第百十四話 深萩合戦
お待たせしました。
合戦はアッサリ終わりました。
次回は、逃げた晴宗と康秀達との遭遇戦です。
永禄元(1558)年八月十五日
■常陸国那珂郡深萩村
佐竹、北條連合が築き上げた土塁は東西の山麓から始まり中央に里川を挟んで七町(763m)ほどの規模であった。里川西側の土塁は四町強(462m)、里川東側の土塁は三町弱(301m)ほどであった。
地形的には長き時を超えて里川が作った河岸段丘の中を里川が流れている。その西側は比較的緩やかな傾斜が山肌から里川へと下っていて大軍の展開にさほど苦労するような地形でなかったが、東側は山肌が川近くまで迫り狭めの土地しかなかった。
その為、軍勢の大多数を率いる伊達家が西側を、少数の岩城家が東側の攻めることを事前に取り決め、いよいよ伊達、岩城勢は喊声を上げながら、佐竹、北條勢が構築した野戦築城陣地へ攻撃を開始した。
足軽の備は鎗を構えながら組頭の命令に従い突撃を敢行する。彼らは敵からの攻撃を覚悟しながら突入したが、敵陣からは散発的に矢が降ってくるだけでさほど被害もなく最初の土塁に辿り着いた。
普通であれば伊達、岩城勢に対して雨霰と降るはずの矢がないことに足軽大将、戦目付、騎馬武者などは胡乱に思ったが、よくよく見れば土塁の前面の堀は掘りかけなのか、幅十間(18m)も有るにもかかわらず、深さは僅か深さ三尺(90cm)ほどの深さしかなく、よほど慌てたのか、鍬や畚などが乱雑に放置されていた。
「どうやら、慌てて作って完成していないようだ」
「確かに」
そう話した足軽大将や戦目付たちは、空堀に対して前面にそびえ立つ土塁を見て更に怪訝に思い始めた。土塁は高さ一間(1.8m)ほどの高さで、塁上には所々しか柵がなく、隙間だらけで簡単に登坂できそうな作りであった。それに対して、門は横幅、立幅それぞれ二間(3.6m)ほどの立派な作りで周りの土塁は幅三十間程(54m)ずつ左右に広がりしかも周りの土塁に比べ確りと作られ塁上には板塀が張り巡らされていた。
「やはりそうだな、門を最初に作り、後から土塁と堀を作ろうとして間に合わなかった様だ」
「ですな、しかし先に土塁と堀を作り柵を構えるのが基本と言えるのに、やはり敵は相当慌てているようです」
「うむ」
足軽大将が頷き、組頭たちに命令を出した。
それを元に組頭たちは命令を足軽たちに命じた。
「いいか盾を構える者と登る者二人一組で登れ。その後塁上で盾を置き壁を作れ」
組頭の号令と供に、盾を構えた足軽と鎗を抱えた足軽が土塁を登りはじめる。敵の集中攻撃を受けるはずと身構えながら土塁を越えた者たちだったが、それに反して敵陣からは先ほどと同じ様な散発的な矢が降ってくるだけであった。不思議に思う彼らであったが、その理由は目の前に存在した。なんと土塁の下は乾いた土地がなく、水の入った田が続いていたのである。その大きさは幅三十間(54m)ほどであった。
田の向こうには元々道だったのか畦だったのか判らないが広めの乾いた土地とその後にまた土塁が続いており、先ほどまで矢を放っていた兵たちが慌てて土塁を登り、向こう側へ逃げていくのが見えた。
「存外、敵は腰が引けているの」
「あれではまともに戦えないであろうに」
足軽たちが逃げていく敵をあざ笑う。
そんな中、土塁上に上がり下の様子を見た、組頭たちは相談をはじめていた。
「田があるから、土塁だけ作って障害物にした訳か」
「組頭、田に入れば身動きが取れずに、狙い撃ちされます」
「うむ、仕方が無い、門を破壊して突破口を開くしか有るまい」
直ぐさま、後方の足軽大将に連絡が行くと、準備されていた丸太が足軽に抱えられ門へ進み始めた。
正門に到着した連中は組頭の命令で問を壊すために数十人で丸太を抱えて突貫をはじめた。
「行くぞ! おらー!!」
「「「「「「「「「「おうー!!!」」」」」」」」」」
掛け声と供に突貫を続ける十数回の突貫できしみ始めた門は”ドーッ”と音を残して崩壊した。
門が壊れると歓声が上がる。それに対しても佐竹側からは相変わらず散発的な矢が降ってくるだけで盾で簡単に防げてしまう。
「盾を構えて、密集し進撃せよ」
足軽大将の命令に足軽たちが門内に侵攻する。そこは周りの田と違い乾いて確りと整地された幅三十間、奥行き三十間ほどの広場になっており、その先には更なる土塁と門が見える。
「うむ、敵は幾重にも土塁を重ねているとは」
「厄介ですな」
足軽大将達が見る先にもまた土塁と門があるが、そこからも散発的な矢しか放たれてこない。
「ここで暫し、盾で陣を張り敵の出方を見よう」
「はっ」
あまりの抵抗の弱さに足軽大将もこのまま進んで良いのか迷い、後方の本陣へ使い番を走らせた。
伊達勢の本陣では足軽大将からの注進に対して考察がはじめられた。
「敵は街道を塞ぐ形で堀と土塁を幾重にも築いているようです」
「それほどの物をいつの間に作ったのか?」
「全く見当も付きません」
「この付近に詳しい者に問いかけましたが、全く気がつかなかったと言っております」
「しかし、あれ程の物はそう簡単にできぬぞ」
「先鋒によると、作りかけなのか、多くの道具が散乱してるそうですので、一気に作ったのではないかと」
「その様な馬鹿な事が、あるか!」
「しかし、現実に存在するのですから」
重臣同士の言い合いに発展してしまい、晴宗も苛立ちはじめる。
そこで、伊達家の実権を握っている中野宗時が仕切りはじめた。
「御屋形様、土塁も堀も既に存在するのですから、何時出来たなど関係無いことですぞ、敵が散発的な攻撃しかしてこないと言う事を考えれば自ずと判るもの。恐らく義昭の病がよほど悪いのでしょう。それにより士気の低下が起こり兵も寄せ集めで纏まりがないのでしょう。実際今の攻撃は盾で防げる程度の矢しか有りません。それならば、このまま押し切って門ごと敵を押しつぶせば良いかと」
「常陸介(中野宗時)の言う通りかも知れぬな」
「はい、ここで伊達家の武威を見せれば、奥羽の諸将も再び伊達家の門前に馬を繋ぐことになりましょう」
「うむ、そうじゃな」
「左様にございます」
「うむ、者ども敵を押しつぶす勢いで攻撃せよ!」
「「「「「「「はっ」」」」」」」」
総大将の鶴の一声により攻撃続行が決まり、先鋒は再度盾を構えながら土塁を登り、門を壊しはじめた。
今度も散発的な攻撃しかなく、拍子抜けの状態で土塁を下り二十間(36m)ほどの広場に到着した。
「やはり攻撃は散発的だな」
「はい、此はやはり敵の兵が少ないのでは?」
「かもしれぬな」
「しかし、次も越えないと駄目だろう」
「準備させます」
兵たちは続いて第三の土塁を越えた。
そこにも広場が有ったが、此が最後の土塁らしく、その先二町(218m)程先に柵が立てられ、その中に多くの兵が犇めいているのが見えた。しかし、相変わらず敵は散発的に矢を放つだけでその矢も二町もあるので碌に届かない状態だった。
その姿に、兵らは敵が弱いと感じたのであろうか、軽口まで飛び出す始末。そして侍大将の命令により、準備が完了した兵たちが敵陣を攻撃するべく、盾を構え喊声を上げながら突撃を開始した。
永禄元(1558)年八月十五日
■常陸国那珂郡深萩村 石母田光頼
国を出てからさほどの難敵に会わずに、佐竹と北條勢との戦になったが、しかし、野戦ならいざ知らずこの様な土塁を拵えるとは、敵の意図は判らないが、それでも障害物を置くことは理に適っていると思う。
しかし、これだけの土塁を作りながら放棄するとは敵には戦というものが判っていないのであろうか、普通であれば、これだけの土塁を作られて籠もられたら、野戦では無く城攻めになってしまう。その利点を捨て去ってしまうとは、老いたか佐竹義昭よ。それに北條左京大夫と言えば川越夜戦で有名な男なれど、この様な戦の仕方を認めているのであれば、噂ほどでは無いのかも知れぬな。
それはさておき儂を含む備は敵の作った土塁を三段も超えてやっと敵の軍勢と相対することが出来た。
敵は柵の中に籠もって鎗を此方に向けているが、一向に攻めかかる素振りも見せずに、時たま当たりもしない矢を放ってくるだけだ。
士気の低下が著しいと聞いたが本当のようだ。しかし此も戦の性、例え逃げ腰であろうとも、我らに鎗を向けた以上は存分に討ち取ってくれようぞ。
ん?敵陣の中から盾で囲った荷車のような物が出てきたがあれはいったい何だ?
兵たちも訝しんでいるが?
先陣の周防守(鬼庭良直)の備が撃退するようだが、あの様な物で何が出来るのだろうか、敵はやはり相当焦っているのであろう。
そう思ったのもつかの間、兵たちが多数の荷車に近づいた瞬間、荷車から轟音と共に煙と何かが飛び出したかと思うと、近づいていった兵がバタバタと倒れたではないか!
いったい何なのだ、数えられないほどの荷車が現れては轟音と光と煙を発し、それが収まると、多数の兵が地面に伏している状態だ。
何かした荷車はそのまま敵陣へと戻っていくが、馬も牛もいないのに動くとはいったいどの様な事が?
拙い兵たちが混乱している、戦場を見渡せは彼方此方で同じ状態が見え、兵がバラバラになりつつあるではないか!
「何なのだ、あれは!」
永禄元(1558)年八月十五日
■常陸国那珂郡深萩村 桑折景長
敵陣を攻める為に占領した土塁前で備を構えていた所、最前戦で突然起こった轟音に儂も兵も思わず驚いていた。
「殿、何故か判りませんが、味方がバタバタと倒れて行きます」
「鬼庭勢、混乱しております」
「湯目勢(湯目重弘)の旗が倒れております」
「原田勢、壊滅状態とのこと」
「山嶺源市郎殿(山嶺安長)御討ち死に!」
「馬鹿な、いったい何が起こった?」
先ほどまで一万六千を持って士気の低い一万弱の敵に仕掛けていたのが、一体全体何が?
「殿、御屋形様より『前線へ出て混乱を留めよ』との事」
チッ、どうせ常陸介の命令であろうが、奴め先代様(伊達稙宗)を押し込んだ時に活躍した事を笠に着て親子揃って権勢を振るいやがって、俺も活躍したが今では格式だけの守護代でしかないのだから・・・・・・
「殿」
「判っておる」
不満が顔に出ていたかいかんな。
なっ?
先ほどと同じ様な轟音が背後から聞こえた。
後を見ると・・・・・・・後続の備がバタバタと倒れているのが見えた。
いったい何が起こったんだ!
永禄元(1558)年八月十五日
■常陸国那珂郡深萩村 大條宗家
「殿、殿」
「うっ」
「殿、お気を確かに」
「左門、どうなったんだ?」
先ほど敵の荷車からの何かが飛び出した後、気を失っていたようだが、何が起こったんだ。
「はっ、敵の荷車からの攻撃の後、地面から敵が現れお味方へ攻撃を開始しております」
「兵はどうなった?」
「殆どが敵が持つ棒から煙と轟音が出ると血飛沫を上げて倒されております」
「なに」
もしや、鉄炮か?
しかし佐竹にそれほどの鉄炮があるとは思えんが・・・・・・
そうか、そうか、北條か、御屋形様は謀られたか、此は拙い、直ぐに御屋形様に撤退を進言せねば。
「うぐー」
立とうとするが立てん、いったいどうなっているんだ。
「左門、立てぬぞ」
「殿は落馬為され脚が曲がっております」
「なんたる事ぞ」
此ではどうにもならんが、少しでも時間を稼がねばならん。
「左門、良いか、敵は鉄炮を多く持っておる。このままいけば御屋形様の危機じゃ、お主は直ぐに本陣へ行き儂の言葉を伝えよ」
「殿は、殿は如何するのですか」
「この状態では儂は最早此までじゃ、この場で最後まで残って、切り死にする」
「殿、お供致します」
「ならん!」
「殿!」
「多聞(大條宗直)に此を渡せ」
「殿! 後で向かいます故、暫しお待ちを」
「左門! 泣いている場合ではないわ、必ず必ず、生き残れ、殉死する事は許さん、お主は多聞を支えよ」
「殿!」
幾度となく、戦場に出たがこの様な戦いは初めてよ、此も時代の流れか・・・・・・
「大條尾張守宗家、ここに有り、この頸欲しければ来るがよい!」
永禄元(1558)年八月十五日
■常陸国那珂郡深萩村 伊達晴宗
「いったい何が起こっている?」
常陸介が驚いた顔で回りの者に問いかけるが、誰も判らんとは、先ほどまで押していたはずの我が軍が壊走状態になりつつ有るとは、いったい何が?
「鬼庭勢、混乱しております」
「湯目勢(湯目重弘)の旗が倒れております」
「原田勢、壊滅状態とのこと」
「山嶺源市郎殿(山嶺安長)御討ち死に!」
「大條尾張守殿、御討ち死に!」
「小梁川尾張守殿、(小梁川親宗)御討ち死に!」
壊滅状態ではないか、どうしてこうなった?
「御屋形様、後陣の後の土塁が突然轟音と共に弾けると、多くの将兵が血飛沫を上げながらバタバタと前のめりに倒れております」
何がおこった?
「御屋形様!」
「何か?」
「大條尾張守殿よりご注進」
死んだ尾張がなにを?
「なにか?」
「はっ、敵は多数の鉄炮を要しており、直ぐさま陣払いをとの事にございます」
「鉄炮、鉄炮だと・・・・・・」
鉄炮か、しかしあれは戦場では役にあまり経たない筈では?
「御屋形様!」
景長(桑折景長)が兜も脱げたざんばら髪姿で現れたが。
「播磨、如何したか?」
「最早此まででございます。敵の攻撃で前衛は壊滅、後衛も土塁からの謎の攻撃で大打撃を受けております。ここは早急に陣払いを、殿はそれがしが請け負います故」
「そこまで、酷いか? 義父殿、太郎は?」
「岩城勢も同じ状態です。お早く」
ここで死んでも仕方ない。
「判った、者ども続け!」
「御屋形様!」
「御屋形様を護れ!」
永禄元(1558)年八月十五日
■常陸国那珂郡深萩村 清水太郎左衛門尉康英
「聞きしに勝る威力だ」
誰かの呟きがこの戦の異常さ、奇抜さを現しているだろう。
典厩殿が差配したリアカーを盾で囲い木砲を備えて中に入った者が押しながら砲撃するとは、木砲自体は丸太を加工するだけであるから、簡単に四百門作れたのだが、残念ながらリアカーが二百しかないために典厩殿曰く野戦自走砲なるものは二百輌しか出来なかったが、残りは敵が背に置く筈の土塁の中に埋め込み、頃を見て土塁内に拵えた二十個所の観測所から発火させ砲撃するとは、その砲撃も全て鉄砲玉を詰めて榴弾効果を起こさせたのだ。
態々土塁を三段も作りそこを守らずにただ越えさせるだけで敵の油断を誘うとは、完全に図に乗り敵は木砲の埋めてある土塁を背にしたのだから。
その為、伊達、岩城一万六千があっと言う間に崩れ、砲撃を合図に塹壕に隠れた鉄炮隊が繰り引き戦法で順次進撃し、鎗衆と共に蹂躙したのだ。恐ろしい勢いで崩壊した敵は慌てて土塁を越えたが、田に偽装した障子堀に躓き倒れた者などは容赦せずに射殺し撃ち倒したのだ。そして門へ向かい押し合いへし合いになる者、そして最後には門内の土塁に仕込んだ木砲の攻撃で敵の殿を壊滅状態にした。
「これは、戦では無く虐殺としか言えないのでは無いのか?」
そういう言葉も聞こえるが、儂から言えば此も戦と言えよう。尤もこの様な作戦は一見だからこそとも言える。この戦が知られれば、敵も考えてくるであろう・・・・・・
永禄元(1558)年八月十五日
■常陸国久慈郡折橋村 伊達晴宗
播磨が残兵を纏め上げ、殿をしてくれたお蔭で、馬廻りを連れて撤退できたが、あれ程いた兵も僅かな馬廻りだけとは、何故こうなった!
しかし、此で終わる訳にはいかん、ここで弱みを見せたら芦名を筆頭に伊達が蚕食されかねん!
「御屋形様、まもなく小荷駄がみえます」
十三里(8385m)も来れば、一息できるでありろう。
「御屋形様、あれは!」
「何だ?」
「敵です!」
「馬鹿な、先には小荷駄と、田村がいるだけでは無いのか?」
「旗は五本骨扇に月丸と三つ鱗です」
「馬鹿な、馬鹿な!」
皆様のお蔭をもちまして。第四巻が増版されました。
ありがとうございます。
感想返し、修正は今暫くお待ちください。
木砲は実際に戦争で使われており、使い捨てですので、丸太に穴を開けて竹の箍で砲身強化して散弾を入れて発砲するという対人地雷&榴散弾状態にしました。
本来ならフス戦争の様なウオーワゴンがいいんでしょうけど、直ぐには出来ませんから。リヤカーに盾で装甲化した人力自走砲になりました。進撃時は二人で押して砲撃後は引っ張って逃げる。装甲化しているのでよほど脚に当たらない限りは逃げ切れるという事に。