第百十二話 観音寺の戦い
お待たせ致しました。
今回も京近辺のお話です。
そろそろ関東の話も再開する予定です。
今回後書きにギャグテイストの話を書いてあります。
注意書き この世界では浅井長政が元服しましたが、賢政や長政と名乗らずに朝倉宗滴の諱から教政と名乗っています。
六角義賢の旗と馬印が判らなかったため、同族の京極高次の物を使っております。
感想返しは今暫くお待ちください。
永禄元(1558)年九月
■山城国愛宕郡 京
五月以来行われていた、室町幕府第十三代征夷大将軍足利義輝とそれを支援する近江守護職六角義賢連合と畿内を制圧する三好長慶との京東方の戦は呆気ない幕切れとなった。心ならずも六角家に臣従していた北近江の実質的支配者である浅井久政が臣従を破棄し六角家の居城観音寺城に攻め寄せた。
それにより、義輝を支援していた六角勢が慌てて撤退した事で陣全体に混乱が起こった。更に義輝軍の主力を形成していた髙島七党も浅井勢の田屋、海津勢を主力とする別働隊が空き家同然の湖西へ攻め込んだことにより、自家の存亡に関わると我先に撤退していった。
それに対して、三好実休率いる四国勢は撤退する六角勢を追撃したが、六角義賢が山岡景隆に命じて瀬田の唐橋を焼き落とさせたことで追撃が出来ずに山岡勢との睨み合いに終始する事になった。尤も実休自体、松永勢が義輝を捕らえる事と、浅井と戦う六角勢の戦力を少しでも減らすために追撃したのであり、六角勢に圧力をかけた事で充分役目を果たしていた。
その結果、夜が明けると義輝の手元に残った兵は僅か百ほどの近習だけになっていた。義輝は六角勢や、髙島七党を罵りまくったが、それでどうにか出来る事も無く、ヒシヒシと迫り来る三好勢の圧力に抗しきれずに、折角再建した将軍山城を焼き捨て、坂本経由で今回も朽木谷へ逃走しはじめた。
しかし、既にこうなることを予想していた、松永弾正の命により追撃してきた内藤長頼の軍勢に近江唐崎付近で追いつかれ包囲されつつあった。そんな中、忠誠心と腕に自信のある近習が決死の突撃を行い、血路を開き義輝は辛うじて逃げ切ることが出来た。
しかし、何故か松永弾正が派遣した一隊が八瀬村の山中を通ると比叡山北麓の仰木峠越で堅田へ現れ、南下し始めたため、逃げ切れずに進退窮まった義輝一行は近隣の日吉大社へ逃げ込み保護を求めた。坂本まで到着した三好側としても日吉大社を攻めるわけにはいかず、日吉大社に対して義輝の身柄の引き渡しを求めた。
その申し出に対して、日吉大社は大社の支配者に当たる延暦寺と協議を行い。これが好機であると言う事で、義輝に対して横領されている寺領の返還命令を出す事、至徳元(1384)年に足利義満により独立させられた祇園社を再度支配下にする事を認める事、新領の還付、都の地子銭の徴収を叡山に任せる、京七関を叡山管轄にするなど多数の要求を行い、それが為されるのであれば、三好側に引き渡さず保護と協力する事、拒否すれば三好側に引き渡すと提案した。
義輝として延暦寺の提案という脅迫は人の足元を見る行為であった。その為、暫し考える時間を貰うとして、六角家や髙島七党に対して迎えに来るように御内書を送ったが、各家とも自家の存亡で手一杯であり、余裕など全く無く結局一兵も送られてくることは無かった。その行為に対して義輝は怒り心頭であったが、背に腹はかえられないと、近臣により説得され渋々ながら延暦寺側の要求を受諾することにした。
これにより、義輝は延暦寺に御座所を移し、僧兵四千を手に入れ麓の三好勢と対峙し始めた。これには流石に三好長慶も延暦寺に対して義輝の身柄を引き渡せとは言えず、内藤長頼の軍勢を坂本近辺に留めるのが精一杯であった。
その様な事態が進んでいく中、本陣としている園城寺で二十七日夜半に浅井勢の侵攻を聞き観音寺城の危機を知った六角義賢率いる二万三千の軍勢は二十八日中に三十六里(23km)を走りきり野洲川付近の浮気城に本陣を構えた。その時点で観音寺城と箕作城は未だ落ちていなかったが、愛知川以北の城と観音寺城の東にある和田山城と西にある目賀田城(安土城の前身)は既に陥落していた。
その夜は将兵は泥のように眠り翌日二十九日早朝出立したが、その直後、未明に箕作城が落城したという報告があり何としても城を守り憎き浅井久政のそっ頸を叩き落とすと激高した義賢は兵を強行させた。
元々箕作城は急坂や大木が覆う堅城で、吉田出雲守が守る城で有ったが当人が主力を率いて義賢と同行していたため、留守居が防戦を指揮したが如何せん兵力不足で疲れ果てた中で夜襲を受け陥落したのである。
急行した六角勢であったが、流石に疲れたまま戦う訳にはいかず十五里(10km)進み日野川河原で大休止した。そこから多数の物見を発した所、浅井勢は観音寺城の城下町石寺の東、老蘇の森に本陣を置いていると判り、撃破するために八里(5km)を進み戦闘が始まった。
浅井久政は六角勢の進撃を知ると、兵を老蘇の森前面にある蛇砂川に沿って配置し、六角側が川を渡る際に攻撃する様に準備した。これにより、近江でも最大規模の戦いが始まった。
六角側は総大将六角左京大夫義賢、総兵力二万三千、浅井側は総大将浅井下野守久政、総兵力一万五千、六角勢と浅井勢の戦力比は数の上では三対二である。
しかし浅井勢は城攻めはしていたが確りと休息を取り、塩川屋が差配した豪華な炊き出しと野営用寝袋などでゆっくり休めたため心身共に疲れが殆ど無く、六角からの独立という最大の目標が見えていること、そして箕作城を落としたことが重なり、士気は天を突くような状態となっていた。
方や、六角勢は五月以来の長期対陣で士気も倦んでおり更には強行軍により疲れ果ていた。また居城である観音寺城からは補給が受けられず、兵の糧食は最低限度の物だけであったため、士気の低下が著しかった。
六角勢は城を落とされた目賀田摂津守貞政が三千で先鋒を進藤山城守賢盛が二千で二番手を勤め、それを残りの六人衆と国衆が支える形で攻撃を行った。迎える浅井勢は猛将磯野丹波守員昌が二千、阿閉淡路守貞征が一千を率いて迎撃を開始した。
戦闘はごく普通な野戦になるように見えたが、蛇砂川を渡り突貫をしていく目賀田勢と進藤勢の勢いに押されるように浅井勢はジリジリと後退を続けていく。それに対して六角勢は三番手三雲対馬守定持勢二千、四番手蒲生左兵衛大夫定秀勢二千を進撃させていく。
その瞬間、北西にある竜石山の麓から九百丁を越える鉄炮が撃ち放たれた。その攻撃は浅井勢の追撃に気を取られて側面が無防備状態だった六角勢は一瞬で多くの兵が撃ち倒され混乱が発生した。
六角勢の混乱に対して後退していた浅井勢は直ぐさま方向転換し突撃を開始した。これにより目賀田、進藤、三雲、蒲生勢に大混乱が発生した。
その状態で六角義賢は、後藤但馬守賢豊の進言で、平井加賀守定武、青地駿河守茂綱らを増援として向かわせたが、浅井勢の勢いに押され、混乱は益々増大していった。
永禄元(1558)年八月二十九日
■近江国蒲生郡 六角義賢
儂の前では我が六角の精鋭がバタバタと倒れて行くのが見える・・・・・・そんな馬鹿な、少し前まで身重の妻まで人質に差し出すほどに零落していた。あの男があれ程までの兵をだと、何かの間違いではないのか!
「小倉左近将監(実隆)様、御討ち死に!」
「三雲新左衛門尉(賢持)様、御討ち死に!」
「目賀田摂津守(貞政)様、御討ち死に!」
「蒲生左兵衛大夫(定秀)様、手傷を負われ後退中!」
「進藤山城守(賢盛)様、平井加賀守(定武)様、敵中に孤立為さっております!」
「青地駿河守(茂綱)様がお二人を救うために増援を求めております」
まさか、まさか、そんな、馬鹿なことがあって堪るか! 大六角が管領代まで勤めた六角が鈎の陣で公方様の心胆を寒からしめた我が六角が浅井如きに、こんな無様な姿をさらすとは、あり得ん、あり得んことだ。
「御屋形様、これは拙うございます」
あの冷静な但馬守(後藤賢豊)が苦虫を噛み潰したような顔をするとは。
「但馬、如何する?」
「拙者が参ります」
「しかし」
「ご安心めされよ。浅井の勢いは一刻のこと、頃合いを見て弱点を突けば勢いを削ぐことは出来ます」
但馬が言うので有れば、そうであろう。
「判った、但馬、任せた」
「はっ」
不敵な笑みを見せた但馬は馬渕山城守(宗綱)、永原安芸守(重澄) 池田伊予守(景雄)らを率いて行った。これで戦況をひっくり返すことが出来よう。
そう思ってから僅か小半時(一時間)でこの様な事になるとは・・・・・・
「馬渕山城守様、御討ち死に!」
「永原安芸守様、お姿が見えません!」
一体全体何が起こった?
「御屋形様、但馬守様より」
「但馬は如何したか?」
「浅井勢の鉄炮にて当方の損害多数、御屋形様におかれましては直ぐさま後退を為さって頂きたいと」
「鉄炮如きで何故これほどの損害が生じているのだ?」
「主が申しますには浅井勢の鉄炮は優に一千丁は超えるかと」
「なんじゃと、あの浅井如きにそれほどの鉄炮が有ると言うのか?」
「父上、但馬が言うのです。間違い無いでしょう」
本来ならば公方の後陣をきすだけの楽な戦だと思い息子には初陣をさせようと連れてきた事が、この様な仕儀になるとは・・・・・・しかし今は生き残りが肝要だ。
「はっ、主曰く、これ以上の損害は今後の戦に関わると」
「で、但馬は如何した?」
「はっ、主は御屋形様が無事後退なさるまで青地駿河守様、池田伊予守様と共に殿を務めるとの事」
「山城守(進藤賢盛)加賀守(平井定秀)は如何したか?」
「申し訳ございません。お二人のお姿は既に見失いましてございます」
やむをえぬか、後退しかあるまい。そう思って采配を振ろうとしたその時、突然横合いから鬨の声が聞こえたかと思うと馬廻りがバタバタと倒れた!
「いったい如何した!」
儂の近習が真っ青な顔で答えた。
「御屋形様、布施淡路守(公雄)様の備えが横合いから本陣を攻撃してまいりました」
何だと、淡路入道の奴、返り忠をしたのか!
「おのれ! 浅井下野、何処まで手を回したのだ!」
「御屋形様、そんな事より、ここは危険でございます。直ぐさま後退を」
判ってはいるが、本陣の混乱を考えれば、このまま逃げても逃げ切れぬ。ここは一戦して一度はおしかえさんと・・・・・・
「小倉右近大夫(実秀)様が勢も寝返った模様!」
右近大夫までが、やはり小倉本家の家督を左兵衛大夫(蒲生定秀)の倅に継がせたことを未だに怨んでおったか・・・・・・
拙い、完全に後手に回った。これではこれでは・・・・・・
「御屋形様、敵に乱れが生じております!」
なに、今まで本陣にかかって来ていた裏切り者共の軍勢が乱れはじめたが何が起こった?
「観音寺城に籠城していた鯰江備前守(貞景)様が城を打ってでた模様!」
備前がか、助かったが、しかしこれで城は諦めねばならんか、仕方が無い、観音寺城は曲輪ばかり多くて家臣の協力無くしては保てぬ城、ここは一旦、左兵衛大夫が日野へ逃れるしか有るまい。
「御屋形様、今が好機でございます」
怒鳴らずとも判っておる。
「後退する。皆、下がれや、下がれ!」
おのれ、おのれ、浅井下野め、お主のせいで、京に旗を立てるという儂の夢が・・・・・・必ずや必ずや舞い戻り、お主だけでなく、一族郎党を根絶やしにしてくれようぞ。
永禄元(1558)年八月二十九日
■近江国蒲生郡 鏡山 浅井教政
「若、未だ未だですぞ」
「判っておる、雑魚は通して狙うは左京大夫(義賢)と四郎(義治)の頸のみ」
「左様でござる」
「喜右衛門(遠藤直経)俺を子供扱いするのは止めよ、俺はもう元服したのだぞ」
「ハハハ、それは失礼いたした。それにしては脚が震えておりますぞ」
「若、戦は恐ろしゅうございますか?」
ええい、孫五郎(阿閉貞大)にまでからかわれるとは。
「孫五郎、此は武者震いだ!」
「左様ですな」
「まあまあ若、初陣なのですから震えるのは当たり前ですぞ。拙者など親父殿の討ち死にで十一で家督を継いで以来、幾度となく戦ってきましたが、今でも時々震えが出る時がありますからな」
新三郎(新庄直頼)め、場を和ませてくれるか。
「それにしても塩川屋が卸してくれた糧食揃えは便利ですな」
「ハハハハ、藤左衛門(野村直隆)は食い物には目がないの」
「いやいや、腹が空いていては鉄炮もまともに撃てませんから」
全く、此ほど食いしん坊な男がいざ鉄炮を持つと豹変するのだから面白いのだがな。
「違いない、まあ、煮炊きせずに囓るだけで食える小麦や米の乾麺麭は便利で美味だ」
「しかし、口が渇くのが欠点だな」
「それだからこその金平糖だろう」
「違いない、この甘さが疲れを飛ばしてくれるからな」
「だな」
当初から、戦場を迂回して六角勢の本陣後方の鏡山の麓の森に隠れ続けながら待ち続けながら飯を食っていた俺たちは裏崩れし逃げ去る六角勢を見ながらいたが、いよいよ朗報が入った。
「赤地に隅立て四つ目旗と白地に黒の四つ目結の馬印が近づいております」
「若、赤地に隅立て四つ目旗は六角の白地に黒の四つ目結は左京大夫の馬印にございますぞ」
いよいよ来たか、落ち着け、落ち着くのだ。ここで左京大夫を討てば勝ちだ。
「藤左衛門、確実に左京大夫と判るまでは放つなよ」
「合点承知しておりますぞ」
藤左衛門め、こんな時でも笑わせてくれる、しかしお蔭で震えが止まったわ。
焦れる、焦れるが、未だ未だ、未だ待て・・・・・・
「中央に六角左京大夫殿見えます」
来たか。
「頃は良し、藤左衛門放て!」
「はっ、放て!」
俺の号令とともに百丁の鉄炮が火を放った。”ババーン“と言う轟音が鳴り響くと六角勢がバタバタと倒れていく。敵は思った以上に混乱しているようだ。
「頃は良し! 突撃!」
「うをー!」
「わー!」
「だー!」
思い思いの掛け声を上げながら五百の別働隊が六角左京大夫を討つために突撃していく。
既に烏合の衆になりつつある六角勢は我らの攻撃でズタズタにされていく。
周りの敵のうち意気地のある連中が左京大夫を助けようとやって来るが、それに対しては再装填を終えた鉄炮隊が正確に撃ち倒していく。
喜右衛門は俺の右隣で俺の死角を守るように戦っている。孫五郎は自慢の六角金棒で鎧兜ごと敵を叩き潰していくが、敵の兜ごと頭がかち割れるのは見ていて気分が悪くなりそうだ。新三郎は見事なほどの鎗捌きで兜頸を幾つも落としていくので、小者が拾った頸でフラフラしている。
「おのれ、何やつだ!」
目の前に左京大夫が、目を血走らせながら鎗を振り回している。
「浅井下野守が嫡男新九郎教政なり、六角左京大夫殿御覚悟」
「何を猪口才な、そのそっ頸飛ばして下野の元へ送ってくれるわ!」
「うをー!」
「何の」
「ダー」
「でやー」
流石は六角家当主、そう簡単には勝たせてくれん・・・・・・しかし。
「隙有り!」
「何の」
「がっ・・・・・・」
此方が一瞬見せた隙を突いてきた左京大夫の槍先を脇で押さえ込みその瞬間に首に穂先を叩きこんだ。
「やったのか?」
「お見事でございますぞ若」
「喜右衛門、やったのか?」
俺の疑問に喜右衛門が頷いた。
「そうでございますぞ。若が六角左京大夫殿を討ち取られたのです」
「若、名乗りを」
そうであった。近習が言うまで忘れていた。
「浅井新九郎教政、六角左京大夫義賢殿を討ち取ったり」
俺の名乗りが、戦場に響き渡ると、味方からは大きな喜声が敵からは悲鳴が鳴り響き、見る見るうちに敵が逃げ出していった。
流石にこの兵で敵を追撃した場合窮鼠猫を噛む状態になりかねないために攻撃を止め、警戒態勢に入ったが、敵は得物を捨て我先に南へと逃げていった。
「若、お見事にございました」
「全くですな」
「流石は、宗滴公(朝倉宗滴)の諱教景の一字を頂いただけはありますな」
「真に、宗滴公の言われた『武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候』を地で行くような戦いでしたぞ」
「若は宗滴公の魂がお付きなのかも知れんな」
宗滴公の魂など烏滸がましいわ、怒られてしまうぞ。
「言うな。そこまで立派ではないわ」
「まあ、良いではありませんか」
「まあそうか」
「そうでございますよ」
しかし、ここまでやるとは親父殿にも驚いたわ、此で六角も暫し動けないだろう、そうなると何処まで取るかだが、それは親父たちのする事だな。
永禄元(1558)年九月十日
■山城国愛宕郡京 池朝氏
風魔の畿内総括担当が五月以来続いた戦況を伝えてきた。
浅井を強化し六角を叩くことで公方様の力を削ぐ作戦は、一部を除いて旨く行ったもので予想以上の大戦果だ。
六角勢は二万三千の内五千近くが討ち死にするという凄まじい損害であった。それ以上に当主左京大夫と嫡男四郎を始めとして、小倉左近将監、三雲新左衛門尉、目賀田摂津守、馬渕山城守、永原安芸守、進藤山城守らが討ち取られ、池田伊予守、平井加賀守らが捕縛、後藤但馬守、蒲生左兵衛大夫、青地駿河守らが手傷を負い敗走という結果となり、六角家の勢いは目に見えて陰りはじめた。
何と言っても観音寺城も落ち、当主と次期当主揃って頸をあげられ、重臣の死者も多数出たのだから、後を継ぐ齢十二の次男では復讐戦すら難しいであろう。
高島七党も、浅井の別働隊により次々と城を落とされ、家族を人質にされ、頼みの六角家も存亡の危機にあるため、次々に浅井家の支配下に入る事を誓い、人質を出すはめになった。
尤も、朽木だけは当主の祖父が飛鳥井権中納言様である関係で浅井家と朝廷との橋渡しを行うと言う約束で、嫡男竹若丸殿と母親は京の飛鳥井家に留まることになり、家督は叔父の晴綱殿が継ぐ事になったようだ。
しかしまさか、公方様が比叡山に登るとは思ってもみなかった。公方様は頻りに延暦寺の僧兵を使って未だに洛外で気勢を上げているが、それに対して主上(正親町天皇)も院(御水尾上皇)も相当な不快感を持ち、幾度となく天台座主である堯尊法親王(伏見宮貞敦親王王子)に対して苦言を伝えてはいるが未だ纏まりが着かない状態のようだ。
一部の公家には公方様の征夷大将軍位を剥奪してはどうかという話まで出ているほどなのだ。松永勢が八瀬の間道を無事に通過した時点で、八瀬童子の手引きがあったという事、つまり主上周辺が三好側を支持したという証拠でもあるのだが、その辺を公方様は判らないらしく、伏見宮様のお供で慈照寺(銀閣)で細川兵部大輔殿と会った時に公方様との意見の相違に相当に悩んでいると聞いた。しかし、公方様や他の側近は脳天気にも延暦寺で贅を尽くしながら気勢を上げてるそうだ。
そういえば、細川殿の供に明智十兵衛なるものがいたが、もしかして長四郎が探していた美濃の明智十兵衛であろうか?
本人であれば勧誘も辞さないのだが、はたして?
やはり御本城様と長四郎に聞かねばならんな。
ここから下はギャグとして大いなる心で見てください。
永禄元(1558)年九月十日
■近江国坂田郡今浜 今浜忠兵衛
「其方の献身、甚だ素晴らしき事為り、よって近江一国での商いの免状をか」
「大使様、如何しましたか?」
「馬鹿者、表では旦那様だ」
「此は申し訳ありません」
「気をつけよ」
「イー」
全く、あれだけ貢献して出すのが紙切れ一枚とは、浅井下野は吝嗇だな。
まあ、儲け度外視でやれと言われているから良いのだが、普通の商売ならとっくに潰れているな。
まあ、今回供給した乾麺麭、金平糖も寝袋も簡易品で本国仕様とは天と地の差だから良いのだが。
それにあの生薬の入った湯が配給されると眠気も疲れも恐怖心も消えるんだが、本国の将兵に絶対に使っては行けないと厳命された物の人体実験も出来た訳だから損はしてないな。まあ、あの程度の濃度では常習性も無いようだし危険では無いようだな。
しかし俺が、お頭に命じられ幻庵様、三田様からお話を受けた時は俺にこれほどの才覚があるとは思いもよらなかったが、やはり風魔一党共通試験で商売の才能有りと認められたからこそと言えるな。
ただな、地下室での会議で、あの古代埃及のファラオ仮面を基に作った衣装は止めたいものだ。あれを被ると明らかに部下たちの失笑を買うのが判る。まあ部下も黒ずくめで覆面して答えは『イー』とかなんだが、三田様曰く様式美だと言われるのだが。
まあ変な名前の店を任された同僚たちに比べれば塩川屋は未だマシであるから良いが、他の連中は我楽田屋に馬久屋、碁婁護謨屋とか訳が判らない屋号をつけさせられているのだから。まあ此も底辺から救ってくれた北條家と三田様への恩返しと考えれば良いだけだ。