40:たまには素直に笑うのも
途中で見た時計は、ゆうに二十一時を回っていた。何度かケータイを使うことを考えたけれど、あたしは意図的に電源をオフにしたままで公園へ急いだ。
今日の選択を、あたしは間違ったものにしたくない。ひとつを選んだら、もうひとつは失ってしまうということをしっかり自分にも刻み付けておきたい――もし失ったとしたら、また頑張ればいい。
電車から降りて、駅から歩いて十分。つい早歩きをしたせいで数分早く見えた公園に人気はない。鼓動がどきどきと逸るのは急ぎ足のせいだけじゃないだろう。
「あ」
公園の入口が見えて、あたしはついそう声を漏らす。こないだは原付が止めてあった場所にはなにもない。どくんと、周りに聞こえそうなほど心臓が跳ねる。ブランコはもちろん揺れていない。急ぎ足のまま目をこすって見つめ直すと、片方のブランコに黒い影があるような気がする。
無意識につい駆け足であたしは公園に入り、ブランコへ向かう。靴の下で砂がじゃりっと思いのほか大きな音を立てて、あたしははっとして速度を緩めた。
ブランコの影は、人のかたちに――見える。
心臓がどくんどくんと跳ねている。緊張で指先が震えてくる。瞬きが増えるけど、目を閉じた瞬間に黒い影が消えてしまうんじゃないかと思ってあたしはそこから目が離せない。
目が慣れたのか距離が縮まったからなのか、黒影に茶色の髪が見えた。伏せた頭は、眠っているかのようにも見える。
あたしの足音が聞こえる距離になると、ゆらりとその髪が揺れた。胸が、痛い。ごくりと唾を飲み込んで、あたしはゆっくりと影に近づいていく。
声の届く距離であたしは立ち止まる。茶髪はゆっくりと頭をもたげ、そして――若原とあたしの目が合った。
いつもの余裕のある若原の表情とは打って変わった、驚いて見開かれた目の中に、あたしが映っている。
――ああ、やっぱり若原って、綺麗な顔してる。長いまつげ。通った鼻筋。肌なんて、あたしより綺麗なんじゃないかってくらい。
「えと」
大きな目がひとつまばたきをすると、やっと時間が流れ始めたかのようにぼそりと口火を切った。
「あ……オレ……」
二度、三度。まばたきを続ける若原の目に浮かぶ戸惑いが動揺に変わっていって、若原はぱくぱくと口を金魚のように何度か開く。その仕草がいつものと違って随分幼く見えて、あたしは思わずくすっと笑いを浮かべた。
その笑いは、若原の感情を動揺から安堵に導いたようで、やっと若原の綺麗な唇が弧を描く。弓なりに。
「……おっせーよ、腹減った」
ぎこちなく笑みを浮かべて、若原はそんなことを言う。いつもの余裕をなんとか取り繕ってる感がありありの顔。当然、今のあたしにそんな厭味は通用しない。
「ごめん、あたし満腹」
「……酷え」
おどけて言うと、若原は大げさにがくりとうな垂れてみせる。あたしの視線から外れた表情は、見えない。
数秒後、ゆっくり顔を上げた若原はにやりと笑う。
「許さねえ」
その顔はやっといつもどおりの若原で――取り戻したいつもの顔つきに余裕が浮かんでいた。
でもここは、あたしに断然アドバンテージが、ある。
「ごめーん」
「許さねえっつの」
「んもう、ごめんってば」
笑いが堪えきれず、くつくつと肩を揺らしながら言うあたしに、若原がムッとしてフイとそっぽを向いた。
「ゆーるさーないー!」
「え~?」
軽く返しても、若原はそっぽを向いたままだ。
「じゃ、いいや」
楽しげな声で、あたしは言った。いっつも若原にばっかり余裕のあるとこ見せられてた身としては、こんな風にからかえるチャンスは滅多にない。子どもみたいに表情の変わる若原が可愛くて、あたしは続ける。
「帰っちゃおっかなあ」
「オイコラ」
さすがに若原があたしへと視線を戻す。ニヤニヤ笑いのあたしと目が合うと、一瞬いやあな顔をする。
「お腹もいっぱいだしなあ」
「……オレ、愛されてないのね」
さすがにその台詞には笑いを堪えきれなくて、あたしは高らかな笑い声を上げた。ああ、幸福ってこういうこと言うのかなって、ちらり、頭を掠めてく。
笑うあたしを、若原は最初こそ不満げに見ていたものの、そのうち穏やかに笑みを浮かべる。笑いが収まったあたしと目が合うと、ふわりと表情を綻ばせた。
「ね」
「うん?」
優しい時間、って、きっとこういう瞬間なんだろう。柔らかくて穏やかで、でも泣きそうで。若原もあたしも、優しい気持ちで目を合わせたまま。
「抱きしめて、いい?」
「え?」
次の若原の台詞は意外なもので――あたしはつい、即答で聞き返していた。ふわふわな空気が、まるでシャボン玉みたいにぱちんと弾ける。
「……なんだよ」
「いや、ちゃんと聞くんだなあって思って」
まじまじと若原を見つめていたあたしは、思わず思ったままの事を口にしていた。
――だって前は有無を言わせなかったし、それに今までの若原の性格からしたらそういうときって何も言わずにそうしちゃうんじゃないかって、思ってたから。
「っとにうるっせーなー、あんときはあんとき! 今は今!」
心なしか、若原の頬が赤味をさしてるように見えた。照れくささを紛らわすようなぶっきらぼうな台詞の癖に、視線はまるで子犬みたいにあたしを見つめている。
「……ダメに決まってるでしょ」
「なんで」
「付き合ってもない人と、そんなこと出来ませーん」
「ちぇっ、がっかりー」
口で言うほど若原の表情はがっかりしていなかったのが、あたしには嬉しくて同時に淋しかった。脳裏に蘇るのは、中庭の二人。そう、淋しさの原因は、きっと、それ。
「ねえ、若原クン」
「……なに? 紺野サン」
わざとクン付けで呼ぶと、若原もわざと合わせてあたしの名字を呼んだ。真顔に戻りつつある若原にあたしはにっこりと笑ってみせてから、軽い口調を心がけて聞いてみる。視線は、合わせたままで。
「中庭の若原と……内沢さんのことなんだけど」
若原はぴたりと動きを止める。瞬きが増える。目が泳ぐ。何かを探しているような、考えているような仕草をひととおり繰り返して、そして若原は片手で口許を覆い隠しながらあたしから目を逸らした。
「えと、あの、あれは……ちょ、ちょお待って」
目を逸らしたままそう言うと、じっと見つめてるあたしをちらっと見てから今度は手で目元を覆う。頬から首筋、耳がさあっと赤くなっていくのがわかる。
ちょっと長めの沈黙のあと、若原は俯きながらあたしに向き直った。目元を覆っていた手は今度は首元を隠すように置かれている。
「……見られてたんなら、何言っても言い訳になっちゃうんだけど」
悪戯をした子どもが叱られているように、犬が耳と尻尾を垂らしてしょんぼりしているような殊勝な声音で若原はおずおずと続ける。
「あのオレ、えっと、あれはあの……雪緒曰く、『記念』だっつーことで」
「記念?」
一瞬、意味がわからなくて聞き返すと、若原はまた目を泳がせて焦った風に続ける。
「記念、そう、えっと、そーゆー対象に見られないってオレ、最初っから雪緒には何度も言ってたんだけど、えっと、あいつ、じゃあ最後に記念に、って」
若原の言葉を、あたしは脳内でもう一度咀嚼しなおす。ええとまず、若原は内沢さんのこと――?
「けっ、けど、してない! 寸前で止めたし、オレ――!」
「わかった、わかった、わかりましたー」
整理する前に、若原が焦り顔で続けるのをあたしはまず止めた。ええっと、まず?
『そーゆー対象に見られないってオレ、最初っから』
若原の必死な声が、一瞬あたしを微笑ませる。ふうん、なんだ、そっか。――でも、内沢さんは、本当に本当に若原のこと、好きだったんだね。最後に記念に、って言いたくなるくらい。
ちょっと切なくなって、あたしは俯いてゆっくりと視線をずらす。
「ゆーこちゃん」
どきりとする、若原の真面目な声。ずるい、こんなときに。あたしは黙ったまま視線を動かさない。
「オレ」
「ねえ、若原」
若原の声と、あたしの声が重なる。視線を上げた先では若原が妙に真面目な顔をしていて、あたしの心臓はまたもどきりと跳ねる。
それを押し隠そうとあたしは大きく息をつくと、口許をゆるませてにっこり笑う。
「……握手、しよう」
「握手?」
「そう。ありがとうと、よろしくねの、握手」
若原は、差し出されたあたしの右手をしばらくじっと見つめる。震えるな、あたし。
ちらりとあたしを見るのへも笑顔で返すと、若原はちょっと肩で息をついた。そしてブランコから立ち上がってやっといつもどおりの余裕ある笑顔を浮かべる。
「しょうがない子だね、ホントに」
あたしの手を、若原の手が包む。大きな、あったかい手。若原はぶんぶんぶんと三回振ってからぎゅっと力を込めた。
「オレをどれだけ焦らせばいいワケ?」
「え?」
思わず真顔で見返すと、若原もいつのまにかまた真面目な顔に戻ってた。いつもの遊び半分じゃないその表情にどきどきするのを顔に出ないように、あたしは吐息と一緒に唾を飲み込む。
「一年の夏休みから、ずっとオレ、ゆーこちゃんを見てた」
一年の……って、まだあたし、若原のこと、知らない。ううん、本宮ともまだ知り合ってないときだ。
あたしが考えてることがわかるかのように、若原は「そゆこと」と短く言うと、握手の手を離す。ふんわりと風が手のひらを通る。あたしは、若原から目が離せない。
「それからずっと、ゆーこちゃんを見てたよ。オレって結構一途じゃね?」
茶化した言い方はたぶん、あたしのためだと思う。思わず息を止めてたあたしは、ふうっと大きく息をつく。
「……バカ」
「バカで結構」
若原の、余裕じみた笑顔が憎たらしい。あたしはちょっとムッとして、わざと続ける。
「バカね、ホント」
「あんま繰り返すなよ、傷つくのよ、オレも」
「バーカバカバカバカ」
軽いやり取りはまるで、いつもと同じだった。どきどきも緊張もなく今までどおりの若原とあたしの立ち位置は心地よくて、あたしはムキになって続ける。
「あのね……可愛くないねえ、そゆとこ」
溜息と一緒に吐かれた、ちょっと呆れたような若原の口調にあたしは「いいもーん」と、つんとそっぽを向く。
「でもさ」
ちらりと横目だけ若原に向けると、その視線の先で若原が首を傾けながらにっこり笑う。
「そーいうとこも、好きなワケ」
と言うと、いきなり視界いっぱいに若原の、胸。握手のときはてのひらに感じていた温もりが、今はあたしの背中に回っている。
「抱ーきしめちゃった」
頭の上で、そんな楽しげな声がして、あたしは頬や耳が熱くなるのを自覚した。
それを若原に気取られる前にと、
「もう!」
と、ちょっと乱暴に腕を振り解き、文句のひとつでも言ってやろうと見上げたあたしの目の前に、「ホイ」と若原が自分の手を差し出した。
「……なによ」
「手」
あたしは思わず、不機嫌な声で聞き返す。上目遣いで睨んでも、若原はにこにこ顔のままだ。
「なんでよ」
「手!」
差し出されたままの手を見て、あたしはちょっと躊躇する。いや、ともだめ、とも言えず、なんて返していいかわからなくて困ったあたしがさすがに表情を解いて若原を見上げても、にこにこして手を差し出しているだけで。
……もうホント、バカなんだから。
あたしは耳が熱くなるのを感じながら、勇気を振り絞る。――素直になれる勇気を。亜矢に分けてもらった勇気を、どうか。
少しずつ、その手に向かうあたしの動きを、若原は急くこともなくずっと待っていてくれた。指先が触れて、そしてそのてのひらの中に自分の手を滑り込ませて、きゅっと握り締める。あったかい、若原の体温。握手とは全然違う、柔らかい感触。おずおずと緩めかけるあたしの手が、確かめるように握られた。
「送ってったげる」
「ん」
若原がどこか恥ずかしそうに言うのへ、あたしも素直に頷いた。その反応にちょっとびっくりしたように一瞬若原は瞠目するけれど、嬉しそうに笑って、頷きを返す。
頬が熱くなる自覚があった。きっとあたしのほっぺたは勿論、耳も首筋もみんな、赤く染まっているだろう。明るい陽の下ではもしかしたらこんな風に出来なかったかもしれないと考えると、亜矢の怒った顔がまぶたに浮かぶ。――亜矢、ありがとう。
つないだ手から、若原の温もりが伝わってくる。あたしの体温も、若原につながっていく。気持ちがつながるのは、きっとそんな遠くない明日なのかもしれない、と、あたしはもう一度、きゅっとつないだ手に力を込めた。
fin
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