推理LV.0〜ジャブ〜
遠くに、セミの羽音が木霊している。
ガリガリ君をひとかじり…雫がポタリと、机に落ちた。
(拭かないと、蟻が行列を作ってしまいますね)
ふきんはカラカラだ…でも、
だからこそ、よく滴を吸い込む。
夏の日差しと、窓から吹き付ける乾いた風が、
アレを良いふきんにした。
最高に心地よい今の体勢を崩すに値する…最高のふきん。
そうだ。
僕は、怠け者なんかじゃない。
やるぞ。
意を決して半身を起こし。よいしょっっっと右手を伸ばす。
あと…5cm…4.7cm…3.41cm…2.983cm…そして、
ふきんとの距離が、1.8568cmを切った、
その時…
ブレスレットのエメラルドがカツン≠ニ鳴った。
「つっ、また君か…」
机の上でくすぶり続ける、蚊取り線香。
エメラルドが小突いた物は、
口から柔らかい煙を吐いて…遥か遠くを見つめる…陶器の豚。
アンティーク一色の部屋に、毒の煙を撒き散らして調和を揺るがす。
ただ一人、強烈に在る豚の王…これは、僕だ。
だから捨てられない。捨てるわけにはいかない。
「ハァ…」
なんだか興ざめだ。
どうやら今は、滴を拭く時ではないようだ。
僕は手を引っ込めて、再びドサッ、と安楽椅子に身を沈めた。
毒の煙が織り成す曲線美…しばし目にとどめん。
…ミーンミンミンミン…
(…美しい…)
…スイッチョ、スイッチョ、スイッスイッスイッ…
(…)
…さわさわさわ…チリーン…
(…全てが美しい…)
…キリキリキリキリ、キリ、キ…キ…
(…うっとり…)
窓から入るそよ風。
カーテンを揺らし、僕の頬をなで、最後に毒の煙を乗せて、
入口の方へとゆらゆら流れていく。
(…なんてエキサイティングな、壁のひび割れなのかしら…)
…ぶー―――――ん、ぶーん、ぶ、フンッ…
…蝿だ。
一匹の蝿が、蚊取り線香の煙に当たってクラリと舞い堕ち、
滴の隣でピクピクと、なまめかしく肢を蠢かし始めた。
(…この形…)
やがて痙攣は収まり蝿≠ヘ死骸≠ニなる。
(また…始まるのかしら…?)
未来の布石はあらゆる場所で、必死に僕らを導こうとしている。
それに気付かないことが、どれほど罪深く…恐ろしいことか。
蝿が落ちることで、テーブル上に符号≠ェ顕われた。
僕は、そこに築かれた世界≠観る…
まるで天蓋…落下の象…垂直と螺旋…ハエの死骸と、水色の雫。アクアマリン。
これは…
(逆位置にベルゼブル―浄化の美徳)
(そして、正位…ああ、いけないいけない)
また、悪い癖が始まった。
思考のスイッチをOFF…
落ち着かない両手を抑え付け、頬杖を突く…
顔筋を操作。気だるげな表情を作り…
ようやく僕は、こう考えることに成功した。
(ふぅん、蝿も蚊取り線香で死ぬのか…)
今は夏を楽しもう。
ガリガリ君と蚊取り線香…空が紫色に落ちて、セミの声が止めば、
窓の外に花火が上がる。
「ガリガリ君は、ソーダ味が王道だよね…」
そうだ。(クス)
ゆっくりと、夏を楽しもうじゃないか。
天から降り注ぐ真っ白い光を受けて、
遠くの山がキラキラと輝いている。
まるで、夏の全てを凝縮したような…このひととき。
嫌いじゃない。
嗚呼…なんだか贅沢な気分だ。
耳を澄ます。
聞こえるのは、絶頂を極め、停滞を迎えた夏の昼下がりと、
もう一つ。
トン…トン…トン…階段を昇る、足音。
(誰かしら)
ミシ…ミシ…廊下を歩く、足音。
(足音で判別できるほど、仲の良い人間はおりませんわ)
コンコン
背後のドアがノックされた。出入口は一つ。
コンコン
音階に特徴なし…まだ訪問者は特定できない。
もう少し情報が必要だ。
「はにゃん?」
椅子に沈んだまま首を45°傾げ、ドアを視界に捉える。
アンティーク調のドア。
人の手によって何度も磨かれた証となる、テラテラとした鈍い輝き。
一点の隙もない重厚な樫の木。
あまりにも重厚すぎて、開閉がしんどい…。
(ふふ、おいでなすったわね)
ドアを一瞥するだけで充分だった。
僕は訪問者が第一声を発する前に、その人物を特定した。
越前康介≠ノ間違いない。
「はにゃーん。コースケにゃーん」
「ああ、入っていいか?」
ノックして、許可を得てから入室する。
越前康介は平均以上の紳士だ。
けれど…ノックの仕方が、とても恥ずかしい。
いまどきアメリカのホームドラマでもやらないような…。
彼は、そんなノックをやらかしてしまった。
「へろへろ〜」(ハローと東北弁の「入れ」を融合)
彼の流儀に沿って、メリケン風味の挨拶を投げかけてやる。
遠回し過ぎる嫌味だが、彼には通じるだろう。
いつも、嵐のようにやって来て、新しい世界を見せてくれる。
越前康介…エチゼンコウスケ…
そんな慇懃無礼な使者・越前の第二声。
「『はにゃーん』は、やめておきたまえ」
「今の君には、いささか不釣合いだ」
(あらあら…いつもながら手厳しいこと)
(少し、お仕置きが必要ね)
反論の言葉は4085通りほど、閃いた。
その中からたった一つを選ばねばならない。
残酷な瞬間だと思わないか?
4085通りの反論は、一つ残らず僕の本音。
けれど、その全てを叩きつけるには、
とてもとても、時間が足らないのだから。
『貴方たちは、何故そうやって眉間にシワを寄せて、そこに立つの?』
『人は、こんなにも愛に包まれ、輝いているのに』
こんな感じの意味だけど。
ある程度フィルターを通さないと会話が成立しないのは明白。
彼が次の言葉を発するまで、4.2秒。
僕は必死に考えた…。
―二章へ続く―
【推理レベル0】
Q. 僕は、なぜドアの方を見ただけで人物を特定できたのでしょう? |