最初に話し始めたのは船乗りの制服を着た青年だった。
「僕はずっと大きな海に憧れていたんですよ。小さい頃から船乗りになるのが夢でね。念願叶って船乗りになって、やっと仕事にも慣れてきた」
そう語る青年は楽しそうだ。きっと昔のことを思い出しているのだろう。
そんな彼を見て、話を聞いていた老婦人はただ一度目を閉じた。窓の外からは海の音が響いて聞こえてくる。
「僕、頭よくないから仕事覚えるのも人一倍時間がかかっちゃって。ようやく一人前って言ってもらえたと思ったら、これですよ。ほんとにツイてないですよね」
言いながら持っていた松葉杖を、軽く上げて老婦人の方に見せた。
青年と老婦人は今日この場で出会ったばかりで、お互いのことは全く知らない。だが、椅子に腰掛けている青年の右足の膝から下がないことは見てすぐにわかった。移動するだけでも大変そうにしている彼には船乗りの仕事はできないだろう。
「足は……?」
「資材の下敷きになってしまって。偶然の事故でね。運が悪いとしか言いようが無いんで、誰かを恨むわけにもいかないですし。死ななかっただけでも儲け物だって言われちゃいましたよ」
青年は努めて明るい口調でそう言った。そんな彼に、老婦人は微笑みかけた。
「でも、あなたは仕事が本当に好きだったんですね」
青年は、その言葉に笑顔を返す。
「ええ。船乗りを続けられないのなら死んでしまった方がいい、と思えるくらいにね」
老婦人はその答えがわかっていたかのように、小さく一度うなずいた。
薄暗い部屋に灯っていたランプがゆれて一瞬暗くなり、また明るさが戻った。
「……あなたは、何故ここに?」
今度は青年が老婦人に尋ねた。
彼女はやはりゆったりと微笑み返す。
「家に帰っても私を出迎えてくれる孫がいないのよ」
彼女の瞳には悲しみの色はなかった。それどころか何の感情も映していない。それなのに笑顔はとてもやさしい。
「孫はいつもね、私が家に帰るとまっさきに、おかえりって飛び付いてきてくれたの。とてもいい子だったわ……」
過去形で語られたその言葉は、淋しげに響いた。青年は、老婦人の横顔にそっと目を遣るが彼女の表情に特に変化はみられなかった。相変わらず微笑をたたえている。
「今でも、自分を責めるときがあるんですよ。あの日、もし私が家を留守にしなかったら孫は強盗犯に殺されなかったかもしれない、ってね」
青年は口をはさまなかった。ただ、老婦人の次の言葉を待っている。
「……その強盗犯を私自身の手で殺そうと思ったんです。警察に捕まったとはいえ、孫を殺した人間が生きてることが堪えられなかったわ。もちろん、そんなことをしても孫は喜ばないだろうことは承知の上でね」
老婦人は淡々と台詞を読み上げているかのように言った。
「そうですか。それは、とても悲しい、ですね」
青年は思ったままを口にした。
「ええ。悲しい、ですわね。ほんとうに」
老婦人は、あきらめとも安堵ともとれる小さなため息をついた。青年もそれに同意するかのように何も言わない。
部屋は不気味なほど静かだった。何故こんなにも静かなのか不思議に思えるくらいだ。
「明日には、僕は自分の故郷に帰る予定だったんですよ。足を怪我したと両親に連絡していたんですが、まさか足がなくなってるなんて思っていないでしょうし。正直、両親にそれを知られるのも怖くてたまらない」
ぽつりと青年がそんなことを漏らした。老婦人に話し掛けたというよりは、思わずこぼれた言葉のようだった。
「あら。それでもご両親はあなたが元気に帰って来てくれたらお喜びになるわ」
老婦人の瞳に、一時だけ光が揺れた。
「そうかもしれません。それでも僕はこの海と一緒にいたいんですよ。……馬鹿げてると思いますか?」
少し照れたようにそう語る青年の表情は、どこかすっきりとしたものに思える。そんな彼を見て、老婦人もつられたように笑った。
「いいえ。……私は、もう世の中の煩わしい事には心を動かされたくないと色々なモノを断ち切ってきたんです。あなたのように思えることが羨ましいですわ」
老婦人は、言いながら自分の鞄の中から小型の拳銃を取り出してテーブルの上に置いた。
「今までなに不自由なく暮らしてきましたが、孫を殺された憎しみだけでこんなものを用意して。犯人が仮釈放される日を調べて。明日にはこれで犯人を殺してやるつもりでした。もう船に乗るのもこれが最期だと覚悟はしていたんですけどねぇ」
老婦人は苦笑まじりで言った。彼女も、青年に話を聞かせるというよりは自分自身に語りかけているようだった。
「僕だって、最後の航海と思っていたんですけど、ほんとにその通りになっちゃいました」
青年が窓の外に向かって呟くように言う。老婦人もそれにならって窓の外を見た。
「皆さんはもう救命ボートで脱出できたかしら」
「ええ。小さい旅客船ですしボートの収容人数も充分ですから、僕たちみたいに自分の意思でこの船に残らない限りはちゃんと避難できたと思いますよ」
「そう。それはよかったわ」
漂流船との接触で船体に傷がつき、海水が流れ込んで船体を立て直すことは不可能と判断されたのは少し前だった。救命ボートで避難する人の流れに逆らうようにぶらぶらと船内を歩いていた老婦人は、たまたまこの船室の椅子に座っている青年に出会ったのだった。
「もうすぐこの船は沈みます。僕はずっと仕事をしてきたこの船と運命を共にできてよかった……。不謹慎ですが、今日この時に船が事故に遭ったことは神の思し召しだと思えますよ」
神の思し召し……。
老婦人もその言葉を心の中でかみしめる。しかし彼女は、そうではないと思う。
「ええ。私も、憎しみだけで人を殺してしまえば、孫に顔向けできなくなるところでしたわ。わかっていたのに、自分では止められなかったんです……」
その時、急激に船体が傾くのが感じられた。船室のドアを突き破り物凄い勢いで水が流れ込んできて、あっという間に二人を呑み込んだ。
老婦人は、こんな偶然の事故でまだ若いこの青年を死なせてしまってもよかったのだろうか、とぼんやりと考えていた。
だが最後の瞬間に見たお互いの顔は、心底ほっとしたという表情だった。
これでよかったのだ。
青年の小さな誇りも、老婦人の歪んだ憎しみも海の底に……。
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