我輩は犬である。
我輩は犬である。
名前はルル。これは飼い主の婆さんがつけた。
人間の言葉はよくわからんが響きからすると、雄らしい強く逞しい名前に違いない。
我輩の一日は、婆さんを散歩に連れ出すことから始まる。
首輪をくわえて枕元へ持って居間に行くと、そこで婆さんが寝ている。
『おい起きろ。婆さん散歩の時間だ』
「おはようさんルル。おまえはいつも元気だねえ」
『散歩だよ。さあ連れてってやるから支度しろよ』
我輩が急かしてやるのに婆さんはなかなか布団から起きてこようとしない。
「ごめんねえ婆ちゃん風邪ひいたみたいなんだよ。ごめんねえ」
『なでなでじゃねえよ。散歩だよ。怠けやがって。もういい置いていくからな』
布団のなかの婆さんを見捨てると、我輩は一人で遊びに行くことにした。
最近の婆さんは年のせいか散歩をよくサボった。
どうも婆さんの様子がおかしい。蒲団からなかなか出てこようとしないのだ。
だからといって困るようなことは殆どあるわけでもなく、飯だけ貰えるならそれでよかった。
我輩はいつものように皿を咥えて枕元へ持っていく。
『飯の時間だ。飯おくれ。飯』
「ああもうそんな時間かい。ごめんね」
『いつものネコマンマをくれよ。あれは不味いけど腹減ってるから食ってやるよ』
婆さんはのっそりと蒲団を抜け出すと、よろよろと動き出した。
だが台所へと向かおうとせずに近くにある箪笥の前まで立ち止まる。手を伸ばして上においてある何かを持ってくる。
「ごめんねえ。今日も手抜きをさせてもらうねえ」
婆さんは四角い箱を持ってくると、その中に入っているものを皿のなかへと注いだ。
ドックフードとかいう食べ物だった。
「ネコマンマじゃなくて。ごめんねえ。元気になったらまた作るからねえ」
そういえばここ最近このドックフードが続いている気がする。そんなことを思ったがネコマンマなんかよりもずっとうまかったので我輩は気にしなかった
婆さんはろくに動かない日々を続けたがそれでも日課だけはこなしていた。
夜になると蒲団を抜け出し、ちゃぶ台の前にやってくる。そして紙を置くと、それに向かってペンとかいう小さな棒の先を殴りつけるのだ。
手紙というものを作っているのだ。そいつは人間の使うもうひとつの言語らしい。
婆さんは遠くで暮らしているらしい子供に向けて手紙をこしらえている。 内容はたぶん「元気ですか」とか「私は元気にしてます」とかそんなものだと思う。
普通この手紙というものはポストとかいう道端でよく見かける赤い箱のなかに入れて初めて意味があるもんらしい。
けれどもこの婆さんは変わっていてそうしなかった。書くだけ書くと満足して、箪笥の引き出しのなかへしまってしまうのだ。
何故かは知らない。きっと馬鹿だからポストのことを知らないのだろうと我輩は思っている。だから引き出しのなかは溢れんばかりの手紙で埋まっていた。
あくる日もまたあくる日も食事はドックフードが続いていた。
こいつは確かにうまかったが毎日食っているとさすがに飽きがくる。たまにはあのくそ不味いネコマンマが食べたかった。
『なあ婆さんいい加減起きてくれ』
その日、我輩が枕元へ皿を持っていっても婆さんはなかなか起きてこようとしなかった。
それどことか返事をしようともしなかった。代わりに弱々しく「ごめんねえ」と呻いただけ。
腹を空かしていた我輩は仕方なく枕元で伏せ、起き上がってくるのを待つことにした。
きっといつものように手紙の時間には起きてくるだろうから、その時に催促してやろうと思っていた。
――いつのまにか寝ていたらしい。か細い声が聞こえて我輩は目を醒ました。
見ると、蒲団のなかで婆さんが何事かを繰り返している。
「平気だよう。大丈夫だよう」
寝言だ。何を言っているのかは分からないけれどどうもうなされている様子だった。
手紙の時間はとっくに過ぎている。たぶん今日はもう起きてこないのだろう。
「心配しなくていいよう。一人でもちゃんと暮らしていけるよう。寂しくないよう」
おそらく話し相手は夢のなかの自分の子供だ。婆さんの顔は今にも泣き出しそうな表情だった。
『なあ婆さん』
我輩は思わず婆さんに話しかけていた。
『手紙をこしらえているあんたを見ていると言葉が通じる者同士ですら通じ合えないときがあるんだなと思うことがある。
だから別々の生き物で言葉の違うおれとあんたではどれだけ話しかけようが通じ合えることなんてほとんどないのだろう。
けどな婆さん。あんたが今何を求めているのか何となくだが分かる気がするんだ。所詮犬でしかない我輩にあんたの欲しいものをくれてやることはできないが、寄り添うくらいはいいだろう?』
我輩はそれだけ言うと、そっと蒲団へ潜り込んでばあさんのすぐ傍で四肢を折りたたんだ。
蒲団のなかはすこしも温かくなかったがそれでも一匹と一人がくっつけばいくらかはマシになる気がした。
暫くして婆さんはうわ言を繰り返すのを止め、嗚咽を漏らすようになっていた。
「ありがとねえ、ありがとねえ。迷惑かけてごめんねえ。ありがとねえ」
それは感謝の響きを含んだ言葉のように聞こえた。
おそらくは遠くで暮らしている子供たちに迎えに来てもらった夢でも見ているに違いない。
その顔がとても幸せそうだった。
三日後、婆さんはとうとう冷たくなったまま動かなくなった。
婆さんの家に、見たこともない黒服の人間たちがぞろぞろと集まって、葬式というやつを始めだす頃になると、我輩はうっとおしくなってそっとその場を立ち去ることにした。
我輩は犬だがら哀しいという感情がわからない。
誰かが死んだところで泣いたりすることができない。
人間のように死骸にすがって浸るような習慣も感傷もない。
ただ――
『なあ婆さん。最後にあの不味いネコマンマが食いたかったよ』
それだけが唯一の心残りだった。