第百十七話 家に帰っても戦です?
お待たせしました。
やっと太田へ帰還。
永禄元(1158)年八月十五日
■常陸国久慈郡折橋村 三田康秀
戦場ではあるが、何とも言いがたい気分だ。目に前に頸がある、幾度となく見慣れた生首なのだが、その頸はもの凄く無念未練を残したと思える程の凄まじい形相で睨んでいるように見える。
この頸は伊達左京大夫晴宗、この人物、俺の記憶ではあの戦国一のDQNである独眼竜伊達政宗の祖父に当たる・・・・・・
まあ、そこは良いだろう、問題は晴宗が史実においてどう動いてその結果が伊達家を盛り立てた男かどうかだが、輝宗と政宗の事柄は良く覚え得ているんだが、晴宗は嫁泥棒した事と親父と喧嘩して天文の乱を引き起こし折角奥羽に覇を唱えていた伊達家の勢力を減退させた事しか覚えていない。
まあ、既に死んだ人物の未来を思い出しても仕方が無いか、今現在は当主の晴宗が死んだことで伊達家も暫くは動けないだろう。あとは輝宗だが、討ち取った中にはいなかった。捕虜を尋問したら深萩の戦場では輝宗は晴宗と一緒に本陣にいたそうだが、本陣崩壊前にバラバラになって別れたそうだし、討ち取ったという話も聞かないから逃げおせた可能性が高い模様だ。
何でも風魔と甲賀の警戒網を突破した連中が数個集団ほど出たらしい。その失態について小太郎や美鈴から謝られたが、俺も一万近い敗走勢全てを捕殺するなど無理だからと判っているから、気にするなと言っておいた。それはそうだ、忍者とて立川文庫の真田十勇士じゃあるまいし、スーパー超人じゃないんだから。彼ら彼女らは素晴らしい動きをして敵を屠ったのだから賞めることはしても叱責はしないよ。
その後、繋ぎで来た小次郎から氏康殿の伝言を受け取ったが、晴宗の頸を取ったことは殊勲大だと言われている。だからこそ輝宗君は運が良かったと考えるしか無いだろう。史実じゃ、二本松畠山の当主に拉致されて政宗に鉄炮で撃たれて死ぬんだけど、未だ命数が残っているんだろう。尤もここで輝宗を討ち取っておけば、厄介な独眼竜は生まれなかったんだけどな。
ハッキリ言ってあれがいると、東北が滅茶苦茶になるし、下手なチートキャラより能力も運も上だからな、それに謀略もMaxレベルだし、んー、やはり裏から動くか、政宗の母親と片倉兄妹を何とか出来れば、輝宗が嫁もらっても、政宗クラスはそう簡単にはできないだろうに、それとも、米沢に虎哉宗乙が招致される前に息の掛かった仏僧を派遣しておくのも手か。
そういえば、虎哉宗乙って快川和尚の弟子だよな、そうなると快川和尚が未だ美濃にいるんだから、本人は恵林寺にいるのかな?
長嶋で快川を見た時は一緒にいなかった気がするんだが、けど美濃出身だし、気がつかなかったのかも、俺が虎哉宗乙を思い出したのもつい最近だし、こりゃ調べさせないと駄目だ。そうなると、美濃に仕込んだ馬来屋に命じるか、けどなーあそこには墨俣一夜城計画の実行をさせなきゃならんし、今時点でそれほど重要な人物でも無いから、放置か、千代女経由で舅殿(望月出雲守)に人数だして貰って調べるかだな。
風魔を使う手も有るんだが、ただの坊さんの行方を調べる自体あれだしな。それ以上に重要な案件が多すぎるから。しかし、虎哉宗乙ってこの時代でもそう名乗っているのかな? 違ったらお手上げじゃん。やはりここは、快川和尚の周りを探らせるのが良いか。
まあ、坊さんの話はおいておいて、今回の戦では、伊達勢と岩城勢の荷駄隊を田村勢の時のように蹂躙して護衛はほぼ全滅、人夫は捕縛していた所で敵が出現、何故かと言えば、伊達、岩城本陣の撤退が早すぎたせいだ。
その為に伊達軍荷駄隊攻撃時に使った大鉄炮のメンテナンス時間が取れずに使用できなかった。
あれは、水冷だけど流石に連続射撃では銃口内に火薬滓が溜まるし、火薬の燃焼で生じる硫酸で銃口内が爛れるから頻繁なメンテナンスが必要なんだよな、城とかなら多数用意しておけるんだが今回は担いで来た分しかないから、連続戦闘は無理だった訳だ。
その為に、今回は通常戦闘で行くしか無かった。此方としては僅かな時間しかないが、馬防柵は無理としても塹壕を掘って、突っ込んできた騎馬を鉄炮と弓で薙ぎ払い、その後、鎗での白兵戦をするつもりで準備した。
いよいよ敵が現れたので順当に鉄炮衆による蹂躙が始まり、これで行けば、旨く行くと思ったら、突然今宮勢が、何処ぞの突撃万歳高校の様に塹壕から出て突撃を開始してしまった。
どうやら俺らが田村伊達岩城を蹂躙してきたのをみて、ランナーズハイみたいな感じで、伊達岩城は弱兵だと勘違いして突っ込んでしまったようだ。確かにこの時点では伊達勢はボコボコの状態で旨く行けばパーフェクトゲームも可能だったんだが、この今宮勢の突撃で射線上に味方がいるので射撃不能に陥り援護するのは弓隊だけに・・・・・・
その上、伊達勢は晴宗を逃がすために死に物狂いで攻撃してきたから、僅かな時間で今宮勢は崩れて崩壊し此方へ逃げ込んでくるはめに、そのせいで此方も多少の混乱が生じ、仕方なしに大藤殿と孫太郎が率いる諸足軽衆が出て戦った。
最初は、今宮勢を叩いた事で、意気が上がる伊達勢だったが、『葉殿!』とか恥ずかしい叫びを上げる孫太郎が凄い勢いで敵勢を切り開き、超張り切って突貫の末に伊達晴宗を討ち取ったことで、晴宗を逃がすという目標が消えたことで流れが変わり、それからは敵がバラバラになって残敵掃討状態になり今に到ると。
それにしても、今宮勢などを連れてきたお蔭で要らぬ犠牲を出して意気消沈気味だよ、辛うじて鉄炮衆と弓衆には手負いだけで討ち死には出なかったが、諸足軽衆には四名討ち死、六十七名手負いという痛手が、ハッキリ言ってそんじょそこいらのモブ武将より練度も高い将兵が損耗するという悪夢が起こった。
大藤殿も内心じゃ作戦をぶち壊されて怒り心頭だろうが、佐竹との盟約の為に顔には出さずにいるようだ。俺も笑顔は流石に無理だが、当たり障りの無い程度にしているがね。
田村勢との戦いと違い、伊達勢の有力者の遺体だから、確り回収することも行った。ここまでに掛かった時間は凡そ二刻(4時間)ぐらい。で、時期が時期だし腐ると嫌なので取りあえず主要な頸を集めて首実検(カッコカリ)をすることにした訳だ。何と言ってもこの季節未だ未だ暑いから腐ってえらい事になるからな。
で、この形相の頸を見ているわけだ。但しここでの首実検は直ぐに終えて即行で南下して深萩の本陣まで行ってそこで再度首実検をする事になっているので、頸の傷やら髪の直しなどはしないで頸桶に入れて運ぶだけだ。
残りの死体は取りあえず大穴掘って埋めて近所の寺の住職に読経と供養を頼んで小休止の後、即行で出発した。
永禄元(1558)年八月十五日
■常陸国那珂郡深萩村 佐竹義里
残敵掃討する兵たち、捕縛した敵を一個所に集めて監視する兵たちなどが引っ切りなしに戦場となったこの地を走り回っている。その姿は普段と変わらない状態なのだが、私としては大戦が終わったという感覚が無いままだ。
あの様な攻撃は生まれて初めて見た。鉄炮は既に当家に幾ばくかでもあるが、有れ程の煙硝を使う大筒は聞いた事が無い、聞けば北條殿は唐天竺南蛮の文物を率先して手に入れているようだ。そこから手に入れた知恵で作ったのであろう。
儂も、あれが絡繰りと教えられ、製作過程を見ていなければ神仏の力と思ってしまったであろう。
ここまで来ては、北條殿との盟は絶対に破っては成らぬ、その為に御屋形様には、この地で起こった事を寸分逃さずお伝えしなければならない。それが我らの佐竹繁栄の為になるであろうから。
永禄元(1558)年八月十五日
■常陸国那珂郡深萩村 北條氏康
長四郎の設計した大筒は木を刳り抜いて竹の箍で強度を保つという使い捨てであるが、敵に思った以上の損害を与えてくれた。そのうえ、伊達右京太夫まで討ち取るとは、尤も討ち取ったのは松田の小僧であるが、あの者は松田一族では珍しく上級家臣風を吹かすことが無く、雑兵にまで声をかける人格の良き男よ。
尤も、祐子の乳姉妹に熱を上げているようだが、その者が佐竹左京大夫を叱責しているのだから面白きことだ。そういえば、長四郎、妙より養女の件で相談を受けていたが、正木弾正の件、今回の件を考えれば、孫太郎を松田本家より独立させ新九郎の馬廻りとして精鋭を率いらせるのが良いかも知れん。
うむ、葉とやらは、井伊の分家の出と聞く故、叔父上の養女とするが良いかもしれぬが、さて伊達右京太夫を討ち取った威丈夫には諸処から縁組みが来るのでは無いか、それでも貫けるか見物かも知れぬ。
先ずは、半刻ほどで到着する頸を婿殿(佐竹義重)と共にあらため、太田へ帰ってからだ。
永禄元(1558)年八月十五日
■常陸国那珂郡深萩村 佐竹義重
目の前に頸がある、典厩殿が『見ると恐ろしいかも知れません』と言った意味がよく判った。幾度となく頸を見ているはずの舅殿(北條氏康)、我が家の宿老たち皆が皆、息を呑んで見てるほどの形相だ。これは確かに見るべきじゃ無かったと少しは思ってしまうが、我は佐竹次郎義重ぞ、この程度の事で狼狽えはしない。
暫し息を呑みながらの首実検もおわると、既にあの喧噪も嘘のように梟などが鳴き始める刻限になり、それぞれに労いの言葉とかけると、その後は戦場ではあり得ないほどの豪勢な夕餉に舌鼓をうち、不寝番を除いて寝始めたが、我が家の兵たちは地べたに筵をひいて横になっているが、北條の兵は寝袋という筒状の布にくるまり眠りはじめている。
こうして見ると、思うに北條家の将兵への待遇は非常に良いようだ。特に食事などは輜重兵が運んだ缶詰や乾燥品などを調理し、温かい食事を食べられる様にしている。更に携帯食料、糧食というそうだが、それにも乾麺麭と言う小麦粉で作った物や缶詰、乾燥肉、粉末の茶など、贅沢な品揃えだ。
更に負傷した兵に対する治療も想像を超えた物だった。馬糞や馬尿など絶対に使わずに、流水で傷を洗い、綿をもの凄く強い酒精に漬けた物で傷口を拭い、更に綿に浸した用土珍奇なる茶紫色の液で仕上げをし、綺麗な布で傷を覆うという、更にその上から油紙なる水をはじく紙で保護するという、どれをどう見ても、我らには真似できない事ばかりだ。
医術においては足利学校や都で有名な曲直瀬道三も一目置くほどのものだそうだ。そして各種の保存食も恐るべきものだ、缶詰一つをとってもこれからの戦を変えてしまうだろう。それにあの大筒を使った戦法など金が無ければ全く無理だ。
しかし、北條とはなんたる恐ろしき者たちなのであろうか、地下足袋、合羽、寝袋といった小物までが一々驚かされるばかり、父上が盟を結ぶのは正に先見の明があったことになる。もしあの時典厩殿が毒飼いに気づかなければ、もし北條殿が戦の援軍に立ってくれていなければ、太田は落ち、私も父上も屍をさらし、多くの民百姓が塗炭の苦しみに泣いたかも知れない。
これから色々と大変かも知れないが、我が佐竹を盛り立てる為に、北條家との盟は切らぬようにしなければ成らない。
永禄元(1558)年八月十六日
■常陸国久慈郡太田 太田城 松田康郷
よっしゃー! やっと帰って来たぜ、大将頸も取ったし、あとは葉殿と帰るだけだ。
『葉殿、貴方の為に大将頸を取りましたぞ』
『孫太郎様、素敵です』
『なんの、葉殿のためなら大将だろうと誰だろうと頸を取りまくりますぞ』
『孫太郎様』
そして、二人は・・・・・・
「おい、孫太郎、孫太郎」
「ん、良い所なのに、なんだ?」
「お前な、いいかげん妄想は止めた方が良いぞ、皆が不気味がっているし」
やばい、またやっちまったか。長四郎をはじめ、御本城様、祐子殿、大藤殿、それに佐竹殿まで呆れた顔で・・・・・・
「失礼致した。敵将を討ち取った興奮冷めやらぬためでござる」
取りあえず誤魔化そう。
「武士の情けだ。そういうことにしておいてやるさ」
話を聞いたら、葉殿は未だに佐竹のオッサンの面倒を見ているのでここには出てこられないそうだ。なんだって、と思った。あのオッサン葉殿に手を出してやがったらただじゃおかねーぞ!
で、オッサンは広間で待っていると言うので足を洗ってから屋敷へ入らなきゃならない。本当なら地下足袋のお蔭でそんなに足は汚れていないのに、もどかしい。
まあ、良い、足を洗うのももどかしいが、汚い姿で葉殿に会うわけにはいかないからな。本当なら土足ででも上がりたいが仕方ない。
さてさて、先日宴をした大広間に到着だ!
小姓たちが襖を開けると、順番に中に入るが、もどかしいことに俺の番は長四郎より後だから未だ入れない。
やっと番だ!
「えっ!」
目の前には葉殿に看病されながら、葉殿の尻をスリスリと触る糞親父が!
テメー! その尻は俺のだ!
永禄元(1558)年八月十六日
■常陸国久慈郡太田 太田城 三田康秀
あちゃー、何と言う事が起こったのでしょうか、修羅場が発生しそうな感じだ。
て言うか、孫太郎の怒気が戦場より遙かに凄いんだが。
葉が尻を触る手を器用に弾いているが孫太郎にはよく見えていないようだし。
んー、佐竹義昭殿の命日にならなければ良いんだが・・・・・・
忙しくて感想返しが段々伸びて本当に申し訳ありません。
感想は全て読んでおりますので、何とか時間見つけて少しずつ返しますのでお待ち下さい。