『おう、鏑木さんか。ご苦労さん』
幾つかの簡素な事務机が並ぶ小さな事業所。一番奥の机から、よく通る声が祐佳の耳に飛び込んできた。
何人かの社員の視線が、声の先にいる若い営業員に向かう。だがそれは一瞬の確認でしかない。淡いグリーンのスーツに締まる身体を包んだ女は、所長の挨拶を受けて深々と頭を下げた。
一秒、二秒…… いささか丁寧過ぎるかな、そう祐佳も思わないではない。所長の言い様に含まれる鷹揚さに比べればだが、その親密の度合いが自分ではなく、鏑木という特徴ある自社名に向けられていることを、祐佳は熟知していた。
『お忙しいところ失礼します。本日は六月期の点検にトナーの交換と……』
そこで祐佳は溜めを作り、清潔に整えられた短い髪を肩の上に戻した。
『……と、新しい機種のカタログを持参しました。それで五分ほどで構わないのですが、お時間を頂きたく――』
『ああ、それならそこの棚にでも置いといてくれ。あとで目を通しておくから』
簡潔にまとめられた返答。殊更、無下に放たれた言葉ではない。言わば常套文句なのだが、祐佳を貫いた言葉の矢尻には、鈍い衝撃を伴う無情の毒が塗られていた。
――失敗した。祐佳を掠める重ねた経験からの失調。昨日今日、従事している仕事ではないというのに。
営業職に着いてから四年もの月日が流れている。挨拶と同時に切り出すなど、研修中の新入社員でも犯さない愚に違いない。
『そうですか、分かりました。……それでしたら所長の机の方に、置かせて頂きますね』
まずは承諾して、一旦、引くこと。そして真剣な瞳の中に若い人間だけが使い得る、憐憫さを誘う色をこめる。これも祐佳の経験から次に繋ぐ、未然の仕度だった。
所長は何も言わず、何も言えず、首筋に手をかけた。そんな僅かな隙。祐佳は足早に近寄り、他より上等の事務机ではなく、所長の手に直接カタログを渡した。
『この機種なんですけど……』
カタログに付けられた桃色のクリップ。そこに挟まれている祐佳の名刺が微動する。それは誇らしげに震えているようでもあった。
*****
副都心、ビルの合間を縫うように佇む緑林公園。昼時とあって一様のスーツ姿のサラリーマン、OLが目につく。燦々と降り注ぐ真昼の太陽光が、それぞれの姿を眩さに溶け込ませ、陽炎を生み出していた。
ふう、と息をついて祐佳は公園のベンチに腰を下ろした。コンビニで買ったサンドイッチを啄みながら、午後に回る予定の法人リストを眺める。あと二十社は回らなくてはいけない。
今度はハア……と、深い息を吐いた。軽くこめかみを押さえ、残りのカタログ数を横見する。
(……あ)
名刺が数枚しか残っていないことに気づき、祐佳は沈痛な面持ちで頭を振った。
(何やってんだろ、わたし)
目頭を指で摘む。祐佳は三度目となる溜め息を漏らした。
名刺を補充して来なかった自分を恥じたわけではない。それ以前に何度、渡しても名前を覚えて貰えない悔しさが、じんわりと寂寥感を募らせたのだ。
先ほどの会社だけではない。ほとんどの訪問先、馴染みの取り引き会社でも、自らの名ではなく鏑木商事の人、そんな認知のされ方で終始されている。
確かに平凡な姓名ではある。日本で佐藤、鈴木に次ぐだろう。しかし同じ人間ではない。営業しているデジタル複合機。そのコピー機能で刷られた、複製人間では無いのだ。
【――営業とは商品、企画を売る仕事ではない。自分を売り込み、買って頂く仕事だ。まずは名前を覚えて貰えるよう、頑張れ!】
祐佳が入社した当初、ついて教えてくれた先輩の言葉だ。その助言に支えられて、数年。自分の望まない自分を切り売りしてきた。
大好きなアクセサリーはつけない。本来、落ち着いた質感を好むスーツも、若さや元気良さが映える、明るい色合いに。そして営業スマイル。それらは社会人として当たり前のことだ。
その当たり前を違和感無く、こなさなければいけない。普段から仕事用の装いを馴染ませる。普段から自然な笑みを意識下に刷り込む。いない恋人に接するような笑顔を作る。作ったことを悟られないように、作る。――作る ――また作る。
だから昨日も笑顔。今日も笑顔。そして明日も――
けれど、それが限界という名の境界線を越えるギリギリまで、いや、越えたかも知れないと、祐佳は最近、囚われ始めてきていた。
【名前とは、その人間のアイデンティティを示すものだ。まずは覚えて貰え、そしてお客さんに可愛がって貰え。そうすれば――】
(……すれば、結果は後からついてくる、か)
祐佳は頷きながら、続いた回想を打ち切った。スーツに刻まれた濃緑のしわを整え、背伸びしてベンチから立ち上がる。
(うん。わたしは、わたしだ)
自身にしか納得出来ない理屈で、心の内に決着をつけると、祐佳は元気よく両腕を伸ばした。そして堆く積まれた、熱気の渦中へと飛び込んでいった。
*****
『こ、これですか』
祐佳は渡された名刺……が並ぶA4サイズの印刷物を見て、怪訝な表情を浮かべた。
『これも経費削減って奴さ。まあ消耗品だからな』
そう言って業務を担当する上司は、きちんと作られた名刺は今後、発注しないことを伝えてきた。
(消耗品……か)
自分のデスクに戻りながら、祐佳は先ほど奮わせた気力が、減退していくのが分かった。椅子を引いて下ろした腰も、どこか鈍い。
祐佳は受け取った名刺の元を、丁寧に折り畳み、切り分けた。同じ名刺が一枚、また一枚と生まれていく。全く同じ複製品。幅数ミリの側面に刻まれる荒い斜線が、受け取る相手へ送る、僅かな品位をも奪っていた。
【――いいか、今の若い社会人には分からないだろうが、これからお客さんにする管理職クラス。古い人間ほど、しっかりと作られた真っ直ぐな名刺を好む】
祐佳の脳裏に懐かしい先輩の声が、再びよみがえってくる。
【最近、乱造されてる簡易プリント。あれで印刷する名刺には注意しろよ。その側面に斜線や、切り取った時の跡が出来るからな。見る人が見ればすぐ分かるんだ】
(…………)
【いいか、そうゆう細かいところも気をつけるんだ。特に営業の場合は自分を買って貰うための、大切なパスポートなんだ。決して安売りするなよ】
祐佳は渇く下唇を噛み潰した。胸中から湧き上ってきたのは、この数年で磨り減らして、尚、微かに残るプライドだった。
(わたしは粗悪品や複製品じゃない。わたしは……)
世の中で唯一の存在になりたい。そこまで言わなくても、祐佳は個性ある一人の、名前のある人間でありたかった。
きっと今でも在籍していたら、先輩は今の会社の現状を嘆いただろう。祐佳は去年、独立して起業していった先輩を思った。
(……おかしいな。なんで今日に限って、何回も思い出すんだろう)
自分を安売りするなと教えてくれた先輩。お客さんに可愛がって貰えと、自分を可愛がってくれた年上の異性。
疲弊した胸に去来する先輩への憧憬。響き残っている泰然とした声。思い出すことは彼女にとって、それが自分を再確認するための儀式かもしれなかった。
祐佳は揃えた名刺をケースに収めて、時刻を確認した。机の片隅に置かれた電話機のデジタル表示で、午後の計画を組み直す。
(途中で先輩の仕事場に寄ってみようかな)
思わず笑みが透けたような気を自覚して、祐佳は辺りを見渡した。社内の時間は普段通り、たおやかに気を止めることなく流れている。
机の引き出しを開けて、残り少ない真っ直ぐな名刺を取り出す。それを祐佳は大事そうに、名刺入れではなく、営業用の色あせたバッグの内ポケットに入れた。
再び軽さを取り戻し始めた足を、規律よく動かし、弾み歩く。靴音で奏でるメロディ。祐佳は凛とした風体をなびかせながら社外に出た。
初夏を感じさせる変わらない陽光は、辺りの群影を溶かし、人々を茫漠然と揺らめかせている。そんな中、祐佳は歩き続けた。
いつか名前だけではなく、自分の存在を覚えて貰うために。その前に自分の存在を意識してくれてた……ように、期待出来る先輩に会うために。
祐佳を包む若草色のスーツは、まだまだ新芽の装いを新たにさせるように、ビルの谷間へと伸びていく。
そんな彼女の姿は遠目から見ても、居並ぶ雑多な人々の中で、確実に存在の輝きを示していた。
|