挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
ブックマークする場合はログインしてください。

ラノベ作家を夢見る中三女子が異世界転移モノを書かないと決めた理由

作者:埴輪
「いなくなってやるっ!」
 ――そう、お兄ちゃんみたいに。
 木枯らし吹き荒れる夕刻。希美のぞみは学校から帰宅するや否や、共働きで両親が不在なのをいいことに、堂々と家出の準備を進めていた。
 とはいえ、家出は初体験の希美である。ネットで何が必要なのかを検索しても、見つかるのは「家出なんてしない方がいい」というアドバイスばかり。
 ……結局、希美がボストンバッグに詰め込んだのは、愛読のラノベ、替えの服と下着、タオル、お菓子、モバイルバッテリーといった旅行に必要なものばかりであった。
 ――ただ一つ、悔しいという感情を除いて。
 学校で行われた三者面談。娘の進路のためならばと母親は仕事を抜け出し、担任は今日こそ志望校を決めようと息巻いていが、当の希美は高校なんてどこでもいいと思っていた。
 実力テストや模試の結果を踏まえ、希美に見合った学校名を提示する担任。「この学校なら推薦も……」曖昧に頷く希美を見て、担任は困ったように口を開いた。
「……希美さん、君はどうしたいのですか?」
「私はラノベ作家になりたいです!」
「いや、志望校のことです」
 希美の言葉は一瞬で流された。まるで、何事も無かったかのように。希美はそれが悔しくて悔しくて堪らなかった。……お母さんだって、ちゃんと聞こえていたはずなのに!
 ――だから。
 大きく膨らんだボストンバッグを肩に提げた途端、希美はよろめいた。そして、鏡に映った自分の姿を見て、制服のままだったことに気づく。着替えた方がいいかな……とも思ったが、家出という大事の前では服装など小事だと思い直す。それに、このまま部屋に留まると決意が揺らいでしまいそうだった。二度と戻ってこない……そう、決めたはずなのに。
 不意に、涙が出てきそうになる。いや、これは悔し涙だ。うん、きっとそうだ。
 希美はポニーテールを揺らしながら部屋を飛び出すと、玄関で革靴を履き、鍵を外してドアノブに手をかけたが、その冷たさにはっと息を呑んだ。
 ……私までいなくなったら、お父さん、お母さんはどう思うだろう?
 五年前に失踪した希美の兄、いさむ。十五歳。家出か、誘拐か、事故か、はたまた神隠しか……当時は大いに騒がれたものだが、第三者が交わす興味本位の憶測は手がかりにはならず、やがて「そんなこともあったね」と語られる過去になっていった。
 ――それでも、家族は。家族にとっては。
「いや、志望校のことです」
 希美は歯を食いしばり、ドアノブを強く握った。機械的な担任の声、申し訳なさそうな母親の顔。何かにお伺いを立てているかのような……何に? それはきっと、この世界に。
 ……夢を真面目に語れないこんな世界、私はいたくないっ!
 扉を開け放った希美は、その先で立っている人影を見て硬直した。丈の合っていない制服を窮屈そうに着込んだ青年が、どこか疲れたような表情で口を開く。
「ただいま」
「お、お帰り……お兄ちゃん」

 五年振りに帰ってきた勇がまず向かったのは、トイレだった。その間に、希美はスマホからショートメールを両親に送信。すると、母親からはすぐに折り返し電話がかかってきた。
「希美! どういうことなの? 本当なの? 勇、勇がそこにいるの?」
「ちょ、ちょっと待ってて!」
 希美は洗面台で手を洗っている勇に「お母さんから!」とスマホを差し出した。勇はタオルで手を拭いてからスマホを受け取り、ぎこちなく耳に当てる。「お母さん」「うん」「ごめん」「大丈夫」……淡々と言葉を繋ぐ兄の姿から、希美は目が離せなかった。ぼさぼさの髪。記憶よりも背が高く、がっちりとした体格だが、それが兄であることは疑いようもない。
 ややあって、通話を終えた勇からスマホを返して貰った希美は、父親からショートメールが届いていることに気づいた。
「お父さんがね、帰ったら話があるって」
「分かった」
 沈黙。希美はスマホで情報サイトを覗いてみたが、五年振りに会った兄と話すのに相応しいと思える話題は見つからなかった。……ドラマにも不倫ブームの兆し、ねぇ。
「希美」
「うぇっ?」
 勇に呼びかけられ、希美はスマホから顔を上げた。勇は大きな欠伸を一つ。
「眠いから、ちょっと寝る」
「あ、うん……おやすみなさい」
「おやすみ」
 勇は振り返って自分の部屋に向かうと、扉の奥へと姿を消した。希美も兄の部屋の隣にある自分の部屋へ入り、後ろ手に扉を閉めた途端、大きく息を吐き出した。
 ボストンバッグを肩から下ろし、「えいっ!」とベッドに投げ飛ばすと、その場にぺたりと座り込んだ。がっくりと項垂れ、胸元のリボンに手をかける。……なんか、疲れた。

 希美はベッドの上で目を覚ました。時計の針は七時を指している。いつもの時間。希美は体を起こすと、軽く首を回した。カリカリカリ……という小さな音が、机の上に置かれたノートパソコンから聞こえてくる。画面は暗いものの、電源を表すランプが点灯していた。
 ……そっか。小説の続きを書こうとして、まとまらなくて、もやもやして、ごろごろしてたら寝てしまったのだろう。部屋の電気はお母さんが消してくれたに違いない。
 希美はベッドから下りて立ち上がると、原稿データを上書き保存し、ノートパソコンの電源を落とした。そして、ふと兄が帰ってきたことを思い出し、壁に目を向ける。
 夢……じゃないよね? 希美は首を巡らせ、ベッドの脇に置かれたボストンバッグに目を留める。大きく膨らんだその姿に、希美は少なくとも家出が未遂で終わったことを実感した。
 希美のお腹がぐぅと鳴る。……そういえば、昨晩から何も食べていなかった。希美は何となく部屋から出るに出られず、一度だけトイレに行ったその帰り、冷蔵庫から天然水のペットボトルを持ち出して、ずっと部屋に閉じこもっていたのである。
 ……お父さんとお母さんはどうしたのだろう? いつも通りならもう職場に向かっている時間だけれど、長年行方不明だった息子が帰ってきたその翌日に、いつも通り仕事ができるものだろうか? ……でも、私だって学校に行かなきゃだし、昨晩お風呂に入ってないからシャワーを浴びないとだし……って、こうしちゃいられない! 希美は部屋を飛び出し、お風呂場へと向かった。
 シャワーを浴びて、歯を磨いて、髪を乾かして、制服に着替えて……希美は朝の身支度を大急ぎで整えていく。その間、希美は勇と遭遇することはなかったが、その足跡は至るところで見つかった。洗濯物入れには花柄のトランクス。洗面台にはおろしたての歯ブラシ。そして何より気になったのは、ゴミ捨て場のプラスチック容器。……間違いない、寿司の容器だ。
 もう、起こしてくれれば良かったのに……マグロ、中トロ、甘エビ、玉子……希美は恨めしそうに容器を眺めていたが、お腹が減るばかりなので、せめて水を飲んでから学校に行こうと冷蔵庫を開けた……が、天然水のペットボトルは入っていなかった。
 ……水道水でいいや。希美は流し台に向かい、そこに二つのコップとビールの空き瓶が置かれていることに気づいた。珍しいなぁ。お母さんはお酒が飲めないし、お父さんだってたまにしか……と考え、希美は勇の部屋を振り返る。そっか、もう大人なんだ。
 五年、か。希美はしみじみと水道水を飲んでいたが、はっとして制服のポケットからスマホを取り出し時間を確認。「やばっ!」コップを流し台に置き、鞄を手にして玄関へ走る。

 自転車で全力疾走した甲斐あって、希美は遅刻することなく学校に到着した。担任と同時に教室へ入ったこともあり、朝の会は落ち着かなかったが、一時間目の授業が始まると、いつも通りの学校生活が希美を待っていた。それは希美が家出未遂をしたからといって変わるものではなく、行方不明だった兄が帰ってきたからといっても変わるものではなかった。そもそも、希美に兄がいることを知っている人自体、中学校には誰もいなかった。
 勇が失踪したのは希美が小学生の時。その後、希美は学区が異なる中学校へ進学したので、小学校の友人とは疎遠になってしまった。勇の失踪によって希美の交友関係が損なわれることはなかったが、希美は見えない一線を感じていた。だから、両親から学区が異なる中学校への進学を提案された時、希美は素直に頷いたものである。
 中学生から心機一転。そんな両親の配慮が今、大いに成果を上げているのかもしれないと、希美は思う。だが、何よりも今は空腹が辛かった。朝食を摂らないのはいつものことなのだが……昨晩も食べていないのはキツかった。タイ、イカ、穴子、イクラ……ぐぅ。
 そして、待望の給食。メニューはちらし寿司。寿司違いかぁ……希美は内心複雑だったが、もうお腹に入れば何でも良いやと、ちらし寿司を掻き込む。その見事な食べっぷりは、クラスメートで親友の奈々子が、思わず目を丸くするほどであった。
「何でそんなに飢えてるのさ、希美?」
「むっむ! ……はぁ、いや、ちょっとね。昨晩から、何も食べてなくて」
「ダイエット? たった今、無意味になったぽいけど。で、どうだった? 三者面談?」
「えっ?」
「えっ? じゃないよ。希美ならさ、推薦の話も出たんじゃない?」
「あっ……それは、うん」
「やっぱり。いいなぁ、希美は頭が良くて。まず高校に推薦で入るでしょ、次は短大とか大学に入って……って、希美は可愛いから、その前に結婚しちゃうんじゃないの?」
「なーにをおっしゃる。奈々子こそ、どうだったの?」
「私? 私はまぁ、これから頑張らないとだねぇ。部活やってたツケが回ってきたかなぁ」
 奈々子は頬を指先で掻きながら、にかっと笑った。希美は小首を傾げる。
「どういうこと? 奈々子、陸上は?」
「いや~無理無理! 私のレベルじゃ駄目だって。それに、私立は学費もバカ高いからなぁ。ほら、ウチは貧乏だからさ、むしろ稼がないと。そうなると、商業かなって。頭的にもさ」
「でも、私は足で稼ぐって……」
「そう思ってたんだけどね。現実はそう甘くないっていうか。スポーツって残酷なんだよね。結果、記録ってのがドンと出ちゃうからさ。三年間、ろくな記録が出なかったしねぇ」
「……じゃあ、辞めちゃうの?」
「商業にも陸上部があったら入りたいけど、両立はきっついだろうからなぁ……」
 奈々子は腕を組み、困ったように笑った。希美は思わず口を開く。
「それでいいの?」
「よくない」奈々子は素早く、きっぱりと言い放った。「でもさ、仕方ないじゃん?」
 真剣な眼差し。だがそれも一瞬で、奈々子はいつも通りの笑顔を見せた。
「私はともかくさ、希美はなんかないの? 将来の夢とか、やりたいこととかさ?」
「私はラノベ作家になりたい!」
 ……なんて、言えるはずもない。希美は奈々子の笑顔がとても大人だと感じた。

 午後の授業もいつも通りで、終わりの会と掃除を経て、放課後となった。
 陸上部の奈々子はグラウンドへ。帰宅部の希美は自宅へ。その別れ際、自転車通学が許されているのも羨ましいと、奈々子は言った。
「なんか特別だよね、希美って」
「そんなことないって。自転車でも二十分はかかるし、雨の日なんて最悪だよ?」
「あ~あ、私もそんなこと言ってみたいなぁ……な~んて。じゃあ、また明日!」
 奈々子は手を振ると、駆け足でグラウンドへと向かう。その背中を見送ると、希美は自転車に乗ってペダルをこぎ始めた。特別なんかじゃない、そう思いながら。
 私は普通だ。ご飯を食べなきゃお腹も減るし、家出もできない普通の女の子だ。勉強だって先生に言われた通りにやっているだけで、好きでも何でもない。特別なことなんて……いや、一つだけあった。当事者ではなく関係者としてだが……それはもう、失われてしまった。
 希美はアパートの駐輪場に自転車を停め、階段を上って二階へ。鍵を開けて家の中に入る。
「おかえり」
 希美はびくっとして仰け反った。声の主は勇だった。廊下の先、ダイニングから玄関を覗き込むように顔を見せている。希美が固まっていると、勇は廊下に出てきた。ジャージ姿。
「希美?」
「た、ただいま!」
 希美は靴を脱いでスリッパに履き替えると、俯きがちに歩き出した。勇の裸足が目に入り、希美は足を止める。廊下は狭く、勇の脇を通り抜けることはできなかった。
「ここをとおりたければ、ぼくをたおしていけ!」
 ……小さい頃、そう言って両手を広げる勇に通せんぼされ、希美は大泣きしてしまったことを思い出す。だが、大人になった勇はそんな意地悪をすることもなく、ダイニングまで引き返して希美を通した。希美は廊下を急ぎ足で抜け、自分の部屋に滑り込む。
 希美は扉を背にしたまま、大きな溜息をついた。……悪いことしちゃったな。でも、再び扉を開けようという気持ちにはならず、希美は手にした鞄をベッドへ放り投げた。
 扉から離れ、リボンに手を伸ばした希美は、その手を止めて机に歩み寄る。ノートパソコンを起動し、キーボードでパスワードを入力。マウスを操作してフォルダを開くと、お目当ての文書ファイルが見つかった。「私の物語」。それをドラッグで「ゴミ箱」へ放り込み、続けて「ゴミ箱」をダブルクリック。「ゴミ箱を空にする」をクリック。「このファイルを完全に削除しますか?」に対し、「はい」にポインタを合わせると、希美は大きく深呼吸。
 コンコン、というノックの音にマウスが滑り、希美の心臓は跳ね上がった。
「希美?」と扉越しに勇の声。
「な、何っ?」と振り向いて希美が叫ぶ。
「ちょっと話があるんだけど、入ってもいいかな?」
「えっ? ああ! う、うん、いいよ! ……あっ、いや! やっぱちょっとま……」
 ガチャリとドアノブを回し、勇が部屋に入ってくる。希美は伸ばした手を下ろし、観念したように溜息をついた。勇は腰に手を当て、部屋を見渡す。うぅ……別に見られて恥ずかしいものは置いていないけれど……う~ん、やっぱり何か、恥ずかしい。何でだろ?。
「は、話って?」と声をかけ、希美は勇の注意を自分に向ける。
「ああ、ちょっとね。五年振りだしさ」
 勇はそう言うと、ベッドの上に腰を下ろした。自然に。希美は何か文句の一つも言ってやろうかと思ったが、そんな筋合いもないことに気づく。なぜなら、五年前はお互いの部屋を当たり前のように行き来していたし、ベッドでごろごろしていたのだから。それもあって、希美は自然に……というのには少しぎこちなく、勇の隣に腰を下ろした。希美が勇に顔を向けると、勇の視線は下方に向けられていた。その先には、ボストンバッグ。
「あ、ああ! それは別に、家出しようとか、そういうんじゃなくて……」
 ……馬鹿か、私は! 希美は両手を上げると、自分の頬を挟むように叩いた。勇はボストンバッグから目を離すと、希美の横顔を見ながら口を開く。
「希美、ラノベ作家になりたいんだって?」
「ど、どうして知ってるの!?」希美は両手で頬を挟んだまま、勇を振り返る。
「母さんから聞いたよ。三者面談でも言ったんだって?」
 ……やっぱり、ちゃんと聞こえてたんじゃない! 希美は母親の申し訳なさそうな顔を思い浮かべたが、込み上がるのは悔しさ……ではなく、同じく申し訳ないという気持ちだった。
「希美ってさ、ラノベがそんなに好きだったっけ?」
「好きになったの! えっと……あー……の後から、色々と読み始めて」
「なるほどね。じゃあ、どんなのを書いてるの? 良かったら、読ませて欲しいな」
「そ、それは……まだ完成してないというか……」
 希美は「そっか」と頷く勇を見て、ベッドをバシバシと叩いた。
「で、でも! いつか書き上げようって、少しずつ、書いていたんだけど……」希美はノートパソコンに目を向けた。「……その、もういいかなって」
「諦めたの?」
 勇のストレートな問いに、希美はむっとして答える。
「だって、小説って特別な人じゃないと書けないじゃない? 私みたいな普通の女の子には、面白い作品なんて書けっこないもん」
「そうかな?」
「そうよ!」
「じゃあ、何で小説を書こうと思ったんだい?」
「えっ……」
「普通の女の子には書けないんだろ? 自分は普通じゃないって思ってた?」
「それは……」
「確かに普通じゃないよな。お兄ちゃんがいなくなるなんてさ」
 ……その通りだった。希美はスカートの裾をぎゅっと握り締める。
 兄がいなくなったという現実を前にして、当時の希美は悲しさや驚きよりも、とにかく凄いと思ったものである。……お兄ちゃんは夢を叶えたんだ、と。
 勇は異世界転移モノ……地球の冴えない主人公が、異世界では大活躍……が大好きだった。実のところ、希美はそこまで面白いとは思えず、「僕はいつか異世界へ旅立ち、魔王を倒して世界を救うんだ!」と意気込む兄に対しても、「そんなことできるわけないじゃん」と密かに思っていた。――だが、兄はいなくなった。本当に。
 お兄ちゃんは特別だった。だから、異世界へ転移した。それなら、妹の私も特別に違いない……希美はそう思うようになった。それがきっかけで希美は異世界転移モノのを読み漁るようになり、自分も書けるのではないかと考え始める。何せ、自分は特別なのだから。
 希美も中学生になる頃には、兄が異世界に転移したなどと考えることはなくなった。だが、兄がいなくなったのは紛れもない事実。だから、希美は特別に学区が異なる中学校に進学し、特別に自転車通学が……と、何のことはない、奈々子の言う通りだった。自分は特別だった。いや、自分は特別だと思いたかった……ただ、それだけだった。
 ――でも。本当は特別でも何でもなかった。それに、お兄ちゃんも帰ってきた。もう特別なことなんて何一つなかった。……普通の女の子だったのだ。最初から、私は。
「帰ってこない方が良かったかな?」
「そんなことないっ!」
 勇の言葉に間髪入れず希美は叫んだ。自分でも驚くぐらいの大声は、正直な気持ちだった。帰ってこなくても良いと思ったことは、一度もない。嬉しそうに微笑む勇を見て、希美は顔がかっと熱くなり、何だかとてもむかむかしてきた。――だから、つい。
「お兄ちゃんっ! 五年間もどこに行ってたのよっ!」と言ってしまってから、希美は両手で口を塞いだ。勇は顎を上げて天井を見上げると、ゆっくり口を開いた。
「ネヴァタリア」
 ……ねばたりあ? 希美は首を傾げる。外国だろうか?
「それ、どこ?」
「異世界だよ。機空世界ネヴァタリア……実は、僕も正しく発音できないんだ。これを正しく発音できるのはネヴィラ族だけで、人間の声帯だと無理なんだ」
「……お兄ちゃん、何言ってるの?」
「だから、僕は異世界に転移したんだ。様々な種族、様々な文明が交錯する異世界に」
 希美は目をぱちくりする。この期に及んで冗談を言うなんて、一体どういう神経をしているのだろう? 希美はほんの少しだけ、帰ってこなくても良かったかなと思い始める。
「……それで、そこで何をしてきたの?」
「もちろん、魔王を倒して世界を救ってきたのさ」
 沈黙。希美が眉間に皺を寄せて黙り込んでいると、勇は声を出して笑った。希美も釣られて笑い出す。兄妹でひとしきり笑い合うと、希美は指先で涙を拭いながら口を開いた。
「……もう、お兄ちゃんこそラノベ作家になればいいんじゃない?」
「そうかな?」
「そうだよ! ……ねぇ、どうやって魔王を倒したの?」
「それは……」勇は目を泳がせると、やがて観念したように溜息をついた。
「……ごめん、さっきのは嘘なんだ」
「それは……」
「本当は世界を救ってなんかいない。魔王だって倒してない。そりゃそうだよ、僕には特別な力なんてなかったんだから。……僕はね、ずっと本屋で働いていたんだ」
「本屋?」と希美。
「うん。主にナブラシア系の魔道書が中心でね。僕には何が書いてあるのかさっぱりだから、会計とか、陳列とか、虫干しとか……これが結構、重労働なんだ。だけど、同僚にセフィラ族のミーヴァっていう女の子がいるんだけど、休憩時間に入れてくれるお茶が絶品で……」
 堰を切ったように話し続ける勇。希美は相槌を打ちながらも、その話をどう受け止めればいいのかが分からなかった。確かなのは、勇の顔がとても生き生きとしていること。そんな顔を見てしまうと、話の真偽なんて些細なことではないか……そんな気がする希美だった。
「お兄ちゃん、楽しそうだね」
 話の切れ間に希美がそう口にすると、勇はふっと笑みを消してから、改めて笑った。
「……うん、楽しい。でも、そう思えるようになったのは最近で、それまでは本当に辛くて、苦しくて、どうして僕はこんな世界にやってきたんだろう、元の世界に帰りたいって、ずっと思ってた。……はは、僕はこの世界が大嫌いだったのにね。
 希美は覚えてる? 僕がいつか異世界へ旅立ち、魔王を倒して世界を救うんだって言ってたこと。あれ、かなり本気だったんだよ。……僕さ、お父さん、お母さん、希美にも内緒にしてたけど、学校が大嫌いだったんだ。別にいじめられてたわけでもないし、成績だって悪くなかったけど……とにかく面白くなかった。ラノベの学校は楽しそうなのにさ。
 現実とラノベ……その違いが何なのかは分からなかったけれど、何となく、僕がこの世界にいるのは間違いなんじゃないかと思うようになってね。そんな時、異世界転移モノのラノベに出会ってさ、これだ! って思ったんだよ。僕が活躍できる世界は別にある……そして、僕は旅立った。これで全てが良くなる、楽しくなるって、そう思った。だけど……」
「……そうじゃなかった?」と希美が促す。
「そうじゃなかった。何も変わらなかった。異世界に行っても、僕は僕でしかなかった。それ以上でも、それ以下でもなかったんだ。僕は全ての原因を外……世界に求めた。世界が変われば全てが変わると、何より自分が変わるんじゃないかと。だけど、変わらなかった。
 ……結局、自分が変わらなければ何も変わらないんだ。どんな世界でも主役は自分。どこで生きるかじゃない、どう生きるか……それを、僕はネヴァタリアで学んだんだ」
「だから……」希美はそこで言葉を切り、躊躇いがちに先を続ける。「帰ってきたの?」
 希美の問いかけに、勇は力なく首を振った。
「……分からない。いや、分からなくなったんだ。偉そうに言ったけど……正直、迷ってる。だから、帰ってきたんだ。僕はどうすればいいのか、どうしたいのか、考えるためにね」
「ん、そっか。ねぇ、五年振りに帰ってきて、どう?」と希美は明るい声を出す。
「それはもうね、素晴らしいの一言だよ! マジで! 魔物もいないし、トイレも水洗だし、テレビに漫画、アニメ、ゲームと娯楽は山ほどあるし、食事だって……」
「お寿司っ!」と希美は思わず声を上げ、勇もうんうんと頷く。
「そうそう! いや~、うまかったなぁ。マグロ、中トロ、甘エビ、玉子……」
「タイ、イカ、穴子、イクラ……うう、私も食べたかったなぁ」
 そう言ってお腹を押さえる希美。勇はごろんとベッドに背中を預け、天井を見上げた。
「……やっぱり、僕は人間なんだよなぁ。きっと、ここが僕のいるべき場所なんだ」
「お兄ちゃんは、それでいいの?」
「えっ?」
 勇は驚いたように希美を見て、希美もまた驚いたように勇を見た。
「だって、お兄ちゃん迷ってるんでしょ? 今のも、自分に言い聞かせてるみたいだったし」
「……」
「お兄ちゃんの本当にやりたいことって、夢って、この世界でもできることなの?」
 ……妹なら。家族なら、ここが兄のいるべき場所だと言うべきだろうとは思う。異世界とやらが兄の妄想だとしても、あるいは、真実……なのだとしても。――だけど。
 勇はしばらく天井を見上げていたが、やおら起き上がって希美に尋ねる。
「希美はさ、どうすればいいと思う?」
「そんなの……私には分からないよ。お兄ちゃん、自分で決めないと」
「酷いなぁ。お兄ちゃんがこんなに悩んでいるのに……ああ……」
 勇が大げさに頭を抱えるのを見て、希美はむっとする。
「酷くないよ。お兄ちゃん、さっき言ったじゃない? 主役は自分だって」
「そりゃ、そうだけどさ……」
「そ・れ・にっ! 希美が言ったから~とか、私、そんな言い訳になりたくないもん!」
 希美に指先を突きつけられた勇は、大きく溜息をついた。
「……僕はきっと、それを希美に期待していたんだろうなぁ」
「え~っ? お兄ちゃん、そんなんじゃ、世界なんて救えないよ?」
「……全くだ。おし、分かった。じゃあ、希美も僕を言い訳にするんじゃないぞ?」
「えっ……」希美は目をぱちくりする。
「僕がどうだからとか、そういうのを言い訳にしないで生きていく……約束できる?」
 お兄ちゃんはお兄ちゃん。私は私。それぞれの人生。当たり前だけど、大切なこと。
「……うん、いいよ。約束する」
「オッケー、じゃあ指切りだ!」
 そう言って、勇は小指を希美に差し出す。希美は勇の小指に自分の小指を絡めた。 
『指切りげんまん嘘ついたら針千本飲~ます、指切った!』
 勇と希美、二人の声が重なる。勇は自身の小指をじっと見つめると、「よし!」と気合いを入れて立ち上がった。そして、希美を見下ろし笑顔を見せる。 
「久々に希美と喋れてよかったよ」
「お兄ちゃん……」と希美は勇を見上げる。
「希美の書いた小説、いつか読んでみたいな。妹がラノベ作家なんて、自慢できるぞ!」
「もう、約束したばっかりなのにっ! ……え~と、針千本、どこにあったかな……」
「の、希美だって、世界なんて救えないとか言ったじゃないか!」
「それは、約束する前だもん!」
「うっ、た、確かに……」
 頭を掻く勇を見て、希美はくすりと笑った。そんな希美を見て、勇は言葉を続ける。
「そうだ、小説のネタに困ったら、さっきの話を使っていいぞ!」
「大丈夫。あれぐらいの設定なら、お兄ちゃんが持ってるラノベにいくらでも出てくるから」
「……ごもっともです。じゃあ、僕は行くよ」
 勇は軽く手を振ると、希美の部屋から出て行った。希美は手を振り返し、扉が閉まったのを確認してから、ごろんとベッドに転がった。両手と両足を広げ、大の字になる。
 ……色々お話したなぁ。それも、絶対に友達とは話せないようなことを。ううん、友達だけじゃない、お父さん、お母さんでも駄目だ。兄と妹……この距離感だからこそ語り合えた話。多分、きっとそうだ。悪い気はしない。むしろ、良い気分。希美はじっと目を閉じる。
「僕は行くよ」
 希美はかっと目を開いてベッドから跳ね起きると、慌てて部屋から飛び出した。
「お兄ちゃんっ!」
 勇は玄関で振り返った。スニーカーを履き、どこかへ出かけようとしている。希美はなんと声をかければいいか迷っていたが、やがて、一言だけ口にした。
「……気をつけてね!」
「うん。希美も家出なんかするんじゃないぞ?」
 ぐっ……こ、ここでそれを持ち出すなんて……それに、お兄ちゃんが言える立場かっ!
 扉に向き直り、ドアノブを掴む勇。……このまま行かせてなるものかと、希美は頭脳をフル回転。反撃の糸口を懸命に探り、それを見つけ出した。自分の記憶力に感謝する希美。
「お兄ちゃんっ!」
 勇が振り返る。希美は自分が出せる最も意地悪な表情を意識しながら、言い放つ。
「何だかんだ言って、ミーヴァさんと一緒にいたいだけでしょ?」
「……!」
 勇の表情を見て、希美は思った。よし、勝った! ……と。希美は破顔すると、ぐっと親指を立て、右手を突き出した。勇も左手の親指を立てて応える。そして、扉を開け放った。
「いってきます!」
 勇が叫ぶ。目映い光。希美は思わず目を細める。扉の向こうに、人影が見える。お兄ちゃんに駆け寄り、飛びついたのは……希美は大きく頷き、大いに納得した。めちゃくちゃ可愛い娘じゃない! そりゃ、どんな辛い世界でも、楽しくなるよね。 
 ――いってらっしゃい。

 ――勇は再びいなくなった。希美はスマホからショートメールを両親に送ったが、母親から折り返し電話がくることはなかった。その代わり、しばらくして父親から「わかった」と簡潔なメールが届いた。……きっと、お父さんとお母さんも覚悟していたのだろう。
 希美は自分の部屋に戻ると、ノートパソコンのゴミ箱を空にした。
 ……私は異世界転移モノを書かないと決めた。私にとってはノンフィクションだし、何よりそれはお兄ちゃんの物語だ。私は私の物語を書きたい。だって私は特別だから。……ううん、私だけじゃない、誰もが特別。人生の主役。それなら、私にだって書けるよね? うん、書けるはずだ! この世界で、私の物語を。私だけが書ける、特別な物語を。

評価や感想は作者の原動力となります。
読了後の評価にご協力をお願いします。 ⇒評価システムについて

文法・文章評価


物語(ストーリー)評価
※評価するにはログインしてください。
― 感想を書く ―

1項目の入力から送信できます。
感想を書く場合の注意事項をご確認ください。

名前:

▼良い点
▼気になる点
▼一言
お薦めレビューを書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ