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織田家の長男に生まれました 作者:いせひこ
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加納口の戦い


良い報告と悪い報告があるんだけど、どっちから聞きたい?

じゃあ悪い報告からな。
俺メシは嫌いなものから食う派なんだ。
空腹は最高のスパイスと言うけど、じゃあ嫌いなものをその何でも美味しく感じる時に食べた方がいいじゃない。
好きなものをより美味しく食べられるって?
でも腹減ってる時にメシ食うとガッツく事になるじゃん?
好きなものはゆっくり味わいたいじゃん?
嫌いなものを食べるって事はそれ、要は栄養補給でしょ?
好きなものをそれに使っていいの?
腹がある程度落ち着いたところで好きなもの食って、『食事』を楽しみたいじゃない。
それなら食べた後も、美味しかったー、って幸せな気分に浸れるじゃん?

異論は認める。

さて(話を戻して)、悪い報告。
天文13年9月、親爺、斎藤道三に敗北。

またかよ! って思わなくもないけど、実は大垣城奪った後も、何度も斎藤家と親爺は国境付近で戦ってる。
勝敗不明の泥仕合みたいなのを何度もな。
しかもその国境ってのは、美濃の西側じゃなくて、美濃にとっては中央部、尾張にとっては東側だ。
ここって親爺の領地って言うより、尾張守護代の一つ、岩倉織田家の領地なんだよな。

親爺には上司っていうか上役が三人いる。
尾張守護斯波義統、守護代織田信友、同じく守護代織田信安。

岩倉織田家は信安の家だ。

尾張の統治者は誰か? って言えば、それは守護の斯波義統だ。
けれど斯波義統は領地も無く、家臣もわずかの名ばかり守護。

じゃあ次に権利というか、尾張統治のための大義名分を持ってるのは誰か?
普通に考えれば守護代のどちらかだ。じゃあどっち? となると、これは織田信友だろう。
何故なら斯波義統は織田信友の居城、清洲城に同居してるからだ。

周囲の人間からすれば、同じ守護代でも、信友の織田大和守家の方が格が上だと見えるだろう。

だから信安の織田伊勢守家は、他に尾張統治のための発言力を得たい訳だ。
隣の美濃との戦に勝つとかな。

やっぱりこの時代、良い主君の条件は強さが第一だ。
尾張統治の正当性が無くても、領民が強い信安に治めて欲しい、と思えば、簡単になびき、上の者に取って代わる事ができる。

弾正忠家だけで斎藤家と戦うと、尾張国内では弾正忠家が疲弊するだけだ。
だから、手柄を欲する岩倉織田家を巻き込んだ訳だな。

そんな状況が動いたのは8月下旬だった。 
道三に国を追われた元美濃守護土岐頼芸から本格的な道三討伐の指示があった。
これを受けて親爺は美濃攻めを開始。
弾正忠家が単独でこれを成すと、それこそ、尾張国内での序列が入れ替わる可能性がある。
いや、間違いなくそうなる。
室町幕府の要職である土岐氏の美濃復帰を助けたんだ。
下手をすれば守護代どころか、尾張守護に任じられる可能性まであった。

岩倉織田家が横やりを入れない筈がないよな。
親爺の軍勢は三千程だったけど、負けじと信安も二千の兵を出した。
更に、自分の立場が悪くなる事を恐れた斯波義統まで家臣を帯同させた。

そして、土岐頼芸の美濃復帰を黙って見ていられない人間は他にも居た。

同じく道三に故郷を追われ、越前へと逃れていた、頼芸の甥、土岐頼純だ。
頼純が身を寄せていた朝倉家が親爺の動きに呼応して美濃へ出陣。
先の戦いでは敵に回った宗滴が今度は親爺の援軍として美濃を攻撃したんだ。

出陣は9月2日。親爺は美濃領内の田畑を半月ほどかけて焼いて回った。
道三も軍を出すが、総勢五千の軍に簡単に撃退されてしまった。
ついには道三の居城稲葉山城山麓の村々にまで迫る。

ちなみに朝倉軍は西美濃に待機し、予想された南近江の六角家の援軍経路を潰していた。

稲葉山城麓の町口まで迫ったところで、日が傾いて来たので親爺が兵を引こうとしたところ、道三が稲葉山城より出陣。守備の整わない織田方は散々に打ち破られ、更に撤退途中に木曽川で相当数が溺れ死んだらしい。
やっぱ橋って大事だね。
最終的な損害は二千とも三千とも言われてる。

道三がこれまでの二十日ほど、何もしなかったのはどうやら外交政策を行っていたかららしい。
道三が反撃に出た時、朝倉軍は何もしなかったし、西美濃でも道三からの反撃を殆ど受けていない。

実はこの時、朝倉家の当主、朝倉孝景と道三の間で和睦が成立していて、宗滴にもその情報が届いていたらしい。

ちなみに和睦内容は、土岐頼純に美濃守護を譲るというものだ。
どう考えても嘘なんだけど、元々頼芸と争っていた頼純はこれを承諾し、和睦が成ってしまう。
一応その証として、道三は頼純を美濃国川手城に入れた。

これは美濃源氏土岐氏の3代守護、土岐頼康が築いたとされる城で、代々の美濃守護が本拠地としていた城だ。
そりゃここに入れると言われたら、まぁ喜んじゃうか。

ちなみにこの時、頼純は数えで20歳。俺と同い年。
敵を疑うには十分な年齢だと思うけど、どうか?

城の場所は木曽川と荒田川に挟まれた天然の要害なんだけど、城自体は広大な敷地に神社仏閣を設置し、本殿は御殿風の建物で、どう考えても戦のための城じゃない。
明らかに後で攻める気満々じゃねーか。
しかも頼芸と争ってた時、自分で焼いた屋敷なんだぜ? 再建はされてるとは言え、その脆弱さは自分が証明してるのにな。

ちなみに頼芸はこの沙汰に激怒したものの、頼りの親爺が敗北しているので実際には何もできない。
それでも土岐氏の力はまだまだ美濃では強い。
そのため道三は大桑城を頼芸に差し出した。
この城は元々頼純が入っていた城だから、本来は怒るべきなんだろうけど、頼芸は長年争っていた甥の城を乗っ取ってやった、とご満悦。
簡単に懐柔されてんじゃねーよ、そんなんだから美濃奪われちゃうんだよ、とは思ったけど口には出さないでおく。

で、だ。
本来なら親爺敗戦、道三マジパネー、で終わるところなんだけど、そこはそれ。
知れば知る程戦国トップクラスのチート武将である親爺が、何の勝算も思惑もなく、斎藤道三なんて難敵に本格的な戦を仕掛ける訳がない。

織田信康、織田播磨守、織田達広、織田主水正、織田寛近、毛利藤九郎。

この戦いで討死した主だった武将な訳だけど、信康と寛近は岩倉織田の家臣。
播磨守、達広、主水正は尾張の独立領主だ。
藤九郎は尾張守護、斯波氏の家臣。

つまるところ、邪魔な奴の一斉処分って訳だな。
風聞だけど、夕方に親爺が退いた時も、岩倉織田の主力は稲葉山城町口に残っていたらしい。

「稲葉山城攻略の栄誉は伊勢守家に譲る」

とかなんとか言ってな。弾正忠家が家格が下である事を利用した訳だ。
ずるいっつーか、怖いわ。
当然、損害の殆どは岩倉織田家だからな。

信康なんて親爺の弟な上、小豆坂の戦いに従軍して武功挙げてるんだぜ?
そういや頑張ったのに小豆坂七本槍に数えられてなかったな。
あー、別の家に仕えてたからかー。

勿論親爺も家老の岩越喜三郎を失ってるけど、これも織り込み済みっぽくて恐ろしいな。
本当のところを聞くのが怖いぜ。


で、良い報告は於大に子供ができた事。
いやー、来年には俺父親ですわ。

俺に子供ができた事を報告する時の於大の、恥ずかしそうな、それでいて嬉しそうな顔ったら、もう、ね。


で、そんな我が世の春を満喫していた俺に、親爺からの呼び出しが来た。
嫌な予感しかしないんですが……。
加納口の戦いは天文13年説、16年説、13年と16年に二回あった説、13年から16年まで戦い続けた説、と色々あります。
とりあえず、13年に起きた説を採用。16年も起こるかどうかはその時をお楽しみに。
加納口の戦いにおける信秀の謀略は拙作のオリジナル設定ですが、史実の死没武将の顔ぶれを見てたら、こんな風に妄想してしまいました。
そしてついに子供ができました。史実通りなら丹羽長秀室ですが、果たして。
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