第百貳話 進撃
お待たせ致しました。
今回は未だ戦闘シーンでは有りませんが、フラグが立ちました?
永禄元(1558)年八月十二日
■常陸国那珂郡太田城 三田康秀
和平の話をしに来たはずが、何故か、毒殺騒動になった。仕方が無いと言えば仕方が無いよな、佐竹当主の義昭殿はまさかもまさか奥さんにヒ素を盛られて絶不調、その他重臣も多かれ少なかれヒ素を盛られているという状態だから。平成時代なら鬼嫁で新聞やワイドショウで名が売れるぜ、どっかのヒ素入りカレー事件並みの報道になるだろうな。
そんな中、絶不調の義昭殿が無理をしてまで頑張って、奥方と奥女中、料理人を締め上げた結果、義昭殿へのヒ素混入は三年ほど前から日常的に薄く添加し、重臣連中への混入は盆暮れ正月などや城で評定などする際に混入していたそうだ。
取りあえず千代女配下の甲賀衆の中に毒系のベテランがいたから、彼に解毒剤というか緩和する薬を作らせている。無論俺が伝えた大蒜もだ。
佐竹主従は毒殺寸前で助かった訳だが、毒を入れる様に指示したのは奥方の父親の岩城重隆で、どうやらここ数年に渡り佐竹家に所領を蚕食され圧迫を受けた為に毒殺を企んだみたいだ。当主と主立った家臣の暗殺に成功したら義重殿の外戚として佐竹家を牛耳るつもりだった様な話だ。
何と言っても、この事件が起こったと同時に岩城&伊達勢が佐竹領の小里城を攻撃してきたのだから、義昭殿の推論は信憑性を増した。そこで、佐竹家は兵と指揮官を緊急招集中なんだが・・・・・・
問題は備えを指揮する高級指揮官が足らない事に、何たって殆どの重臣が多かれ少なかれ毒を盛られていたので無理をさせることが出来ないからな。
それでも佐竹三家の当主たちは是が非でも参加すると言うので、甲賀衆直伝の薬を飲ませて出撃までは安静にするように無理矢理寝かせ、準備は各家の宿老に任せさせた。
普段はそれぞれの思惑で動いている各家の宿老連中も義昭殿を始めとする毒飼いに憤慨したらしく準備に協力的だ。良いことだ、これぞまさに雨降って地固まるか、不幸中の幸いかな?
そして、元服し林ちゃんと婚約した結果、俺らの義弟になる佐竹義重君十二歳が名目上の総大将として佐竹勢を率いることに、しかも迎撃戦の指揮は氏康殿が取る事になった。
まあ、あの状態でほなさいならって帰るわけにも行かないし、強力な同盟国になる佐竹をここで潰されるわけにも行かないからこそなんだが。
氏康殿の計算かも知れないが『義を見てせざるは勇無き成り』の台詞はかっこよかったぜ。あれで部屋の空気が変わったのが判るほどだったから。その結果、総指揮を氏康殿が取る事に異議を唱える連中には、尋問の後、寝込んだ義昭殿と幼い義重殿が説得して承認を得た。
そして、氏康殿が戦闘の総指揮を行う以上は、一緒に来た我ら北條勢も戦闘に参加することは自動的に決まり、清水殿、大藤殿は無論のこと、俺や平三郎(氏照)、孫太郎殿(松田康郷)まで指揮官として参戦する事になった。
参戦は覚悟を決めているから良いんだ。しかし俺は上洛の時に鈴鹿峠で襲ってきた野盗を斬って人殺しは既に経験済みだ。だが、孫太郎殿の様に既に戦場で実戦を経験している訳では無い。しかし正式な戦闘は初めだが自分なりに考えて既に覚悟を決めているからな。
そんな中で最大の問題は平三郎だ。平三郎は今まで足利義氏殿の貢武とかして儀式的なものは既に大人と同じ仕事をしているんだが、戦は未だに未経験で今回が初陣状態。その為か、大広間に集まり絵図を開いての作戦会議でも脂汗をかきながら小刻みに震えている。端から見たら瘧(マラリア)やデング熱にでも掛かっている様に見えるんだよな。
俺は、夢中とは言え人殺しをしているし、剣豪将軍とのガチンコに卜伝殿や北畠具教殿との試合とかで大分胆が座ったので比較的冷静に話を聞くことが出来る。それに、アタフタしていられない理由が俺にはあるんだ。まあ、何時ものように余計なことをして仕事が増えたわけだが・・・・・・
「典厩殿、この砂盤という物は素晴らしいですな」
「左様左様、絵図面に比べ地の高低や川や崖などが一目に判る」
「北條殿はこの様な優れた方法で戦をしているのですか?」
寝込ませていた義昭殿や宿老たちに見せる為に、佐竹家から受け取った地図を元に取り急いで、風魔や甲賀に付近一帯の正確な地形を記録させ砂盤に戦場になる小里付近の地形を概ね造作したんだよ。砂盤というのは砂で地形を作るわけだ、まあ大人の砂遊びみたいに感じるけど、現代でも利用している歴とした軍事技術の一環だ。
それにしても、義昭殿も太っ腹だね。普通地図は同盟国にさえ秘密にするのに、『総大将を御願いする以上は隠すことは致しませんぞ』って詳しい地図を提供してくれたんだから。この地図が無ければ風魔も甲賀もこんなに早く地形把握や偵察を成功させられなかったはずだ。
ここまでされたら、此方としても出せる物は全て出し切るつもりで行かなきゃと思うわけだ。まあ戦闘指揮系統なら信玄にバレても大丈夫だろうよ。あそこには綺羅星の如く名将が揃っているし、俺の場合、科学技術は絡繰儀右衛門、農政は二宮尊徳、山師は大久保長安に任せているから、作戦会議で目立ってもそれほどじゃ無いだろう。
ここで基本的な迎撃案を練ってその後、集まった家臣に伝えるそうだから、細かい砂盤地形図は役に立ったようだ。皆次々に質問と作戦案を出してくるからな。基本的な作戦は佐竹家の宿老が氏康殿と話し会って決めて、義昭殿は事後承諾で良いと早々に体を休めている状態だ。
全く以て調子が悪いのに尋問なんかするから体調が更に悪化してしまった。此方としては、ここで無理をして急死でもされちゃ、幾ら坂東太郎が跡継ぎでも家が乱れるは必定だから、義昭殿には無理にでも安静にしてもらっている。
ただ問題は、奥向きの連中の中の少なくない人数がスパイ容疑で入牢中で人手が足りないのと、残った連中も今の状態では白黒付けにくいので、再度毒飼いされるのではと、坂東太郎と宿老が心配した結果、葉を筆頭に北條方の女連が看病や食事などの身の回りの世話をする事になった。
葉もオカン体質なのか、物怖じせずに無理に働こうとする義昭殿を理路騒然と叱りながら対処しているので安心出来るんだが、おい、孫太郎殿、その羨ましそうな顔は何だ。確かに葉が他の男の世話をするのはヤキモキするだろうが、今の葉は病人の看護をする看護婦だからな、なお俺の脳裏ではナース姿の葉が妄想出来ているぞ、良っし! 帰ったら今年開設する関東啓迪院の看護婦はナース服とナースキャップを制服に決めよう、それが良いぞ。
てっ、妄想している中で、小太郎以下の風魔衆と千代女配下と言うか、実質的には美鈴が仕切っている甲賀衆が、次々に情報を仕入れてくるから、その照査と砂盤に敵味方の駒を置くのに忙しくなって来た。
小里城は常陸から南陸奥へ向かう交通の要衝で、天然の要害でもあり更に常陸でも珍しい石垣を巡らせているそうだ。そして城主は佐竹分家で先代義篤殿の庶兄で今宮家に養子に行った今宮永義殿で、今現在、子息光義殿と共に頑強に防衛を続けているそうだ。
その為なのか岩城伊達連合軍は力攻めは愚策と考えたのか、三春城主田村隆顕、清顕親子が二千ほどの兵で押さえる様に隆顕の義兄である伊達晴宗に依頼されて残っているらしい。
ここまで情報が集まるのは、風魔衆だけでは無く、今宮殿が佐竹領内の修験・社人頭領を勤めていることで修験者が道無き道を越えて情報を太田城まで送って来ている。だからこそ、十重二十重に包囲された中で正確な情報が送られて来る。
岩城伊達連合軍主力は棚倉街道を南下しはじめ一路太田城へ進んできている。その為、小里城から南へ十八里(12km)程、太田城から北へ二十二里(14km)程にある下深萩(日立市下深萩町)を防衛拠点として迎撃する事に決まった。
下深萩は狭い山脈を縫うように流れる里川が河岸段丘を広げて平野になっている場所で、東西一里強(740m)、南北三里(2km)程の平坦面になっていて大軍の集結にはもってこいだそうだ。問題は城郭などが無い事だそうだが、それは一緒に来た工兵隊が野戦築城で空掘、土塁、柵を作れば良いだけだ。
こんな事が出来るのは、今の世では北條家だけだろうな、長篠で信長がやったのは天正三(1575)年だから二十年近く先取りになる訳だ。それに確か設楽原の戦闘正面が(2km)ほどだったから三分の一程の戦闘正面になるから、それだけ火器密度を上げることが出来るな。
そんな中、氏康殿、参謀とも言える清水殿の提案で別働隊を編成し繞回進撃をさせて後方の田村勢を攻撃し返す刀で岩城伊達連合軍の背後から急襲するという作戦が出された。
んー、下手な兵力の分割は各個撃破の恐れがあるんだが、氏康殿の話だと、川越夜戦の経験と今回連れてきている兵たちが、家臣団がそれぞれ連れてきている練度も装備もバラバラな兵じゃ無くて、俺が京都へ行く前に青写真を描き留守中に幻庵爺さんたちが箱根駅伝の様に先ず足腰を鍛えるために箱根路を走らせまくり、その後、猛訓練させたベテラン兵だからなんだろうな。ただ問題はこの付近の地理把握が今ひとつだと言う事。
その事は、俺だけじゃ無く、氏康殿自身も指摘していたが、葉に看病されながら話を聞いていた義昭殿が『良い策ですな、うちから付近に詳しい者を付けましょう』と、今宮殿配下の修験者が迂回路を案内する事で計画が決定した。
但し、氏康殿と清水殿、山角殿は本陣から動けないので、別働隊の指揮官は足軽衆を率いる不正規戦の名手、大藤秀信殿に決定した。大藤殿は武田晴信がその才能を恐れて謀殺したと噂される大藤金石斎殿の跡継ぎで、荒くれ者揃いの足軽衆を率いて各戦場で活躍しているので、まさに今回の様な作戦にはバッチグーな人事で安心だ。
ただ問題は別働隊に俺と孫太郎殿まで指揮官として参加する事だ。確かにこの非常時ではベテラン指揮官を一番近い江戸や河越から呼ぶことも時間的に無理だから、仕方が無いが、孫太郎殿はいざ知らず俺は実戦経験は無いから、氏康殿の元で戦闘指揮をするなら何とか出来るだろうが、独立部隊の指揮官としては未知数で、自分としてもどうなるか不安だ。
兵は、鎗八百、弓二百、鉄炮一千、工兵一千、輜重一千の四千、役職は、大藤殿が指揮官兼足軽衆の統率、俺が参謀兼鉄炮隊指揮、孫太郎が長柄衆の指揮という結果に、そして俺は、出撃準備のために、孫六たちに仔細を指示しに行くことに成った訳だ。
永禄元(1558)年八月十二日
■常陸国那珂郡太田城 雑賀孫六
「へっ面白くなってきたぜ」
三田殿が持ってきた話を聞いた連中は多かれ少なかれ不敵な笑みを浮かべていやがる。
「若、腕が鳴りますな」
親父からのお目付役の爺さんまで興奮しているのか顔が紅潮しているのが判るぜ。
「ああ、雑賀衆の力を見せてやるぜ。野郎共合戦だ!」
「「「「「「「「「「応!」」」」」」」」」」
永禄元(1558)年八月十二日
■常陸国那珂郡下深萩 三田康秀
太田城で戦力集結を終えた佐竹北條連合軍は十二日中には想定戦場の下深萩へ到着し、早速工兵隊が野戦築城をはじめた。それまでは仮の本陣として地元の雷神社を接収して使うとの事。
で、我々別働隊はここから東の山へ分け入り修験者の使う尾根道を四十里(26km)ほど迂回して小里の北東の妙見山で麓へ降りる道を使う事になっている。
此処まで来ると夜間ながら詳しい敵の情報がジャンジャン入って来て戦場らしい緊張感が漂いはじめている。伊達勢は当主伊達晴宗、嫡男輝宗、中野宗時、牧野久仲、石母田光頼、桑折景長、鬼庭良直、白石宗綱とかで、兵力は一万三千ほど。
一杯武将の名前を聞いたが伊達親子以外で良く知っているのは鬼庭だけだぞ、確か後に左月斎と称して人取橋の戦いで討ち死にするんだよな。後の伊達政宗の乳母の喜多さんの親父だよな。大河じゃ長さんが演じていたのが印象的だったからな。
岩城勢は、当主岩城重隆、養嫡男親隆、猪狩、大塚、上遠野、駒木根、白土、鯨岡とか知らない連中ばかりで兵力は三千ほど、まあ岩城氏はドマイナーだからな。家系的に言えば常陸平氏の出で鎌倉以前は奥州藤原氏とも婚姻関係があったらしいが良くは知らないし、今は関係無いからな。
まあ、重隆の娘久保姫を伊達晴宗が奪って嫁にした話は知っているし、跡継ぎがいなくなった重隆が久保姫の長男親隆を養子にしたんだが、その結果、独眼竜政宗の親父伊達輝宗が次男ながら伊達家の世継ぎに成れたんだからな。一歩間違えれば独眼竜は生まれてこなかったかも知れないわけだ。いやー歴史の面白さだね。
味方は、佐竹勢が緊急招集ながら八千を集め、現在三々五々集結中なので増えるはず。北條勢は工兵、輜重を入れて七千八百、そのうち別働隊が四千だから本陣には騎馬三百、鎗二百、弓三百、鉄炮一千、工兵一千、輜重一千の三千八百が残ることに、そうなると、伊達岩城勢一万六千、佐竹北條勢一万一千八百だが、明日の戦闘では我々には更に増援が来るので、最終的にほぼ互角になるはずだとの事。
鉄炮隊は800m弱の塹壕内に一千丁が犇めくように配置する事で、長篠の合戦の様な銃撃戦が出来るはず。ここには雑賀衆は参加せずに、北條家が独自に訓練した兵が配置される。何と言っても雑賀衆に比べて技量が落ちるから山岳急襲には向かないんだよな。
だからこそ塹壕と土塁による防御施設からの釣瓶打ちをする事に、まあ弾薬が今現在二会戦分しか無いから無駄使いは出来ないんだが、一丁につき二千発分の弾薬が準備されているが、急襲部隊は重量の関係で一会戦分千発を携行していく事に、若干不安だがそうでもしないと迅速に動けなくなるから仕方が無しに決まった。孫六たちは笑いながら『千発有れば大丈夫ですよ』と言っていたんだけど・・・・・・フラグみたいで気になるわ。
さて、行くか。大藤殿、孫太郎殿も準備万端で氏康殿と義重殿の前へ行き挨拶をし始めているんだから・・・・・・ん???
何で直虎さんが鎧櫃と鎗や弓を持っているんだ?
「祐子さん、何をしているんですか?」
そう俺が言ったら、直虎さんはニヤリと笑って言いやがった!
「何って、旦那と共に戦いに行くのさ」
「何だって!」
「もう既に左中将様から許可を受けたからな」
「あんだって!」
直虎さん、破天荒すぎだよ。
「まあ、妙の為に生きて帰らにゃいけないからね。確り行こうかね」
直虎さんー!!
あーどうなるんだよ。ピクニックじゃ無いんだから。
けど、実際的には直虎さんは俺より遙かに強いんだよな。
あーあー行くしか無いのかよ。
「判ったよ。お互い頑張ろう」
「だな」
前回の百一話は何れ修正いたしますのでお待ち下さい。
感想返しは暫しお待ち下さい。