また、靴紐が解けた。きっちり結んだはずなのにまた解けてしまう。結び直そうとしゃがむと雨上がりの湿気と相まってアスファルトが八つ当たり気味に熱気をもろに顔へ直撃させてくる。
「あぁ〜暑い」
途中で諦めて汗を拭う。
「ぼくがやってやるよ」
彼が世話を焼こうと腰を下ろす。彼の顔が真正面にくると顎に柔らかい髭の剃り残しが目に入った。
私とのデートなのに……。
「いいわよ」
私が強めに拒むと彼は苦笑いをしてやや距離をとる。その仕種を見ているだけでイラッとして靴紐を結ぶと縦結びになってしまった。2つのループが縦に並んで格好悪い。私はピンク色の絆創膏をバッグから出してループの結び目を摘み、横に曲げると絆創膏を貼って留めた。
「おいおい」
彼はそんな私の不器用でいい加減なところを見て、珍しく呆れたような態度を取った。
「悪い?」
私はキッと彼を睨む。
「そんなこと……ないよ」
彼に私の行為を無理やり容認させた。
「私は絆創膏が好きなの」
ちょっとした傷、または少し皮が剥けただけの傷とはいえない傷ができると私はすぐに絆創膏を貼る癖がある。幅19ミリ、縦72ミリの絆創膏を直接肌に接着させたときはもちろん、身につけている物に貼るだけでも心が引き締まる気がするのだ。
「行くよ!」
私は早歩きで彼を置いていく。
俊弘とは幼稚園からの幼馴染み。熱々ハンバーグの上にのっているバターが溶けない距離に彼の家があったけど、地元の高校でクラスが一緒になるまでまともな会話なんてしたことがなかった。
お互いのお母さんが仲良しというだけで一緒に遊んだことなんてない。幼稚園のとき私が「遊ぼう!」と声をかけると俊弘は逃げていってしまった。照れていただけだとは思うけど、私にはいまだに頭から離れない忌々しい記憶として残っている。
2ヶ月前のクラス替えのとき、名簿が張り出された掲示板を見ていると俊弘が話しかけてきた。
「優奈、同じクラスだな」
「そうね」
親しくもないのに馴れ馴れしく呼び捨てにされたので私は素っ気なく振舞った。“優奈、やっと同じクラスになれたね”なんて言われていたら蹴りをいれていたところだ。
はじめて会話をしてから1週間後、同じクラスの聡美と帰り道で別れると、それを待ちかねていたのか俊弘が後ろから走ってきて私の隣に並び、歩く速度を合わせた。
「よぉ、帰り?」
当たり前だろ!と思いながら私は幼馴染みのよしみで軽く頷いてあげた。
「優奈、誰とも付き合わないのか?」
そらきた!と、私は内心勝ち誇った。クラス替えのとき、話しかけてきたのは私に気があるからだろう。でも、俊弘は私のタイプじゃなかった。彫りが浅くきつね目で実際の年齢より幼く見える。体の横幅が薄く、ヒョロとして線が細い印象は否めず、私はどちらかといえば沖縄に住んでいるような彫りの深い濃い顔のほうがタイプなのだ。
相手を傷つけない程度の台詞を考える前に俊弘の質問に答えてやることにした。
「いい男がいないからよ」
あえて高飛車な女になりきって嫌われる材料を与えた。
「そうなんだ。じゃあな」
俊弘が明るく手を振って別れを告げた。拍子抜けした私は立ち止まり、よくわからないが悔しさがこみ上げてきた。
なんだったのいまのは?
次の日の朝、私は屈辱感を引きずりながら家の玄関を出た。すると俊弘が私の肩を叩いて声をかけてきた。
「よっ、おはよう!」
やけにさわやかな挨拶をしてきた。私も礼儀としてひと言かえそうと思ったそのとき……。
「付き合おうぜ」
俊弘の不意打ちの告白は私の胸をキュンとさせ、不覚にも頷くという動作まで引き起こしてしまった。当然のごとくそれをOKの返事と受け止めた俊弘は笑顔を残して離れていく。
「ちょ、ちょっと待って……」
私が返事を撤回するために呼び止めた声は浮かれ気分の俊弘には聞こえなかった。それからは彼のペースで時間が流れ、デートを約束させられるはめになり今日に至った。
「せっかくの初デートなのになんでそんなに怒ってるんだ?」
追いかけてきた俊弘が面食らった表情で訊いてくる。断りきれなかった自分も悪いけれど、私が惚れていると勘違いされていることにも腹が立っていた。
「映画を観たらさっさと帰るからね!」
「そんなぁ〜」
俊弘が甘えるような声を出してきた。私のイライラは頂点に達して早歩きに拍車がかかる。集中力が欠け、前を見て歩いていたのに、なにも見ていなかった。
俊弘の“あっ!”という空気が抜けるような叫びが背後から聞こえた。
私が振り向くより先にタイヤとアスファルトが擦れる耳障りな音と焦げた臭いが鼻をついた。
★
★
★
「痛ったぁ〜い」
私の口から言葉が出た。ということは生きているんだと安心した。腰を上げようとするとフワ〜と信じられないくらいの強い浮力で体が持ち上がる。体中を触ったがどこも痛くない。
私って頑丈だなと思いながら周りを見たら四方が青空。
ここはどこ?
キョロキョロしているとなにやら下の方が騒がしく視線を下ろしてみる。
横断歩道に横たわる私の背中が見えた。涎のように口からだらしなく血を流し、ありえない方向に首が曲がっている。6メートル先に横転した750ccクラスのバイクの脇で運転していたと思われる男の人が腰を抜かしてフルフェイスのヘルメットを脱ぎ捨てると蒼白い顔をさらけ出した。交差点の真ん中でトラックが急停止し、ドアを開けて運転手が飛び出す。
きっとトラックの後ろを走っていたバイクが交差点で左折しようと、歩道とトラックの狭い空間を狙った瞬間、赤信号なのに横断歩道を渡ろうとした私を撥ねたのだ。
「優奈!」
俊弘が私の体にしがみつく。
そんなドラマのようなことしたって生き返るわけないのに……私の頬に涙が伝った。
その後、私の体は救急車で病院に搬送され、電気ショクと担当医が手動で行う心臓マッサージが繰り返されたが、それらの蘇生処置の甲斐なく、私の体に死亡時刻が宣告された。
俊弘はしばらく呆然としていた。それから何かに気づいたようで慌てながら携帯であっちこっちに電話をかけはじめる。口がうまく回らず、泣き声まじりでなんとか説明していた。
病院へ最初に駆けつけてきてくれたのは担任の先生、それからほどなくして両親がやって来た。泣き崩れるお母さんに俊弘は「ぼくがデートに誘わなかったらこんなことに……」と声を詰まらせた。
そうよ、あんたのせいよ!
私は聞こえないのをわかっていながら俊弘に向かって悪態をついた。病院の天井で漂う虚しさを埋めようと底意地の悪さを出してしまった。
それからの私は俊弘の後を憑いて回った。
肩を落とし、食欲もないようで相当落ち込んでいる。私以上に幽霊に見えてしまう。神様の機嫌によって私はいつ消えてしまうかわからない。最後に慰めの言葉でもかけてあげられたらと思ったが、叶いそうもない。
私の死が俊弘の心にどれだけの傷を負わせたのか知ることなんかできない。できることなら私がいつも持ち歩いていたピンク色の絆創膏を貼って傷をふさいであげたい。
「ゆ……う……な」
俊弘が自分の部屋に一人で居るとき、私の名前をポツリともらした。
馬鹿ね……私のことなんか早く忘れちゃえばいいのに……。
日を追うごとに私の名前を呼ぶ頻度が増え、私は俊弘が心配になってきた。予感は的中。俊弘はフラ〜と外へ出て車通りの激しい幹線道路に向かっていく。重い物を背負っているかのようにその歩き方には元気がなかった。
俊弘が向かったのは私がバイクに撥ねられた交差点。縞模様がペイントされた舗装面をジッーと見詰めている。信号が青なのに歩こうとしない。
俊弘……まさか。
歩行者用の信号が赤へと変わる。俊弘が歩く歩道のエスカレーターに乗っているような膝を使わない足取りで横断歩道の白線を踏んでゆく。俊弘の存在など気づかずに猛スピードで車が向かってきた。
私は無我夢中で車に突っ込んだ。が、車は抵抗感なく私の体を通過していく。
「俊弘!」
私の叫びは届かず、車が俊弘を突き飛ばした。
★
★
★
「キャッー」
という絶叫をしてハッと目が覚めた。自分の声で起きてしまったようだ。お母さんが私を凝視して“あらっ”と軽薄な声を上げた。泣いて抱きついてくるんじゃないかと思った私は母親の態度に意表をつかれ、少し落胆した。
「私は車に撥ねられたのよね?」
お母さんの袖を引っ張り尋ねた。私の腕に包帯は巻いてあったが、問題なく動かすことができた。
「覚えてないの?正確には撥ねられそうになって……軽く頭を打ったけどレントゲン検査ではなにも異常がなかったのよ。あとはすり傷だけね」
お母さんに余裕があるのは私のケガが死に至るものじゃなかったから慌てもしなかったみたいだ。だけど、途中で間を空けたのが気になった。
「私は確実に車に撥ねられたはずなのに……そうだ!俊弘は?俊弘は大丈夫なの?」
「506号室に……」
部屋番号が思考回路にインプットされると私はベッドから飛び下りた。お母さんがなにか言ったかもしれないが耳を貸さなかった。
スリッパも履かずに冷たいリノリウムの床を蹴って廊下を疾走し、階段を駆け上がる。息を切らして506号室の前に立った。
『木村俊弘』のネームプレートを確認して入ると穏やかな空気が病室を包み込んでいた。首と足にギブスをつけているが、俊弘は隣の患者と親しげに会話をしていた。
「馬鹿!」
私は怒鳴って俊弘を振り向かせた。
「優奈、目が覚めたのか」
俊弘はギブスしている方の腕を軽く持ち上げて元気なことをアピールする。
「なんであんたがケガしてるのよ?」
私はヒステリー気味に尋ねた。
「おれ、優奈を思い切り突き飛ばしたから……ごめん」
張り詰めていたものが一気に噴出しそうになり目に涙が滲む。私は泣き顔を俊弘に見せないために病室から出た。
「お〜い、優奈」
俊弘の情けない声が聞こえる。私は病室の出入口のすぐ傍で壁にもたれて幸せを噛み締めていた。
愛情の欠片が剥がれ落ちないように心の絆創膏でしっかり彼を繋ぎとめようと心に決めた。
〈了〉
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