第百話 佐竹家との盟
大変お待たせしました。
今回10000文字オーバーです。
父親の微妙な表情の意味を増補しました。
永禄元(1558)年八月十日
■常陸国那珂郡太田 三田康秀
思えば遠くへ来たもんだ。あっ! これは以前も言ったよな。
それにしても小田原と比べると、ザ旧式と言える城だよな。この時代佐竹家は未だに水戸城を手に入れていないから居城は常陸太田の太田城なんだよな。で、太田と言えば水戸黄門の隠居地なんだが史実でも百五十年ぐらい後の話だから、西山荘は影も形もない訳だ。
それにしても、佐竹家からの招待に俺や直虎さんの名前まであるとは、公方に啖呵切った事が原因らしいが、佐竹側にどれだけ買い被られているのやら不安な感じだ。確かに、鎌倉上陸作戦で正木大膳を打ち倒した孫太郎殿や女なのに八面六臂の働きをした直虎さんは尚武の気質がある佐竹家の興味を引くだろうが、俺は只単に太刀突きつけられただけだぞ、まあ確かにそれによって北條家の重宝である鬼丸を奪還したんだが・・・・・・
しかーし自分が使うわけ無いじゃないか、だって、鬼丸なんか俺が持っていたら何処ぞの馬鹿が『主家を乗っ取るつもりか』とか言ってくるから。しかも同じ平氏でも三田は良将流、北條家は国香流だから、将門公の祟りが怖いんだよ。
何たって、ここんとこズーッと水無瀬様こと後鳥羽上皇、相馬小太郎こと将門公を出汁にして都で無茶やりまくった訳だから、時間が出来たら柴崎村の首塚(東京都千代田区大手町)と国王神社(茨城県坂東市)へお参りに行きたいな。ズッと忙しくてなかなか動けないから、常陸からの帰りに寄るように出来ないかな。
まあ、実際の所は、祟りや突き上げだけじゃ無く、鬼丸自体が刃長二尺五寸八分(約78.2cm)も有るから、この時代では高身長の俺でも長すぎるぐらいで、普段差しに使える物じゃねー! かといって、近代じゃ皇室御物になっている鬼丸を磨上するなんてとんでもない。
だから鬼丸は氏康殿に献上した。結果として現在は氏康殿の腰に見事な状態で佩用されている、いやはや映える映える、超格好いいよ。
まあ、献上する際にもすったもんだが有ったんだがな。
氏康殿が『長四郎が命をかけて勝ち取った物であるから受け取れぬ』と言い出して、評定衆が息を呑むわ。
幻庵爺さんが『そうは言っても、長四郎も北條家重宝を預かるは辛かろう。御本城様も意地を張らずにお受け取り為され』と助け船を出してくれた。
それを聞いた氏康殿が『幻庵老、そう言ってものう』と言うと幻庵爺さんがとんでもない事を言いやがった。『それならば、代わりに一文字をやれば良いでは無いか』と。
氏康殿は『そうか』と、言うと小姓に命じて一振りの太刀を持ってこさせて、俺に鬼丸の代わりに下賜すると言う事なんだが、確かに一文字の太刀は欲しいけど、宿老連中が血相変え始めたんでなんかやな予感がしたら、案の定『長四郎、そなたが北條家の重宝鬼丸国綱を持ち帰ってくれた事嬉しく思う。代わりと言っては何だが、早雲様が日光二荒山神社より賜った一文字の太刀を与えよう』
はっ! って思ったよ。日光一文字と言えば後北條家の重宝じゃ無いか、そんな重宝貰ったらえらい事になるだろうが! って驚き顔をして断った。
その結果『鬼丸と一文字の代わりとは為らないが、これを』とこれも北條家伝来の備前長義の太刀を貰う事になったんだが、話を聞いたら、これって有名な山姥切だと判明、名前の由来は昔信州戸隠山中で山姥なる化物を退治したことに由来するらしいが、何処まで本当かは判らない。まあ盗賊の類を退治したのが大げさに伝えられたと想像する。
しかし、備前長義と言えば正宗十傑の一人と言われる人材、その中でも山姥切は有名作だ、本来なら天正時代に北條家から足利城城主長尾顕長に贈ったんだが、そうならないで俺の所に来ることに、元々叛服常ない外様国衆に与える刀だから、そこまで家宝と言う訳でも無いし、流石に三度まで断ると失礼に当たるので、歴史的に大丈夫だよなと受け取った。
太刀自体は相伝備前の典型で肉厚で切っ先も長いので結構良い感じで豪快だ。だが、流石に刃長が二尺七寸(81.81cm)もあり超長いので、とてもじゃないがそのままでは使えないので、磨上するかもしれないが、するとしても時間が掛かるので、暫くは倉の肥やしになる事決定、まあ偶には出して手入れするんだがね。
その結果、俺が差しているのは関の孫六こと、二代目孫六兼元の作だ。二代目は二十年前の天文七(1538)年までは作刀していたし、この時代は未だ未だ超有名というわけでも無かった。そのうえ美濃国関には息子の三代目兼元も健在だったから、初代の作を併せて結構な数を手に入れられたんだ。
まあ、それらからシックリくるのを選んで拵えを作るまでに仕事の合間をぬっていたからかなり時間が掛かったが、見事なバランス感覚で作られた拵えは完璧だよ。これで居合いもやりやすくなったぜ。
まあ、それはさておいて、佐竹家からの招待を受ける形で、準備に一ヶ月かけて小田原を出立したのは八月になってからだった。
小田原からは氏康殿、評定衆で氏康殿の参謀とも言われる清水太郎左衛門尉康英殿、同じく評定衆の山角康定殿、北条氏の一門衆で有職故実や年中行事に精通している伊勢貞運殿、護衛の諸隊、足軽衆を率いる大藤秀信殿の他に、宮様守護のために鎌倉北條家を創設した平三郎(北條氏照)が宮様の代理という形で参加している。
その他に、佐竹側から招待を受けた俺と、直虎さん、松田孫太郎殿が、それ以外には風魔小太郎が率いる風魔衆がつかず離れず護衛している。それに各家お付きの市女笠姿の侍女連中が、うちも千代女と美鈴が手の者である侍女を連れて参加、更に葉が直虎さんの侍女として参加しているので、家に残っているのは妙と沙代に久とかだけなので『暫くは小田原城で過ごすように』と氏康殿から薦められたので『家をお守りします』と言う妙を説得して城に入って貰った。
妙も最初は一緒に行きたがったが、直虎さんが招待されていて、未だ八ヶ月しか経っていない沙代を長旅に連れて行くことが出来ないので、育児をして貰うことになった。無論直虎さんが説得したから話が進んだんだよな。俺じゃ泣かれたらオロオロしちゃうからな。
まあ、御母上、姉上、妹御もいらっしゃるから平気だと思うし、育児経験者の久さんもいるし、沙代の乳母もいるから大丈夫だよ。何と言っても沙代の乳母は刑部の長女で俺も良く知っているお吉だからな。
お吉は俺の二歳上で今年十八歳、既に弘治三(1557)年早々に結婚して弘治三(1557)年十一月に第一子を生んでいるからバッチグーなタイミングだったんだよな。
旦那は俺が所領を増やした弘治二年頃から勝沼の本家から三々五々俺を頼ってやって来た実家家臣の次男三男四男で、俺の幼なじみ連中から、刑部がこれぞと選んだ男で、三田家宿老で成木(青梅市成木)領主宮寺四郎左衛門の次男与八郎だ。彼は闘将タイプと言うよりは智将タイプの人材だった。
尤も、今は未だ未だ教育中だからそれほど実戦力には為らないが、多少なりとも仕事を割り振ることが出来る様になって有りがたかった。
そんなこんなで、妙と沙代を残して出発することになったのだが、隊列は、まるで織田信長が斎藤道三と正徳寺で会合したときのように、立派な行列で進むことに、これは佐竹を信用していないわけじゃなく当主が行くわけだから念には念を入れる形にしないと、宿老連中が納得しないからだ。
その為に、騎馬二百騎、鎗一千、弓五百張、鉄炮二千丁、工兵二千、旗持ち百、輜重二千、総計七千八百と言う話し合いに行くのか戦争しに行くのか判らない状態に・・・・・・
この行列は佐竹側から来た、岡本殿も納得の上なので、極々普通なのか?
まあ、俺がツベコベ言っても仕方が無かったので、極力考えないことにして、何故か指揮を任された雑賀衆と職業軍人と言える給料制の鉄炮隊を纏め上げる仕事まで振り分けられたので、常陸へ進む間は、馬上でも書類と睨めっこで、景色を見る暇もありゃしなかった。
そんな感じで、自分じゃ馬のコントロールがままならないので、馬は暫く青梅の喜助の元へお土産待たせて帰していた喜八が元気に牽いている。喜八は鈴鹿峠で俺を護ってくれたから、士分に取りたてたいんだが、本人曰く『恐れ多い事ですし、人を殺すのは怖いですから』とこのまま小者でいさせて下さいと言うから、無理強いも出来ないので、褒美を多く渡しておいたんだ。
俺の隣では直虎さんが見事なまでに馬を乗りこなしている為に、喜八と共に青梅時代から勤めてくれている小者の甚平は手持ち無沙汰で直虎さんに付いて行っている。
千代女は初めて会った頃のような若侍姿で騎乗して凛々しく見える。
逆に美鈴は煌びやかな着物姿にも関わらず騎乗しているので目立つ目立つ。本人曰く『綺麗な花には虫が寄ってくるので囮ですよ』とのことだ。
それ聞いて『出来れば無茶はして欲しくないんだよな。俺の場合、奥さんは大事にしたいから』って言ったら、あの美鈴が顔を真っ赤にして照れまくったんだからな。まあその後で皆に冷やかされて汗だくになったんだが、その夜が五人で凄い事になって別の意味で汗だくになったんだが・・・・・・
朝起きてヘロヘロの姿を見た久がクスリと笑いながら『昨晩はお楽しみでしたね』って某ゲームの宿屋主人の様な台詞を喋ったのには驚いたが、から笑いしか出来なかったよな。
昼間にボソッと『このままだと、搾り取られて煙も出なくなる』と独り言を言っていたら、夜になって八味地黄丸と牛車腎気丸を美鈴が持って来やがった。
毎晩毎晩のお誘いに嫌だと言えない自分が何とも言えないんだよな。少しは控えんと死ねそうなんだが、何故かギンギンで5P大丈夫という凄さに、八味地黄丸と牛車腎気丸の事も有るし、甲賀衆は薬のエキスパートだから、精力剤を作っているのではと想像するが、美鈴も千代女も言葉を濁すし、妙も直虎さんも笑うだけなので、悪いものではないことは確かだろう。
そう言えば、松永弾正から貰ったハウツー本や曲直瀬道三殿から貰った医薬書、それに俺が書いた医食同源本を美鈴が食い入る様に読んでいたが、それか、食事も栄養バランスの取れた物だし、最近四人のテクニックがハウツー本に似ているんだよな。完全にベビーラッシュまっしぐらだな。まあ子供は可愛いから幾らでも欲しいけどな、流石に四人以上は身が持たないからノーサンキューだけどね。
まあ、これから行く佐竹では嫁取りとかは無いだろう、何たって、佐竹の長男徳寿丸、所謂鬼義重には林ちゃんが嫁に行く予定だからな。それ以外には有り得んことだ。
自分の家庭生活を考えても仕方が無いので、先日小田原から出立すると、コンクリート橋実験のため架橋された井細田大橋を渡り、酒匂川の船橋から対岸に進むと、北上して大山街道、21世紀で言えば国道246号線へ向かう為に国道255号線のルートで松田へ、ここから246のルートで厚木まで行き、ここから国道129号線で、相模川の渡し場で経済の十字路である当麻で一泊、ここで一日七十里(45km)の行程という強行軍で行くことに、まあ、この辺りは基本的に安全圏なので夜はグッスリ眠れるので七十里という事が出来る訳で、外地に行くに従い速度は減るわけだ。
二日目は、早朝から相模川を渡河して北上し上溝、淵野辺、野津田、から鎌倉街道ルートで小野路を越えて関戸の渡しで多摩川を越え三十二里(21km)で府中の高安寺へ到着、ここは新田義貞、足利尊氏時代から北へ向かう軍勢の大規模駐屯地として足利家、管領上杉家、北條家が使い続けている大伽藍だ。
本来なら、更に先まで進むんだが、この寺で今後の道中安全を願い護摩を焚くのと付近一帯の諸将や国衆が氏康殿に挨拶に来るのでここで一泊する事になっていた。
高安寺は府中の中心にあるし、大國魂神社の門前町でもあるから結構栄えていて、兵たちも羽を伸ばしている状態だった。
まあ、氏康殿たちは、やって来る家臣や国衆の連中からの挨拶に忙しいんだが、俺は俺で、勝沼から出てきた親父たちと久しぶりの再会に話に花が咲いた。
何と言っても、親父と十五郎兄とは結婚式以来、二年ぶりで懐かしいが、下の兄貴たちとは天文二十(1551)年以来だから実に七年ぶりだ。それに勝沼時代から没交渉だったし懐かしいと言うよりは、遠くの親戚と会ったかのような感覚だった。
それで、最初に親父と話したが、母上を連れて来られなかった事を謝られた。けど多くの国衆や家臣団が集まる中に妾を連れて来られない事ぐらい、判っているんだけどな、其れだけじゃなく下の兄貴たちを見ながら微妙な表情をしていたのも気になった。
十五郎兄は相変わらず気さくなんだが、虚弱体質は直っていないようで、宴の最中でも咳き込んでいた。あまり酷いと結核かも知れないと心配だから、仙如湯とか色々な薬を贈る事にして、留守番の刑部に手紙を書いて差配を頼んだ。これで養生して良くなってくださいと願ったよ。
それにしても喜蔵兄さん、五郎太郎兄さんは凄かったな。子供の頃はあまり接点が無かったから、性格とか知らなかったんだけど、会うなり喜蔵兄は『長四郎の活躍のお蔭で河越の戦い以来、没収されていた日陰谷を含む三田家の所領一千貫文が御本城様から返還された。これほど目出度いことは無い』と感謝された。
五郎太郎兄には『長四郎のお蔭で母上の実家、難波田家を継ぐ事が許された上に、難波田の城を含む五百貫の地を新地として受け取ることが出来た。それに御本城様より偏諱を頂け康重と名乗ることになった。これほど嬉しい事は無いぞ、ありがとうありがとう』と言われて恥ずかしかった。
恥ずかしがっていたら、兄貴たちが笑顔で俺を散々褒め称えて、更に恥ずかしくなった。その後で、嫁たちを紹介したら、兄貴たちに散々羨ましがられたが、終始和気藹々だったんだ。兄貴たちのテンションの高さで、周りから浮きまくっていたのが、この事が親父の微妙な表情の意味だったんだと判った。確かにあれは恥ずかしいよな。まあ兄貴たちも所領が増えて別家を立てられたからなんだろうな。
その夜は遅くまで宴が有り三日目は多くが二日酔いの状態で集まった人達の見送りの中、東へ向かい四十二里(27km)で江戸城へ到着。着いたら二日酔いの連中は殆どがげっそりしていた。まあここまでは二日酔いも許されるが、江戸城を出れば何時敵が来るか判らないからこれ以降は酒も少ししか出さないので仕方が無いと言えるんだよな。
江戸でも本丸城代富永直勝殿、二の丸城代遠山綱景殿、三の丸城代太田康資殿らが出迎えてくれた。ここでは明日以降の道中で疲れないようにと軽い宴が開かれてた。
その際に、太田道灌直系子孫に当たる康資殿を観察したのだが、史実のように江戸城を取り返したいのか、相当鬱積した事が有るようで、終始作り笑いをしていることが見受けられたが、富永殿、遠山殿は遠山殿の娘婿だからと安心しているようで、些か心配だったため、平三郎から氏康殿へ康資殿の身辺を甲賀衆に探らせる許可を受けて千代女に頼んだ。
何故かと言うと、風魔では万が一知られた場合を考えた次第で、千代女曰く『遠からず甲賀から潜入工作の熟練者が来るだろう』との事、流石は全国ネットの派遣業と言える伊賀甲賀だよな。
宴の後は、俺が流行らせたお湯に入る風呂が焚かれ皆が入浴してから早めの就寝をした。無論疲れを残しちゃいけないので、この日は昨日と違って同衾はしなかったので、翌朝は久しぶりに腰の虚脱感が無くて良かったが、それを見る嫁連中の目が獲物を狙う虎狼の様で怖かった。
四日目に成り、いよいよ叛服常無し太田資正の居城岩付を掠めるルートで一気に五十三里(34km)進み、金野井城(野田市東金野井)まで行った。そこで佐竹家との交流に多大なる功績を挙げ苦労してくれ、佐竹家との会談にも古河公方側の代表者として同行する古河公方足利家家宰、関宿城主簗田晴助殿と合流した。
金野井では、先日古河公方になったばかりの足利藤氏殿までが態々古河御所から来て、笑顔で迎えてくれたのが印象的だった。何と言ってもつい数ヶ月前までは不倶戴天の敵と言って憚らなかった氏康殿と笑顔で談笑しているのだから。軽い人だという印象だった。
その様な中で異様な雰囲気をひたすら隠し通そうとしていたのが、太田資正だった。彼の御仁は、終始笑顔で和気藹々と見えるんだが、歴史を知っている手前、如何しても胡散臭く感じた。それに俺は初めて見たんだが、時代劇に出てくる悪党に見えてどうしようも無い感じがしたが、後々考えたら藤○重慶によく似ていたからだと思い出した。
その夜は何も無く、五日目を迎えた一行は、簗田晴助殿を先頭に、金野井城を出て、常陸川(現在の利根川)の河岸である木野崎まで十五里(10km)進み、そこから簗田殿が差配した川船に乗り常陸川を一気に下る川下りへとしゃれ込んだ。
今までも道中では渡し船で川を渡ることはしていたが、川船で川を下るのは初めてなので、多くが景色を楽しみながら移動したが俺は書類と格闘していた。そのうえ新田義興が矢口の渡しで船を沈められて騙し討ちにされたことが脳裏に浮かんで、何度も小太郎に大丈夫かと確認していたので、胆が小さいと直虎さんに笑われた。
しかし、簗田殿が仕掛けなくても何処ぞの誰かが仕掛けるかも知れないので密かに全ての船を調べさせたよ。結果は異常なしで、簗田殿にも露見せずにすんだのでホッとした。
常陸川から香取海へと漕ぎ出した船は引き潮の力でグングンスピードを上げながら鹿島神宮までの百十八里を(76km)その日のうちに走破した。ここで、鹿島大宮司家からの歓待を受けた。流石に宮様と古河公方パワーは凄い事が判った。彼らにして見れば、北條、佐竹、里見とかのゴタゴタに巻き込まれてしまいたくないという意識が働くようで、力を持った宮様や、古河公方にできる限り心証を良くしようとしてしているのがいじらしかった。確かに南方三十三館が佐竹義宣に謀殺されるのだからあながち杞憂とは言えない。
それに、鹿島家はここの所内紛が続いていたからこそ権威を求めるんだろうな。当主の鹿島治時が恭しく宮様からの書状を受け取る姿が大宮司としての矜持を辛うじて示しているけどな。内情はドロドロだからな。
そう言えば、塚原卜伝殿は義理の従兄弟だそうだ。まあ今は都へ行っていて留守なんだが、そんな話をしていたら思わぬ情報が得られた。
何でも、二月に柳生兵部少輔輝宗と安国寺道有と言う老僧が卜伝殿を尋ねてきたそうだ。しかし柳生と言えばハンターチャンスじゃ無くて、大和柳生、しかし柳生兵部少輔輝宗と安国寺道有って言うのは聞いたことが無いんだがと不思議がったら、柳生兵部たちは将軍からの文を届けに来たと言ったそうだ。
となると、公方の差し金と判った。恐らく名前を考えるに、柳生の誰かを公方が臣下にして官位と偏諱を与えたんだろうと考査した。しかし柳生の連中はキリングマシーンだし、安国寺恵瓊なら知っているんだが道有なんて知らんから、相手の情報がわからないと危険と言う事で、氏康殿と話した結果、早急に人物特定をする事が決まり、都の朝氏殿に問い合わせの文を送ることにした。
この件に関して極秘と言う事で文を誰かに見られては危険と判断し、北條家の最高機密戦略暗号で送ることにした。
これは、アルファベット26文字と0~9までの数字に各々4桁の数字を各々30個割り当てて、日付ごとに任意の数字を使用して、本文をローマ字書きで作成し、そのローマ字のアルファベットを一字一字、4桁の数字に換算、それに使い捨て式の0001~9999までの乱数を加えて作る無限式暗号で、基本暗号表は大日本帝国海軍のD暗号、呂暗号、波暗号などをヒントにし、乱数方式は陸軍暗号である使い捨て式を採用した物だ。
海軍暗号は乱数表の反復使用でアメリカに暗号解読されたが、陸軍暗号は乱数表を使い捨てにした関係で殆ど解読出来なかったからな。それにこの時代ローマ字は葡萄牙人の宣教師が日本語を勉強する際に使い始めている程度。そのうえ、この暗号に使用する日本式ローマ字は1885年に開発されたので世間では全く使われていないため、余ほどの事が無い限り解読は不可能だ。
尤も、暗号に一字一字組み立てるから、面倒臭い。その点を考慮して気休めかも知れないが使用する乱数は一つの手紙に付き一つと決めてある。まあそれでも難しくてあまり使わない暗号書式だが、それだけ機密性が高いと言うことで、今回の緊急伝で使う事にしたわけだ。
しかし機密性は高いんだが、今のところ使えるのが俺を筆頭に十人しか居ないのが欠点ではあるが。その貴重な人材を池邸に二人も配置しているんだから、史実と違い北條家の都における情報収集力の強化は確実に進んでいる。
柳生の関係でローマ字での文章作成と暗号作成に徹夜した六日目は鹿島から鉾田まで三十七里(24km)を船で北浦を北上するんで二刻(4時間)ほどは景色も見ないで直虎さんの膝枕で爆睡していた。
鉾田に辰の刻半(午前9時)に着いて、小休止の後出発したが、ここでも眠いので喜八が引く馬でウツラウツラしながら進んでいった。
四十二里(27km)進んで今日は水戸で一泊。水戸城主の江戸忠通は一応佐竹家の支配下に有るが、幾度となく佐竹家と戦ったので、安心出来ない。それを見越してか佐竹側から佐竹東家の佐竹義堅殿が三千ほどの兵を率いて迎えてくれた。
ここでも宴が開かれたが、氏康殿と義堅殿は親しく話すんだが、忠通殿は考え込んでいるようだった。
仕方が無いので俺が話をすると、子息の通政殿が病弱で色々手を尽くしているが手が無いという事なので、仙如湯とか色々な薬を実家と同じ様に後で贈る事にし、取りあえず見本で持っていた仙如湯を寄贈したら、殊の外喜んでいたな。
七日目の早朝から水戸を出発し、那珂川と久慈川を渡るといよいよ常陸太田へ昼頃に到着。佐竹家の居城太田城の城下では佐竹側の将兵が思い思いの鎧姿でお出迎え。端から見たら戦をし始めるようにも見えるが、歓声が聞こえるので安心して大丈夫。
しかし、七日間も掛かるとは大変だよな、21世紀なら小田原厚木道路→東名高速→首都高→常磐道で三時間ほどなのに、時代だよな。
永禄元(1558)年八月十日夕方
■常陸国那珂郡太田城 三田康秀
佐竹家当主義昭殿と嫡男徳寿丸殿を筆頭に重臣連中のお出迎えから昼餉をご馳走になって、埃まみれの体を湯で流してさっぱりした。そして、早速会談を開始。本来なら宴を開くことになるんだろうが、此方も相手も、初顔合わせなので、疲れているから後でとは言えないんだよ。
最初に、氏康殿と義昭殿が慇懃に挨拶し、順次参加者の挨拶が続くんだが、俺や直虎さん、孫太郎を見る佐竹側の興味津々な目が何とも言えない感覚だ。
しかし、佐竹義昭殿は息子義重に隠れて目立たない存在だが、数多の戦に勝利し、常陸統一一歩手前まで行ったが永禄八(1565)年に三十五歳で急死したんだよな。病弱だったという話もあるんだが、見る限り健康そうなんだよな。ただ時たま頭痛がするようで頭を押さえている・・・・・・
突然義昭殿が咳き込んでおう吐したぞ。義堅殿が慌てて介抱してから、義昭殿が『申し訳ない』と言って顔を上げたが・・・・・・ 一寸待て、顔に紅斑が出ているぞ。確か佐竹義昭は毒殺されたという噂があったが、まさか?
こうなると放置してはおけないな。
永禄元(1558)年八月十日夕方
■常陸国那珂郡太田城 佐竹徳寿丸
北條殿との会談の最中、いきなり父上が咳き込むとおう吐し始めた。義堅が慌てて介抱するが、暫くすると父上が北條殿に不作法を謝っていたが、その直後に公方様に啖呵を切った三田殿の話に場が静まった。
「申し訳ございません。佐竹殿、最近、激しい嘔吐、下痢、腹痛、頭痛、脱力、顔のむくみ、目の充血、口の渇き、脱毛、麻痺、目のただれ、けいれんなどが続いておりませんか?」
確かに、最近の父上は下痢が続いたりしていたが、それが何かと思った。
「うむ、確かにその様な事は数年前から続いておるが、それが何か?」
父上の答えに三田殿が徐に銀貨を取り出すとそれを父上がおう吐した物に漬けた。
最初は何だと思ったが、漬けた銀貨の輝きが見る見るうちにどす黒くなって行った。
「これは!?」
「三田殿、なにが?」
「佐竹殿、銀はヒ素に反応致します」
ヒ素の言葉に場が騒ぎ出した。まさか父上が毒飼されていたとは、調子の悪さも納得出来るが、いったい誰が!
「ヒ素ですと!」
「ヒ素とは」
「三田殿、まさか毒を盛られていたとは・・・・・・」
普段強い父上が悔しそうな顔で三田殿に確認した。
北條殿も驚き、父上を見舞う。
「佐竹殿、直ぐに養生を」
そんな言葉を遮り父上が北條殿に話しかけた。
「北條殿、自分の体はよう判り申す。このまま行けば数年の寿命でしょうな。出来れば我が子徳寿丸の後見として佐竹の家を護って頂けないでしょうか」
「父上・・・・・・」
「佐竹殿・・・・・・」
北條殿も宿老も皆が驚く中、三田殿が再度話し始めた。
「佐竹殿、そう悲観することもありません。確実に治るとは限りませんが治療法はあります」
治療法だと、ヒ素なんぞに治療出来るわけがないだろう!!
「三田殿、ぬか喜びをさせないで頂きたい」
「いえ、天竺ではヒ素を盛られた際に大蒜(ニンニク)の絞り汁や切った物を毎日食せば体の中のヒ素が四割も減るそうですぞ」
「なっ」
天竺なら確かに有りそうな話だ。
この後、直ぐに父上に大蒜を食べて貰い、三田殿の指示で皆の尿を集め、磨いた銀を漬けたところ、幾人もがヒ素を盛られているのが判り、直ぐさま台所方を調べさせたが、何たる事か母上が引き連れてきた台所役がヒ素を盛っていた事が判明した。
母上は、岩城の出、岩城は佐竹とは幾度となく戦いながら、大伯母上が嫁ぎ、今は母上が嫁いできて安定していると思っていたが、まさか重隆爺が仕組んで母上が指図していたのかも知れないと判り愕然とした。母上は今、岩城から来た者たちと共に監視下にある。
しかし幾ら乱世とは言え搦め手から来たとは許せん事だ! 考えてみるとお爺(義篤)の突然の死も岩城への援軍の際だった。これはもしやしてあり得る事だ・・・・・・・
この日は、この騒動で終わったが、三田殿が指摘してくれなければ大変な事になっていただろう、感謝してもし足りない。何れは何か礼をしなければ成らないだろう。
永禄元(1558)年八月十一日
■常陸国那珂郡太田城 佐竹徳寿丸
翌日に成り、父上の調子も多少は良くなり、北條殿と三田殿に仔細を説明し礼をしている最中、急使が到着した。内容は山入の乱の際に佐竹から岩城の手に落ち、数年前に奪還した小里城を岩城、伊達などの南陸奥の諸将が攻めかかり、一部部隊が太田へ向かっていると。
その知らせを聞いた父上は、どす黒い顔を上げた。
「ハハハハ、俺の死を願って仕掛けて来たか、受けてたとうぞ! 者ども戦の支度じゃ!」
「御屋形様、無茶でございます」
「左様、ここは籠城し時を稼ぐべきかと」
義廉、義里が父上を止めるが父上は聞かない。
「又七郎、次郎左衛門、敵は岩城だけでは無く伊達もいる、儂が行かねば勝てる戦も勝てぬ。それにこのまま行けば無辜の民が蹂躙されるであろうが」
「しかし」
父上は何とかしようとしているが体がふらついているのが判る。このまま父上を行かせる訳には・・・・・・
その時、ジッと聴いていた北條殿が発言した。
「佐竹殿、迎撃の指揮、それがしに任せて頂けないだろうか?」
北條殿にしてみれば我が家が弱い方が良いはずなのに何故に・・・・・・
「北條殿、何故ですかな?」
父上も疑問に思ったようだな。
「義を見てせざるは勇無き成りと申しますか、林と西堂丸を大事にして頂いたと言う事かもしれませんな」
ニヤリと笑う氏康殿の顔に思わず惚れ込んだ。
「宜しいのか?」
「無論、ただし徳寿丸殿に総大将と成って頂きますが」
俺か?
「北條殿、徳寿丸様は未だ十二歳にございます。総大将など無理にございます」
義里大叔父が諫めるが、俺とて佐竹の男、覚悟は出来ておるぞ!
「フフフ、北條殿、徳寿丸はいけますかな?」
「無論、徳寿丸殿であれば坂東一の大将となれましょう」
百戦錬磨の氏康殿に認められるとは武士として冥利に尽きると思い嬉しい事だ。
暫し、宿老と父上の話が行われたが、結果俺が総大将として敵を迎撃する事になった。
そして、俺はこの場で元服し佐竹徳寿丸から佐竹次郎義重と名乗ることになった。
それと同時に、佐竹と北條の盟約が結ばれ、林が俺に嫁ぐ事になった。
んーーーー、林が俺の妻・・・・・・妻・・・・・・か・・・・・・勝手に決めて殴られないか、俺?
皆様のお蔭をもって百話五十万文字達成しました。
単行本三巻増版出来しました。
今後もよろしくお願いいたします。