だったとか?


まあここで悩んでも調べられるわけじゃ無いからあきらめよう。

で、娘の旅立ちに由良家一行は利根川左岸まで盛大な見送りをした。


その後、妻沼、熊谷、忍と来てここでは成田家の歓待を受けると、まあ当主の長泰殿は海千山千のもっともたる人物だけどね、それにしても忍城は水城だわ、二十一世紀では殆ど周りは埋め立てられて、陸化しているから嘗ての姿は映像化したのしかないけど、今はリアルだからな。攻めあぐんだ訳がわかるわ。


けど、俺なら凧か熱気球を使って上空からの油脂爆弾攻撃で焼き討ちするけどね。石田三成では思いつかないだろう、まあチート万歳かな。


忍では可もなく不可もなく終わり、忍から荒川を渡り吹上へ、この荒川は二十一世紀で元荒川と言われている川で元々、荒川も利根川も下流で合流して中川あたりを流れて東京湾に流れ込んでいたが、江戸幕府が河川改修したさいに下流の入間川と合流させた結果、荒川に川筋が変わった。利根川は銚子口へ流れる常陸川と鬼怒川筋に流したし、江戸川の場合は上流を開削してあるんだよな。


それで思い出したが、簗田殿とも話し合って常陸川から関宿を通り太井川への運河も本格的に開削すると決まった。簗田殿もノリノリで益々関宿が栄えると喜んできた。まあ古河公方様をあやすのだからこのぐらいの利益供与は必定だよね。これで関東が内乱にならなければ安いもんだ。


吹上から、吉見百穴で有名な吉見を通過し、いずれ見に来たいが今は仕事中なのでいけないのだ。そして北條家に臣従している松山城主の上田安独斎(朝直)の出迎えを受けて松山で一泊、無論宴もありですよ。


なんか、最近は北條家ご指定の料理人の様な気がしてきている自分である。

最も伊達政宗も料理が趣味だったそうだし、苦にはならないから良いんだけどね。


それにしてもこの爺さん、元々太田資正の合い婿、つまりはうちの親父殿の正妻殿の実家難波田家の婿なんだよな、それでいろいろあって太田資正から松山城を譲り受けたら北條側に寝返ったと、太田資正その頃は上杉方だったから唖然。


てな感じの油断できない爺さんだが、行政手腕に優れていて、氏康殿から信任を受けて独自の領国経営を許されているって破格だよね。

最も永禄三(1560)年の長尾景虎関東襲来時には上杉方に寝返って小田原攻めてきているんだが、まああの時点では仕方が無かったと言えばそうだが、寝返らないで家をつぶした赤井家なんかが気の毒だ。


その後、ちゃっかり帰参して後に松山城主に返り咲いているんだから、そつが無いといえる。実家なんか、我を張って滅んでいるのに、見ててなんかムカつくかも。


翌日は松山から、東武東上線よりの鎌倉街道を南下、意外にもこの時代はこの道筋の鎌倉街道がメインルート扱いだった。なぜならこれより東側は荒川や利根川の氾濫原で湿地が多かったからだ。


あと、西側のJR八高線ルートもメインルート扱いだった。その地を主な基盤にしていたのが我が勝沼三田家なのだ。所謂、南北のルートは福生、羽村、青梅、瑞穂、入間、飯能、日高、毛呂山、越生あたりまで、東西のルートは檜原、奥多摩、狭山近辺を領していた。小仏峠越の甲州街道は江戸時代、大垂水峠越えは明治からのメインルートで戦国時代は檜原街道を通って浅間尾根を通り数馬の鞘口峠から奥多摩の川野村へ抜け、甲斐の小菅村へ行くのがメインルート扱いだったからな。


まあ、それはおいておいて、松山から、坂戸へそこから入間川を渡ると、宿老大道寺周勝殿の河越城へ到着。我が友、孫九郎(大道寺政繁)は小田原から駆けつけてくれていてた。そこでみんなを歓待するんだが、いつものように俺が料理の指導・・・・・・孫九郎に『長四郎がいる以上、おまえがやるのが一番よい結果をだすから』と言われた。


仕方が無いのでやるが、このままじゃいけないと思うから、早急に小田原に三田料理学校を開設して弟子を育てよう。講師は坪内とかが良いかな、けどあいつ三好家からの出向扱いだから、免許皆伝になったら帰るかもしれないし、それならいっそ色々やってもらっている外郎家に頼むという手もあるが、まあ要相談だ。


料理をして宴をしてその日は爆睡できた。だってやっと安全圏に入ったわけだから。そして翌日、河越から、孫九郎も一緒に小田原まで帰還だ。周勝殿は暫しこの地で関東諸将に対する情報収集のために残るとのこと、ご苦労かけますがよろしくお願いします。


河越を出ると、昼餉と言うことで我が兄上の難波田城へ、そこで一月しかたっていないがまた喜蔵兄に歓待され戸惑った。まあスペアーから独立できたからなんだろうけど、一寸引くわ。

よほど嬉しいのか、狭山茶でウハウハだと言う話を又聞かせされた。


難波田から一気に江戸城へここで氏康殿からのサプライズ、なんとお詣りした将門公首塚と津久戸明神近辺を俺の所領として加増すると、俺としては将門公の縁の地だから、とてもありがたいんだが、管理できるかすごく心配、その辺を聞いたら、江戸城代の遠山殿が管理してくれるとのこと。うむ、遠山殿には確りお礼を言っておいた。そうそう、これからは盆暮れ正月の挨拶と贈り物を忘れないようにしなきゃ。


こんなサプライズのあと、東海道を西へ向かい十四日ほどで小田原へ到着。

見える見えるぞ、妙と沙代と舜ちゃんも見える。


「妙、沙代ただいま」

「貴方、ご無事で何よりです」

「義兄上、わらわは無視か?」

「ごめん、舜ちゃんただいま」

「お帰りなさい」


皆々が、無事に帰ってきたことを喜んでいる最中、舜ちゃんがマジマジと光姫を見つめて爆弾発言した。

「ん? 義兄上、また新しい嫁を連れてきたのか? 程々にせんと腎虚で大変な目に遭うぞ」

そのとき城内に衝撃が走った!


この後、誤解を解くのに大変時間がかかったぞ。

やはり平穏無事が良いぞ、家内安全商売繁盛じゃ。



永禄元(1558)年九月二日


■相模国西郡小田原 甲賀の美鈴


いやー、笑えたね。光姫が新しい側室とは、まあ確かに旦那様は旅する度に嫁を連れてくるような感じだからね。それにしてもやっぱり舜殿は側室の座を狙っていたか。

みんなは聞こえていなかったけど、私には舜殿がボソッと『まずいこのままでは義兄上の側室になる作戦が遅れるでは無いか』って言ったの聞こえてるけど、まあ面白いから放置と言うことで行こうっと。



新キャラ光姫参上。

やっと小田原へこれで日常編が書けるかも。

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