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夜空と名のアリア
作:黒桐梓


 ――彼女は奏でる。哀しみと夜の協奏曲を……
 私の本当の名前を教えてください、夜空の女神様。

 ――街を彩るイルミネーション、帰り際に混む交差点。すっかり辺りが暗くなってしまった。
 星埜 ほしの そらはピアノのレッスンを終えて夜の人込みの中を歩いていた。

『すっかり暗くなっちゃったなぁ……』

 空はこのままでは最終電車に乗り遅れることを予想して足早で人込みの中を駆け抜ける。ロングヘアーの黒髪を揺らしながら。空は急ぎ足で駅のホームの階段を昇る。
 遅くあまり人のいない駅のホームに息を乱しながら階段を昇りきった空はまだ最終電車が来ていないのを確認した。

『ふぅ……間に合ったぁ…』

 と、ホッと一息つくと空は自動販売機の前に行き120円を入れて、温かいミルクティーのボタンを押した。
 機械仕掛けの音を鳴らしながら自動販売機の取り出し口に落ちてきたミルクティーを取ると、空は缶の蓋を開けそれを口に付けた。
 少し控えめに。喉の音を立てながら口に含んだ。

『うん、寒いときにはやっぱりミルクティーだよね』

 それから口を付けては飲み、の繰り返しを続けてやがて飲み干すと、缶専用のゴミ箱に捨て響き渡るような音を立てて缶はゴミ箱の中に落ちていった。
やがて騒音のような音を立てながら電車が来て空はそれに乗った。



 ――朝
 空は殺風景な小部屋の中でひたすらピアノと向き合っている。
 空はピアニストだ、今日もコンサートのために朝から白と黒の鍵盤と闘っている。押す力の加減で音が微妙に変わってしまう世界だ、自分の指先で奏でた微妙な音で明日には何も無くなってしまうかもしれない…

『空さん、そろそろ本番です!』                           

小部屋の扉を開けてスタッフの吉田が空を呼びに来た。

『あ、はい。今行きまーす!』

 空はスタッフに明るく返事を返し真っ黒のチェアから立ち上がり小部屋を後にした。


 空は名の知られたピアニストだ。
 つまりこのコンサート会場は壮大な広さを誇っている。観客数はおよそ2万人、空が優れたピアニストと言うことを証明している。今、会場内の電気が消え舞台に明かりが着いた。
観客から波のようなざわめきが起きる。

『この雑談のあと演奏して頂くのは!゛天使の奏゛との異名を取る星埜 空さんです!では登場して頂きましょう!』

 真っ黒のタキシードに身を包んだ司会者が観客に向かってそう言うと会場は一気に盛り上がった。
最高潮中、ステージの横からゆっくりと姿を現した空の顔は当たり前と言うべきか、冷静である。
 ステージの中央で観客に顔を向け深々と一礼した。天使のような微笑みを見せながら。
 そして司会者からマイクを手渡された。マイクを口に近づける際に小さすぎる一息を入れた、もちろん観客に聞こえないくらいの。

『こんにちは、星埜 空です!今日はわざわざこの場に来て頂きありがとうございます。今日、皆様に演奏させて頂く曲は     
ベートーベン作曲
 「月光」
バッハ作曲
 「G線上のアリア」
の二曲です!』

 空は再び一礼をして司会にマイクを返すとステージ上の左寄りに置かれているピアノの真っ黒のチェアに腰を降ろした。
 目を閉じる。月光の楽譜が頭に流れ込みそして鍵盤に手を置いた。

『……では弾いて頂きましょう、月光。お願いします…』

 ――そして月光の奏が会場に響き始め観客に静の時が流れ込む。
 空はその目を鍵盤に集中させ体全体を使って月光を奏でる、指先のタッチに気をつけながら。
そして次の曲、G線上のアリアも奏でコンサート会場は冷めぬ熱気に包まれた。
 空は最後の音を弾き終わると冷め止まぬ喝采の中席を立ちステージ上の中央に来ると静かに一礼をした。



 ――コンサートが終わり空は自宅のマンションに帰ってきた。
 部屋の時計に視線を移すと既に8時を回っており辺りは夜空に包まれている。
 空はコンビニで買ってきたインスタントのミートソーススパゲティーをビニールから出し電子レンジで温め、そしてそれをフォークで絡ませて口に運んだ。
 食べ終わるとふとポストの手紙を確認するのを忘れていたことを思い出した。
ミートソースで汚れた口をタオルで拭き、空は外のポストへと向かった。
寒い夜の中、白いポストは錆びた音を立てながらその口を開く。中には手紙が四、五枚放り込まれていた。

『……またコンサートの招待かな?毎日毎日、困るんだけどなぁ…』

 と、一枚一枚確認していく、どれもこれもコンサートの招待の手紙だ。
 すると一通だけ他のコンサート招待の手紙とは明らかに違う水色の手紙を見つけた。

 送り主は……不明。書いていない。

『誰からだろ?送り主の名前は無いし……』

 興味本位からおもむろに手紙に貼ってある赤いシールを剥がして中に入っていた一枚の紙を取り出した。丁寧に折り畳んである白い便箋を開き書いてある文章をゆっくりと読み始めた。


『はじめまして、星埜 空さん。現在はピアニストとして活躍しているのを小耳に挟みました。
さて、あなたは親に捨てられて孤児院で育ったために自分の本当の名前を知りません。
私はあなたを知る者。
明日、18時に某県茜実市の小金澤工場跡で待ってます』

 空は寒い夜空の下で硬直してしまった。
自分が孤児院出身ということは当時、他に住んでいた孤児達と園長しか知らない筈。
―――何故?
 空は以前からこの名が本当の名前ではないことを知っていた。
今も休みが取れれば自分の名前を知りたくて外に出て探している。

 (明日……18時に小金澤工場跡…。そんなに遠いところでもない。確か明日は久々に休みだから、行こう。この人の元へ。私の本当の名を確かめに!)

 ……風が冷たくなってきた、空は手紙を握りしめて部屋に戻った。



 ――夕方。
 空は電車に揺られながら小金澤工場跡へと向かっていた。
 紅の夕日が頬を茜色に染めている。
周りは学校帰りの学生や会社帰りのサラリーマンで混雑していて空も先刻、やっとのことで座れたところなのだ。
電車はその大きな車体を揺らしながら各駅に止まっては走り去っていく。
 やがて茜実駅に着き空は電車を降り。
そして改札口に切符を入れて茜実駅を後にした。


 ――小金澤工場跡は人を飲み込むのを待っているかのように茜実市の外れに聳え立っていた。
まるで城のように暗黒に聳え立つ小金澤工場跡の中は思いのほか暗い。
空はこうなるだろうと思い用意して来た懐中電灯を取り出すと勇気を振り絞り中へと入って行った。

 空は工場内を足早に進んで行く、未だ取り残されている鉄パイプやコンクリートの塊やらを慎重に避けながら。
やがて目の前に赤く錆び付いた扉が姿を現した、かろうじてドアノブが付いているようで空はそれを握り扉を押した。
扉は軋むような音を立てながらその先の道を導く、暗闇の世界は恐怖を漂わせ空の恐怖感は一層深まった。 
――扉の先にはロングヘアーの茶髪、白いコートにピンク色のスカートを合わせた可憐な少女が黒いチェアに腰を降ろしていた。
歳は10代の半ば程、澄んだ瞳を持っている。

『……あなたは?』

 空は少女に恐る恐る聞いた。

『手紙に書いてあったでしょ?私はあなたを知る者…と』

 と少女は空に冷静に言い放つ。

『私は……誰なの?』

 それから少しの間があった。少女はふうっ、と一息入れると

『……条件がある。あなたはピアニストでしょ?私が満足出来る曲を弾いて』

 少女は指を左に向ける、空は視線をその指先のが向く方向に向けた。
そこには一台のピアノが置いてあり空が練習でいつも使っている物と同じタイプのピアノだった。

『あなたが本当にピアニストだったらそんなの簡単でしょ?』

 空はまさかそんなことになるとは思わなかったので心底驚いたがピアニストとして、空はピアノの前に移動しチェアに座った。
 ――まず空はG線上のアリアを弾いた、古びた工場内に指先の奏でが響き渡る。目を閉じながらもその指先はしっかりとその音を奏でていた、しかし

『G線上のアリア…たしかに音のレベルは高い。でも私、その曲好きじゃないの。次、弾いて?』

 まさかG線上のアリアが駄目だとは予想外だった、そしてその次の曲もその次も。彼女は気に入ることはなかった。
 そして空は最後にもっとも自信のある月光を弾くことにした。
空は月光を奏でた、指先はの力加減が難しい。
しかし空の月光はまるでベートーベン本人が奏でたように美しい音だった。
 凄まじく早く正確な奏でを必要とする月光は全三楽章で十八分程の長さだ。 侵されることない不滅の存在とは、いかにもありきたりのものを作った時、輝きを失われず光るかなのだ。

 ――…しかし。

『……もう一歩ってところね。一週間後にまたここで会いましょう、違う曲でね』

 ……何が悪かった?指先のタッチも完璧だった筈。既に少女の姿はない、空は闇に包まれた工場で唖然としながら立ち尽くしていた。


 ――朝
 空は歎いていた。
彼女の月光の奏でが駄目ならば他に何の音があろう?
考えた結果、ある結論に達した。
バッハは作曲家でありながらピアニストでもあったと言う。
 ……そうだ、自分で曲を作曲しよう。
自分の音を創ろう。
しかし音を創るのはまだしも一週間の期間で一つの曲を創るなど無謀だ。
 ……たしかに曲を創った経験がないわけではない、しかしその時は初めてで一年は費やした。
 でも、迷っている時間はないのだ。
ここで少女を満足できなければ私の本当の姿が永遠に遠退いていってしまう…
 空は直ぐさま作曲に取り掛かった。
ピアノをタッチし音を奏でると曲の序章が頭の中に噴水のように湧き出てくる。
あぁ、楽しい。こんなに作曲が楽しいとは、ピアノを奏でている時と同じぐらい楽しいよ。 ピアノを奏でれば奏でるほど楽譜は出来上がっていく。
 ――しかし。
もうこんな時間になってしまったのかと、空は作曲を止め楽譜をピアノに立て掛けてこの部屋を離れた。


 ――夜空に満天の星空が光る。風呂上がりの空は濡れた髪をタオルで拭きながらピアノがある部屋に向かった。
部屋は殺風景でピアノしか置いてあるものはない。黒いチェアに座り鍵盤に触れ、順に音を奏で順調に楽譜の完成を目指していく。
しかし少し進んだところで急に浮かばなくなった。いくら鍵盤を押しても今朝のような思想が浮かばない、楽しくもなくなった。

(……あれ?なんで?)

 さらに鍵盤を押し続ける、しかしそれでも自分の音が思い浮かばない。
ついには鍵盤を目茶苦茶に奏で始めてしまった。
まるで初めて弾いた人間のような、そんな音が部屋に響き渡る。

『なんで?なんでよっ……!』

 鍵盤を思い切り叩きピアニストが奏でた音とは到底思えない音が空気を震わせる。

『はぁ……はぁ……なんで?どうして?』

 それからも空の脳裏に音が生まれることはなかった。あぁ、明日はコンサートだというのに……


 ――なんとか失敗なくコンサートは終わり帰宅した、だが空は気分が乗らず椅子の上に体育座りで座っていた。

(そういえばこのファンレター、まだ読んでなかったっけ……)

 空はテーブルの上に置いてあった青い手紙を手に取った。

『こんにちは星埜 空さん、あなたの奏でをいつも聞いています。これからも頑張ってください』

 どこにでもある極普通のファンレター、空にとっては当たり前のことだ。でもこの日だけは゛頑張ってください゛の一言が心を貫いた。
やっぱり私にはピアノしかない、と思うことで空は作家しようと希望が沸いた。そして空は再びピアノと向かい合った。


 ……一週間が過ぎ空は小金澤工場跡にいた。
目の前にはあの少女、左にはピアノ。

『今度は何を弾いてくれるのかしら?』

『まだ曲名は決まってないの、自分で作曲した曲だから……』

『へぇ、楽しみだわ。じゃあ弾いて頂こうかしら?』

 空は頷き黒いチェアに腰を降ろし、鍵盤にそっと指を置いた。
時が止まったような感覚だった。静かな音程から始まりだんだんと高い音程に変わってくる。
鎮魂曲ではない、しかし暗闇で寂しくて悲しい旋律が小金澤工場跡を包む。
月光よりも遥かに悲しい旋律を、少女はただただ目を閉じて聴き入っていた。

『終わったわ、どう?』

『えっ、あっ…あぁ!いいわ、話してあげる』

 少女はこの奏でがいつ終わったのか、まったく気付かなかった。それくらい、聴き入っていた。

『……葉淵薫はぶち かおるってピアニストを、知ってる?』

『はっ…葉淵薫って…あの?』

 葉淵 薫は天才と呼ばれ40年前に引退したピアニストのことだ。

『そう……あなたは……あの人の娘』

『え!?娘?私が!?』

『あの人、あなたを産んだ時は貧しくてね、それで仕方なく孤児院に預けたってわけ。私を産んだ時は有名になってたけど。』

 (…私を産んだときは?まさかこの少女は…妹?)

『あなたの思っている通りよ、お姉ちゃん。私は葉淵 日向、そしてあなたは……』

 小金澤工場跡を月が照らしている、今夜は満月だ、そよ風が身を震わせる。

『葉淵 咲夜』

(葉淵 咲夜……それが本当の私の名前…)

『……伝えるべきことは伝えた、もう寒い。私はこれで失礼するわ…』

 空の中のもやもやとした何かが晴れた気がした。
「葉淵 咲夜」
空はしばらく小金澤工場跡で黄昏れていた。



 ――1年後。
 咲夜は夜のテラスでピアノと共に夜空を見上げていた。夜空にちりばめられた星が一つ一つ、無駄なく光り輝いている。

『私……少しは近づけたかな?お母さん……』

 咲夜は黒いチェアに座り鍵盤に指をそっと置いた。そして『あの曲』を奏で始めた。億千の星に感謝を込めて、すべてをさらけ出して。
この曲には『夜空と名のアリア』と名付け、その名を世界へと導いた。

 ……どれくらいの時が流れたのだろう?咲夜の瞳からいつのまにか涙が流れ落ちる。
だだ泣きたかった、頬を濡らしすべてに感謝を捧げ…
月は笑っていた、咲夜を受け入れたように満月で。
 咲夜はしばらく億千の星の下で、涙を流しながらその音を奏でていた……


  ――THE END――


この作品で伝えたいことはただ一つ。『自分に名前があるという幸せ』です。 別に上手く見せようとは思ってませんので













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