第百参話 決戦前
お待たせしました。
未だ決戦じゃありません。
永禄(1558)年八月十四日未明(午前4時)
■常陸国那珂郡深萩(茨城県日立市下深萩~常陸太田市上深萩) 伊達輝宗
今回の佐竹攻めで太田へ向かう街道の要衝である小里城に対して伊達、岩城、田村家は一万八千を以て自落を狙い攻囲したのだが、意外な事に頑強な抵抗を続けるため、父上と常陸介(中野宗時)が話し合い、城将以下全員の安全を保障し明け渡しするように使者を送ったところ、城将の今宮永義が『降伏致したいが、太田より来ている軍監が頸を縦に振らない上に、多くの者に説明しなければ成りませんので、猶予を頂きたい』と伝えて来た。
そこで、父上は今後のことも考えたのか大仰に二日間の猶予を与えたのであるが、二日経っても返事が無く、再度使者を送ったところ、事も有ろうに『伊達殿のお蔭をもちまして御屋形様が迎撃準備を整えました』という巫山戯た返答が来た。
この返答に、父上、常陸介、爺様も怒り心頭で総攻撃を命じたが、たった二日のうちにどうやったのか城の攻撃力が増えて損害が増えて城攻めがままならなく成った。更に今宮が言った言葉から太田方面へ物見を放った。
その結果、佐竹の軍勢が北上をはじめていると報告があがり、父上が城の攻囲を田村殿に任せ、我々は佐竹と決戦すべく南下したのだが行く先々の城や館は蛻の殻で、全く抵抗が無く呆れるほどであった。しかし南下を続け深萩という地に着くとそこには佐竹の軍勢が待ちかまえていた。
そこで物見に出た左衛門(鬼庭良直)からの報で軍勢の中に佐竹の五本骨扇に月丸旗以外に北條の三つ鱗の旗が有った事で、父上や爺様の話に有った、佐竹と北條の盟約は確かだと判った。
しかし米沢で父上から出陣を命じられた際には佐竹との戦いは想像出来たが、まさか北條ともとは思いも因らなかった。
評定の場では、父上の代わりに常陸介が説明したが、何でも関東公方様、関東管領殿の代替わりによる招集を佐竹家が無視し、事も有ろうに公方様、管領殿の怨敵北條と手を組んだ佐竹討伐を岩城の爺様が命じられたと言う事だが、その時ははたして真であろうかと思ったが、こうして見ると事実だったわけだ。
それ以外にも岩城と佐竹の戦いに伊達が行くことに何の得があるのかと思ったが、岩城が佐竹を下した後、爺様の孫を佐竹の当主として牛耳るつもりらしい。父上曰く、爺様が佐竹の兵を使い、父上に協力して芦名、大崎、葛西などを攻める事に使うそうだ。
そう旨く行くのかと思う所だが『芦名などが佐竹と盟約を結ぶ事が出来なければ充分に当家の利になるので傀儡はお題目でしょうな』と左衛門が教えてくれた。うむ、やはり常陸介親子は油断ならんが左衛門は良く尽くしてくれるな。ここは俺が当主になった暁には常陸介親子の専横を止め、左衛門を評定役に抜擢して家政を取り仕切らせるが良いな。
それにしても伊達、岩城、田村の連合とは爺様はよくぞ集めたものよ、まあ伊達と岩城の場合は婿舅の関係であるからな。田村は叔母上(伊達稙宗の娘)を嫁に迎えた関係で天文の乱の際にはお爺(伊達稙宗)方にお付いて父上とは険悪であったが、当主田村隆顕殿の母は岩城の出で有るが故に、そこから爺様が口説き落としたようだ。
これほどの手腕を持つ爺様だが、残念ながら跡継ぎがいなかったので、父上と爺様の話し合いで兄上が岩城家へ養子として送られた。しかし伊達と岩城の力関係を見れば伊達の方が地力に勝る。つまり本来であれば兄上こそが伊達の御曹司として俺の立ち位置にいたはず。だからこそ俺としては兄上に対して心苦しかった。
しかし兄上と爺様に久しぶりにお目にかかったが元気そうで良かった。それに懸念した兄上との会話も和気藹々でホッとした。
それにしても、父上と爺様の仲も良い事だ。以前聞いた父上と母上の馴れそめは、父上が白河結城に嫁ぐ途中の母上を軍勢を出して攫ってきた常軌を逸した行動を考えると嘘かと思えたほどだ、まあ母上も肝が据わっていたのか、攫われた際には泣くことも嘆くことも無く自分を攫った父上と平気で夫婦に成り六男五女もこしらえている。しかも母上は既に三十八になるのに未だに父上と同衾しているのだから驚きだ。そのうえ去年には吉松丸を生んでいるし、父上も側室も側女も置かずにいるのだからどれだけ母上を愛しておられるのかが判るな。俺も父上と母上の様に愛せる妻と巡り会えるであろうか。
うむ、父上がお呼びだと、そろそろ軍議か、見る限り敵方は一万程度だが、どの様な戦になるであろうか?これほどの戦いは初めてであるから緊張してしまうな。
永禄(1558)年八月十四日卯の刻(午前6時)
■常陸国那珂郡深萩 伊達輝宗
うむ、聞きしに勝る爺様の凄さだな。爺様の放った間者によって佐竹義昭と宿老に毒を盛ることに成功したらしい、それが確かで有ることは乱波の報告で判った。何故かと言えば、佐竹側の総大将が義昭の嫡男徳寿丸だからだ。
佐竹は当主が倒れた事で混乱しているようで、僅か十二の小童を総大将にして我らを迎え撃つようだ。無論十二に指揮など出来るはずがない訳だ。そこで北條氏康が本陣に詰めて指揮するようだが父上曰く『影響下にある国人衆を纏め上げるのにも苦労するなか、全く勝手の違う他家の兵を幾らお飾りの総大将がいるからといって兵たちがそう易々と余所者の命を受けるわけが無い』そうだ。
確かにそうであろう。ましてや佐竹は関東八屋形の一家であり常陸守護職を継ぐ家、片や北條は他国の兇徒と呼ばれ何処の馬の骨とも知れぬ家、その様な家の当主の命に誇り有る佐竹の一族が従うわけが無かろうに、数代前の岩城の血が流れている徳寿丸殿には可哀想ではあるが、せめて同じ岩城の血が流れている俺が引導を渡してくれようぞ。
永禄(1558)年八月十四日卯の刻(午前6時)
■常陸国那珂郡深萩 北條氏康
数里先には伊達と岩城の兵たちが屯しているのが朧気ながらみえるな。
目の前には、昨夜までかけ工兵たちが円匙を振るい見事なまでの塹壕、土塁、馬防柵を築いてくれた。皆疲れているであろうに、二交代制で今朝までに全てを完成させてくれた。これで、長四郎から聞き、儂風に改変した戦法で敵を迎撃する事ができる。
ん?太郎殿が青い顔で震えている。致し方有るまい、齢十二で初陣そのうえ総大将だからな。そのうえ、実の母が祖父の命により実父の毒殺を企んでいたのだからな。並みの子では気が滅入り鬱ぎ込む所だ。
それにも関わらず、評定では見事なまでの姿を見せてくれた。これならば林の婿としても合格と言えよう。初陣であれば武者震などはごく普通と言えよう。ここは昔話でもしてやるか。
永禄(1558)年八月十四日卯の刻(午前6時)
■常陸国那珂郡深萩 佐竹義重
「太郎殿、如何しましたかな?」
「いえ、何も」
いかん氏康殿が値踏みするような目で見てくる。ここで気を持たせねば佐竹の矜持に関わる。
「ハハハハ、そう我慢なさるな」
「何がでございますか?」
「太郎殿は齢十二で総大将、儂など十二の頃には家臣が行う武術の調練を見ていて気を失ってな」
「まさか、左中将殿がその様な事に?」
氏康殿がそんな事になるなどまさか嘘だろうに、俺を元気つける為に言っているのだろう。
「いや本当の事でな、気を失った儂は『家臣の前で恥を曝した』と叫んで腹を斬ろうとしたが、守役の清水右京亮(清水吉政)に『初めて見るものに驚かれるのは当然で恥ではございません。むしろあらかじめの心構えが大切なのです』と諫められてな、それ以来、常に心構えを弁えて堂々とすることにしたのだよ」
「アハハハ、そうですな、幼少の砌の御本城様の話は叔父上から良く聞きましたからな」
「太郎左衛門(清水康英)全くお前は遠慮が少ないの」
「御本城様を知るためにはあらゆる努力は惜しみませんからな」
「ハハハハ、お主に掛かっては側女の事まで全て知られていそうだな」
「いえいえ。拙者の知るべき事は御本城様の政と戦に関する事にございますから、下のことまで知ることはありませんな」
「これは一本取られたな」
面白い主従だな、俺にも気の置けない家臣を得る事ができるだろうか。
「さて太郎殿、儂の初陣は享禄三(1530)年、十七の時に扇谷上杉との間で行われた小沢原の戦いでな、あの頃は何も判らずに無我夢中で戦ったものだ」
氏康殿ほどの方の初陣が十七の時とは意外に遅いのだな。
「それに比べて太郎殿は十二であり儂より五歳も早いわけだ。それだけでも十分な事、普通であれば未だ未だ出陣などしないものながら、敵に臆せずこうしていられるだけでも凄い事と言えよう」
「それは、ありがたき事ですが・・・・・・」
氏康殿はそう言われるが、外面は何とかしているが、実際はやせ我慢しているだけなんだ。本当は脚と手が震えてしまいそうなところを何とか頑張っているんだ。
「太郎殿、幾度しても戦とは、怖いものですぞ」
「これは異な事を、左中将殿らしくない」
氏康殿ほどのお方が怖いとは?
「ハハハハ、太郎殿、戦になれば必ず多くの者が傷つき、散っていく。また、多くの民も迷惑するのだ。つまり彼の者たちが生きるも死ぬも儂の判断一つ、彼の者たちの事を考えれば、戦とは恐ろしきことと考え、できる限り戦わずして勝つことを考える事も我らの役目と言えよう」
なんと、氏康殿はご自身が怖いのでは無く、民百姓の事も考えて戦をしているのか、そう言えば、北條領では民百姓が安心して暮らせ、先年の飢饉でも餓死する者は皆無であったと聞いた。最初聞いた時は嘘八百と信じられなかったが、行商人や旅の者に聞き、更に細作を放った結果、事実だと判り。飢饉で大変な常陸とは大違いと大いに驚いたが、まさに氏康殿のお考えであったか、これは是非御教授して貰わねばならないな、戦が終わり次第、父上に注進してみよう。
「若殿、いかがなさった」
おっと、ついつい考え込んでしまった。お目付役の梅江斎(岡本禅哲)に注意されてしまったな。
「左中将殿、申し訳ない。左中将殿のお考えに心打たれた次第です」
「それはそれは、お役に立てたようですな」
「はい、御願いがございます。戦の後で是非に北條流の政をお教え頂けたらと思いまして」
「流石は、太郎殿、末頼もしく感じますぞ。当家の政が役に立つならば喜んでお教え致しましょう」
「有りがたく」
氏康殿は懐が大きい方だ、このかたが我が舅になるのか、感無量かも知れないな・・・・・・けど、林ちゃんがどう言うかだよな、その方が問題だな。
「若殿、顔色が優れなくなって来ましたが、大丈夫ですかな?」
「うむ、太郎殿、確かに緊張しているようですな。こう言うときは飯でも食えば落ち着こうと言うもの」
氏康殿はそう言うが、戦の緊張より林ちゃんとの関係が気になってあまり食欲が湧かないのだが・・・・・・
「太郎殿、相模名物の品でも食せば緊張も解れるというもの」
「これは?」
氏康殿が目配せすると、近習が膳を持ってきたのだが、そこに乗っている物は初めて見る物ばかりだ。
四角く黒色の堅いこれはいったい何だ?
「太郎殿、これは、缶詰と言って真鍮で容器を作り漆を焼き付けし、そこに調理した食べ物を入れ密封したもので、この状態なら二ヶ月は日持ちする物だ」
「二ヶ月?調理した物がですか?」
「そうだ。これは鮪の油漬けだな」
「鮪ですか、しかしあれは痛みやすいのでは?」
「婿の一人がこういった物を作るのが得意でな、毎度毎度驚かせてくれて退屈しないですむのだよ」
「婿殿ですか」
「そうだ、太郎殿も我が婿になる訳だから、義兄ということになる」
義兄殿か、それより、この真鍮の缶詰と言う物をどうやって食べるのだろうか?
俺がキョトンとしていると、氏康殿が小柄を取り出し、器用に缶詰の側面の盛りあがりを削り取ると、両手で缶詰の上と下を以持って離すようにすると「ポン」という音と共に缶詰が二つになり中身が見えるようになった。
「これが鮪の油漬けだ。尤も長四郎は海の鶏と言っているがな」
「これが鮪・・・・・・」
鮪は死日に通じると武士はあまり食べないものだが、名前を変えれば食えると言う事か、それにしても確かにこの白さは鳥肉に似ている。長四郎と言うと、三田殿か、なるほど三田殿は医術だけでは無く料理の才もあると言う事か、これは戦の後で聞く事が増えたな。
「太郎殿、儂も最初は驚いたが、食べてみると旨くてな。特にこのタレに漬けると益々旨くなる」
危ない危ない。また、氏康殿に怪訝な顔をさせてしますところだった。
「いえ、鮪にも驚いたのですが、三田殿の多才さにも驚かされました」
「ほう、流石は太郎殿、長四郎だけで判りましたか」
「はい、勘でございますが」
「その勘は正しいですな。缶詰だけでは無く、この佃煮や醤油、乾燥肉なども長四郎の考えで出来た物で、大いに役に立つ物ばかりですな」
そう言われて馳走になったが、確かに全てが旨い、特に鮪缶詰にかけられた白いタレが絶妙な味を描き、相伴した家臣連も「旨い旨い」と言っているからな。
氏康殿曰く、後で作り方を教えてくるそうだ、こうなると林ちゃんの為、父上のため、義父殿のため、民百姓のために伊達、岩城を必ず叩き帰すぞ。
すみません、色々あって忙しくてすみませんです。感想は全て読ませて頂いておりますので感想返しはもう少しお待ち下さい。
鮪の油漬け=ツナ缶 白いタレ=マヨネーズでした。
缶詰は真鍮板を重しの落下でプレスするプレス機で四角に叩きだして弁当箱みたいな物を作り、中に食材を入れて加熱殺菌中に上蓋をはめハンダで溶接し再度殺菌する方法で作ってます。
開け方は、側面のハンダを剥がして蓋を上下に開けるだけ。
試作品なので持ちが二ヶ月弱です。