紙の器
この小説は、共同企画小説「紙」参加作品です。
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彼女は初めて僕の前で声を出して泣いた。
土曜日AM2:50。見上げても星も見えない空の下。街灯だけが彼女のマンションの前に止められた僕らの乗っているアウトビアンキの赤い車体を照らしていた――
その日、僕らは空がオレンジ色に染まりだしたPM5:45に駅の改札口の前に置いてあるベンチで待ち合わせしていた。
待ち合わせより5分前に着いた僕を彼女はベンチに座って既に待っていた。
ベンチの背もたれには真鍮製のスズメの番いが留まっていた。
彼女はミントグリーンのカーディガンを白いワンピースの上から羽織ってスズメたちを撫でていた。
改札口から吐き出され帰宅する人々の忙しない流れの中で、そこだけ時が停滞していた。
僕は声を掛けるのに一瞬、途惑った。
彼女の周囲の時の淀みを壊すのが惜しかった。
出来るならその3立方メートルの空間をそのまま切り取って、美術館の庭に展示しておきたかった。
けれど、僕は声を掛けた。
彼女は僕に気付き手を所在無げに上げ、時間は周囲のスピードに追いつくように急ぎ足で進み始めた。
僕は悔やんだ。
僕らはいつものように歩きながら会わなかった一週間の近況をお互いに報告しあった。
お互いの相手の話に対する相槌や微笑は半ば義務だった。
苦痛でも喜びでもない。
この時間を愛おしくするためにはやらなければいけない助走だった。
「今週は忙しくて、昨日なんて半年振りぐらいに終電の女性専用車両に乗ったの。そうしたら化粧水とお酒の臭いが入り混じってもう最悪!」
「途中で車両変えれなかったの?」
「知ってる? 女性専用車両の隣って男性専用車両なのかと思うくらい男の人でいっぱいなの」
「それは嫌だな」
「でしょー。だから我慢したの」
「女性専用車両ってさ、きみのことなんて誰も痴漢しないから安心してと言いたくなるような人に限って乗ってそう」
「なんでそういう曲がった見方しかできないの?」
「もって生まれた天武の才能」
「そんな才能欲しくない」
「僕はもってよかったと思うけど。いらない?」
「いらない」
「ガムは?」
「いる」
「ほいっ」
「ありがとう。そういえば今日は何観るの?」
「洋画って気分じゃないな」
「ふうん。じゃあ邦画ね」
今の僕らなら他愛のないこんな会話も永遠にでもやっていけそうな気がした。少なくとも3年間はやってこれた。
そうやってお互いの腎を体の奥深くの金庫に傷つかないよう閉じ込めていた。
PM6:10。ほんの25分の間に夜が街の隅々まで染み込み、厚い雲の隙間から月の欠片が覗いていた。
映画館の券売所で渡された大人2枚のチケットは感熱紙で出来ていて、既にプリントされた文字がくすみ始めていた。
雑居ビルの地下一階にある映画館に降りていくと中はうっすらカビの臭いがした。ひんやりとした空気と控えめな灯りはブルーチーズの貯蔵所を思わせた。
フロアに敷かれた灰色の絨毯は所々擦り切れ、ポップコーンやジュースの染みが付いていたが、なぜだか不潔に感じることはなかった。それは此処が本当はブルーチーズの貯蔵所なのだからかもしれない。ジュースの自販機を開けるとそこにはブルーチーズが眠っている。そんな映画館があってもいい。
入り口で欠伸を噛み殺しているもぎりは僕と彼女一人ひとりにチケットの半券を返して、また欠伸を隠すように白い手袋で包まれた右手を口元までもっていった。
僕はチケットの半券をジーパンのポケットに捻じ込んだ。彼女は半券を少し見つめてハンドバックに滑り込ませた。
そのとき僕は彼女がいつものようにチケットの半券で紙の器を折るのだろうと思った。
彼女は何もすることがないときや何かを考えているとき、例えば車の助手席に座っているときに心を落ち着かせるように余った紙で四角い器を折るのが癖だった。それはときには首都高のレシートだったり、美術館のパンフレットだったり僕の部屋の隅に積まれたチラシだったり映画のチケットの半券だったりした。
彼女は紙の大きさに合わせて器用に紙の器を折った。大小様々な紙の器はピーナッツの殻や使用済みのちり紙やガムなどの屑で一杯になってはゴミ箱に捨てられた。その一生が幸か不幸かわからない。僕自身の人生でさえわからないのだから。けれど生まれ、生き、消えてゆく。それだけは確かだ。
PM6:30。そんなことを考えながら彼女の細くやや骨張った指先を眺めていると、彼女が僕の視線に気付いた。
「どうしたの?」
いつもなら、何も応えずにその指先にある指輪に触れたりするのだが、僕はこのとき「なんでもないよ」とただ微笑むことしかできなかった。
僕らは席に着き、場内は暗くなる。スクリーンに煙草や携帯電話、私語、ゴミのポイ捨てを慎んでほしいという内容のメッセージのカートゥーンが流れた。
何千回と使い古されたフィルムなのだろうか。レコードに針を落としたときのノイズのような音が混じる。それは雨の音に似ていた。油彩絵の具で塗りつぶした闇の中、窓を叩く降り始めの雨のようだった。その音は僕の胸に砂地を通る水のように染み込んでいった。
PM8:40。スタッフロールが流れる。つまらない映画だった。
けれど、たとえどんなに面白い映画でも今日は笑える訳はなかった。
どんなに悲しい映画でも感情を表に出したくはなかった。
表に出した途端、全てが音を立てて崩れていきそうだった。
映画館を出て空を見上げた。相変わらず星は見えない。月の影さえも隠れるほど分厚い雲が街を覆ってた。
「ごめん。今日は星空を見に行けなさそうだ。せっかく車乗ってきたんだけどなあ」
天気が良くなれば高速を栃木まで飛ばし、星空を見ようと約束していた。ずっと前からの約束だった。
「ううん。また別の日にね」
彼女は空を見上げ言う。
ああ、と答えた僕はそんな日が永遠に来ないことを知っていた。そしておそらく彼女も。
でも、そんなことは口にしなかった。
これから晴れた日の夜空を見る度に思うであろう気持ちが頭に浮かんできそうになったのを胸の奥へと閉まった。
「せめて家まで送るよ」僕はポケットの中の車のキーを探る。
「ありがとう。ごめんね」
「気にすることないさ。せっかく車で来たんだし」
車は映画館から歩いて5分の所に駐車していた。
彼女を助手席に乗せ、イグニッションを回すとぎこちなくエンジンが始動し車は走り出す。
「乗り心地悪くてごめんね」
「ううん。そういう車が好きな人を好きだったんだから仕方ないじゃない」
「まあね」好きだった……か。
彼女が助手席側の窓を開ける。夜風が車内を舞う。夜の匂いがする。彼女の髪も舞って、夜の匂いと香水の香りが混じった。
車を走らせていると、彼女がハンドバックから映画のチケットの半券を取り出した。
夜風に揺れるチケットの半券はプリントされた文字がほとんど消えかかっていた。
「紙の器……」言葉の語尾が風にさらわれる。
「えっ?」彼女が聞き返す。
「紙の器折るんだ?」
「うん」
会話はそこで終わって、彼女は紙の器を折りだした。
車の窓の外を流れる夜が更けていった――
PM10:07。彼女のマンションの前に車を停めた。
お互い何かを話しかけようと口を開きかけては思い直したように口を閉じた。
まるで、どちらが先に切り出すかポーカーの手札を1枚1枚開いているようだった。
そして、彼女が声を出して泣いた。
同時に僕の思いも言葉にならないまま溢れ出す。
淡々と今日という日を記録すれば、たとえそれが彼女との別れであってもごく有り触れた一日のように過去に埋もれ、忘れられるんじゃないかという希望は波打ち際の砂城が波に洗われるように崩れていった。
彼女の涙を見るのは初めてのことだった。彼女との記憶を思い出すといつも笑顔が浮かんだ。
泣かせたことがなかったのか、いつも笑顔で支えてくれたのか。
たぶん後者だろう。でも、それが余計僕らは別れなければいけないという思いを加速させる。
「僕なんかと一緒にいちゃいけないんだ」
「なんで?」
「僕の夢を知ってるだろ?いつ叶うかわからないし、一生叶わないかもしれない。だから君の人生に責任が持てない」
「人を好きになるって責任が必要なの?」彼女は僕を見ず、手元にある紙の器をいじっている。
「好きなだけじゃだめなんだよ」
「心は他の何ものにも勝って不実だって。あなたの口癖ね」
「ああ。……若くないんだ」
「言い訳ね」彼女が手の甲で涙を拭う。
「言い訳さ」
「……」
「もう決まってたことだよ」
「そうね。でも、三年間も一緒だったんだよ。それが今日で全部終わるなんて分かっていても心が言うこと聞いてくれないの」
彼女の掌の中の紙の器が握り締められ、ぐちゃぐちゃになる。
僕は何も言えずそれをただ見つめることしか出来なかった。
やがて泣き止んだ彼女は「さようなら」と一言残し、ドアを開け車から出て行った。
助手席にはぐちゃぐちゃになった紙の器が落ちていた。
僕はそれを拾い、広げて元通りの形に整えた。
皺くちゃになりプリントされた文字は完全に消え元が何の紙だったのかわからなくなっていた。
僕がその紙の器を所在無げに玩んでいると、何故だかしわくちゃな紙の器にぽつぽつと涙が落ちていった。