おいてけぼりにいた人魚
手に提げたバケツの中を、何度も何度も見下ろしながら、一也は歩いていた。
古ぼけたその金バケツの中には、小さな女の人の頭が一つ、入っていた。
水の上に目をのぞかせて、ぷかり、ぷかり、浮かんでいる。
長い黒髪の先が、水の中でときほぐれて、ゆらり、ゆらり、揺れている。
女の人の頭のうしろには、魚の尾が、ちょろっと水面から突き出して、ぱちゃ、ぱちゃ、とバケツの内側を叩いている。
それは、さっきそこの池で捕まえた、人魚だった。
「早く、早く行こうよ、ねえ」
「う、うん……」
隣を歩く少女に向かって、一也はうなずく。
そして、また、ちらりとバケツを見下ろした。
バケツの中の人魚は、黒い瞳で、じっとこちらを見上げていた。
人魚のおいてけぼり。
そう呼ばれている池のことを、教えてくれたのは、先輩だった。
「これから、あそこの山に、お墓参りに行くんですよ」
山へ向かう途中、たまたま先輩と顔を合わせたので、そのことを告げた。
すると、先輩は言った。
そういえば、あの山には、「人魚が住んでいる」と言い伝えられている池がある、と。
それは小さな池で、本当の名前は「おいずの池」というらしい。
興味がわいて、一也は、池のある場所を先輩に尋ねた。けれど、先輩は「どこかの小路の奥にある」とだけ言って、詳しい場所まで教えてはくれなかった。食い下がって、しつこく聞いても、「さあな」と笑うばかりだった。
先輩が、池のある場所を知らないということは、たぶんないだろう。そういうことには滅法詳しい人なのだ。
でも、教えてもらえないのなら、しかたない。
一也は、山の上のお墓で、祖父母と待ち合わせをしていた。それ以上ぐずぐず立ち話をしていたら、祖父母を待たせてしまう。そう思い、一也はそこで話を切り上げて、先輩と別れ、山へと向かった。
一也は、山の上のお墓を探して、山道を登っていった。
ところが、 慣れない山だったので、道に迷ってしまった。
一也は、しばらく山道を歩き続けた。
そして、気がついたら、轍を重ねてできたような、草だらけの小路に、入り込んでいた。
その道が、先細っているふうではなかったので、もしかしたら、このまま行けば広い道に出られはしないかと、一也は小路を進んでいった。
しかし、たどり着いた先にあったのは、小さな池だった。
池のほとりには、古い立て札が、一つあった。
立て札に書かれた、『おいずの池』いうかすれた文字が、どうにか読み取れた。
池の真ん中には、小さな祠のようなものが建っていた。
その祠へは、どうやら池の岸から橋が架かっていたようであったが、その橋は、今はどうしてか壊れていた。先日の嵐のせいだろうか、とも思ったけれど、池の岸に近づいて、よくよく見ると、橋の残骸の木材には、無数の小さな歯型が付いていた。まるで、何かの獣によって、齧り崩されたかのようだった。
その、壊れた橋のすぐそばに、人魚がいたのである。
人魚は、池の岸に腕を掛けて、その上に頭を乗せて、眠っていた。
顔かたちは人間そっくりで、下半身は、水の中にあって見えなかった。それでも、一也は、それが人間ではないことを疑わなかった。水から出ている、その頭や腕が、人間のそれよりも、ずっと小さかったからだ。人魚というのがそういうものなのか、あるいは、この池の人魚がそうなのかは、一也にはわからなかった。
一也は、足音を立てないようにして、眠っている人魚に忍び寄った。
そして、墓参りのために持ってきた、水を汲むためのバケツを池に入れ、そこにいた人魚を、池の水といっしょに、バケツの中にすくい取った。
そうやって、いともたやすく、一也は人魚を捕まえた。
だが、捕まえてはみたものの、それをいったいどうしたものか、一也は困ってしまった。
一也は、バケツを池のほとりに置いて、その前にしゃがみ込んだ。
その途端、人魚の両目の瞼が、葡萄の皮を割り剥くように、ゆっくりと開いた。
瞼の下から現れた、小さな黒い瞳が、一也を見つめた。
その目元が、笑うように弓を描いた。かと思うと。
――おいていくの? おいていかないの?
一也に向かって、人魚は、そう問いかけた。
それは、なんとも奇妙な調子の声だった。まるで、人間に似た声で鳴くことのできる、何かの動物が、本当は喋ることなんかできないはずの、その鳴き声で、むりやり人間の言葉を話しているような、そんな感じだったのだ。それに加えて、人魚の口は水の中に沈んでいたので、その声は、ぼごぼごと水の泡混じりになって、ひどく聞き取りづらかった。
かろうじて、それを聞き取れたことは、聞き取れた。
しかし、一也は、その問いかけに、すぐには答えられなかった。
昔話の、「おいてけぼり」という怪談が、頭に浮かんだ。
その堀で釣った魚を持って帰ろうとすると、背後から「置いてけ、置いてけ」と恐ろしい声がする。釣り人が魚を手放すまで、その声は、いつまでも止むことがない。確か、そんな話だったろうか。
あの話みたいに、「置いてけ」と言われたのなら、悩まなくてもすむだろうに。
池のほとりで、バケツの中の人魚に目を落としたまま、一也はそんなことを考えていた。
すると、そこへ、一人の少女がやって来た。
「あなた、何してるの? こんなところで」
見知らぬその少女は、いぶかしげな目を向けながら、一也に歩み寄った。
一也のすぐ近くまで来て、少女は、一也の足もとにあるバケツを見下ろした。
バケツの中身を一目見て、少女は息を呑んだ。
そして、その眼差しを動かすことなく、こう言った。
「あなた、オイズサマを見つけたのね」
「オイズサマ……?」
その言葉の響きを聞いて、一也は思わず、池の真ん中に建つ、古ぼけた祠に目をやった。
「この人魚は、オイズサマ、っていうの?」
問い返した一也に、少女は、こくりとうなずいた。
「オイズサマは、昔からこの池に住んでいる、池の主よ。あの祠は、オイズサマを祀っているものなの」
「祀っている……ってことは、オイズサマは、神様なのか」
「そうよ。とっても霊験あらたかな神様なんだから。でも、めったに人前に姿を現さないの。わたしなんか、オイズサマを見つけたくて、昔から毎日のようにここに来てたのに。オイズサマを見たのは、これが初めてだわ」
言いながら、少女はバケツの前にかがみ込んで、しげしげと人魚を眺め回した。
それから、一也は、いくらかその少女と話して、少女のことを聞いた。
少女は、この近くに住んでいる人らしかった。家は、山の中にあるという。ここに来るまでの道中、山の中には、確かに何軒かの人家があったので、あの辺りの人なのだろうか、と一也は思った。
なんでも、少女は子供の頃から、いわゆる民話や伝承といったものを、聞いたり読んだりするのが好きだったのだそうだ。それで、身近にある「おいずの池」の言い伝えにも興味を持って、町の年寄りに話を聞いたり、図書館や郷土資料館で文献を調べたりなどして、この池に祀られている「オイズサマ」について、いろいろと詳しいことを知ったのだという。
それを聞いた一也は、この人魚、オイズサマのことを、少女に尋ねてみることにした。
「オイズサマって、どういう神様なの? 霊験あらたかって、さっき、言ってたけど。何か、願い事を叶えてくれたりするの?」
「ええ、そうね。なんでも、ってわけじゃないけど……」
ただ一つ――と、少女は、人差し指を立てて言った。
「オイズサマを見つけて、池からすくい上げて、それから、オイズサマに ”あること” をすれば、その人間は、オイズサマの恩恵を授かることができるの」
「あること……?」
オイズサマの恩恵。
人魚の恩恵、とは。
池の魚でもいただけるのだろうか。でも、それだと、霊験あらたかと言うほどのことでもないだろうし。
そういえば、人魚の肉は、不老不死の霊薬になる、などという話を、聞いたことがあるけれど。まさか。
一也が眉をひそめると、その考えを察したらしき少女は、ちがうちがう、と、笑いながら首を横に振った。
「別に、オイズサマの肉を食べるわけじゃあないわよ。えっとねえ……」
どこから話そうか、迷うように、少女は少しのあいだ宙を見つめた。
それから、再び一也に視線を戻して、
「このおいずの池にはね、オイズサマが、たくさん住んでいるの」
「た、たくさん?」
うん、そうよ。と、少女は微笑んで、続きを語る。
「オイズサマが、昔からこの池に住んでいるってことは、さっき言ったわね。でも、それよりも昔、オイズさまたちは、みんな海に住んでいたの。オイズサマたちは、生まれ育った海から、この山の中の小さな池に、連れてこられた人魚たちなの。オイズサマたちは、自分の力では、どうしたってこの山を抜け出せない。海へ帰れないのよ。だからね、オイズサマを池からすくい上げて、そうして、海に帰して差し上げれば、オイズサマは、自分を助けてくれたその人間に、恩恵を授けてくださるの。その恩恵を授かった人間は――」
少女は、そこで、舌先を湿らせるかのように、いちど唇を閉じた。
そして、こう結んだ。
「それからのち、一日たりとも歳を取ることはない、という話よ」
少女が話し終わると同時に、ちゃぷん、と、人魚が、バケツの中で水音を立てた。
少女と一也は、人魚を見下ろした。
見下ろしたまま、少女は、一也に尋ねる。
「ねえ。オイズサマを、どうするの?」
「どうする、って……」
少し考えて、一也は、小さく唸った。
「どうしよう。俺、別に、今から歳を取りたくないわけじゃ、ないしなあ……」
そう言うと、少女もうなずいた。
「まあ、そうよね、まだほんの若造だもの。わたしだって、まだ小娘だし。わたしも、今は、オイズサマの恩恵はいらないわ」
「じゃあ、オイズサマを、元通りこの池に放すの?」
「そんな、もったいない。ここでオイズサマを放したら、次はいつオイズサマを見つけられるか、わからないのよ。もう一生、出会えないかもしれないんだから」
「そうはいっても……」
困惑する一也に、少女は、顔を寄せて耳打ちした。
「実はね、オイズサマの『恩恵』は、形のないものじゃなくて、霊薬だって話があるの。もしそれが本当なら、授かった霊薬を、何もあなた自身が使う必要はないのよ。世の中には、今より一日だって歳を取りたくないって人間が、たくさんいるんだもの。そういう人に霊薬を売り付ければ、ものすごい大金が手に入ると思わない?」
少女のその言葉に、一也は、ごくりと唾を飲んだ。
「で、でも、いいのかな。そんなもの、お金に換えちゃって……」
「あら。民話なんかでは、そういうの、けっこうあるのよ? 助けられた恩返しの贈り物を、その人自身が使おうが、売ってお金に換えようが、神様は、そんなこと気にしないわよ」
「そうなのかな。……それじゃあ」
歳を取らない体になったら、これから生きていくうえで、それはそれで、いろいろと困ることもあるだろう。だが、お金なら、いくらあっても困りはしない。
それに、このオイズサマのことを、助けてもあげたかった。
一也はバケツに手を伸ばし、その取っ手を掴んで、持ち上げた。
すると、横から少女が言った。
「ねえ。オイズサマの話を教えてあげたんだから、お金が手に入ったら、わたしにも分け前をちょうだい?」
「ああ、いいよ、もちろん」
「わあ、やったあ。それじゃさっそく、いっしょに山を下りましょ」
そうして、一也と少女は、人魚と共に池をあとにしたのである。
池から続く、苔むした薄暗い小路。
それをいくらか進んだところで、バケツの中の人魚が、また問いかけた。
――おいていくの? おいていかないの?
相変わらず、人魚の口は水の中に沈んでいて、その声はごぼごぼと水の泡混じりで、とても聞き取りづらい。
それでも一也は、その問いかけに、今度はちゃんと答えようとした。
だが、ちょうどそのとき。
二人の前に、人影が現れた。
道端に立つその人影は、一人の若い男だった。
男の身なりは、古めかしい着物姿で、その着物にしても、履物にしても、今のこの時代のものなど、何一つ身に付けてはいないようだった。
そして、男の体は、頭から足の先まで、ぐっしょりと水に濡れていた。
一也と少女は、男の前で足を止める。
すると男は、一也に向って、ゆっくりとその口を開いた。
――おい、て、けよ。
その声は、水に塗れていた。
まるで、男の喉笛の中が、水に浸かっているんじゃないかと思うような、声だった。
水の隙間を縫って噴き出されているかのような、その声は、抑揚がめちゃくちゃに乱されて、聞いた瞬間には何を言われたのか、わからないほどだった。
――お、いて、け、よ。
男は、もう一度繰り返した。
一也は、バケツの取っ手を握る手に力を込める。手の平には、汗が滲んでいた。
足をすくませる一也に、少女は言った。
「こいつは、その昔、オイズサマをあの池に攫ってきた化け物ね。オイズサマを、逃がすまいとしてるんだわ」
なるほど。「置いてけ」と声を掛けるのは、人魚ではなく、この化け物だったのか。こいつがいるから、あの池は「おいてけぼり」と呼ばれているのだ、と、一也は合点する。
「耳を貸すことはないわ。先を急ぎましょう」
「ええ? で、でも……」
「大丈夫よ。こいつはあの池の化け物だから、こうして池から離れてしまえば、もう、わたしたちに何もできないわ」
本当だろうか。
少し不安に思いながらも、一也は、人魚の入ったバケツを持ったまま、思い切って男の横を通り過ぎた。
男は、身じろぎ一つしなかった。ただ、その髪の毛の先や、着物の裾から、ぽたりぽたりと雫を垂らして、そこに立っているだけだった。
一也と少女は、早足で男のもとから離れた。
「ね? 言ったとおりでしょう」
得意げな顔をする少女に、一也はうなずいて、ほっと安堵の息をついた。
それから、またいくらか小路を進んだところで、人魚がまた問いかけた。
――おいていくの? おいていかないの?
今度こそ、一也は、その問いかけに答えようとした。
だが、そのとき、またしても、二人の前に人影が現れた。
今度のそれは、若い女だった。
乱れた長い髪の毛も、あでやかな着物も、やはりぐっしょりと水に濡れている。
――おいて、って、よ。
紅を塗った唇から漏れ出す言葉は、これもやはり、がぼり、ごぼり、と水に塗れている。
――お、いて、って、よ。
一也は、少女を振り向いた。
少女は、ひとかけらの怯えもない目で、一也を見返す。
「大丈夫よ。さっきも見たでしょう? こいつらは、オイズサマを池から連れ出そうとする者に、こうして声を掛けることしかできない。それ以上のことは、何もできないのよ」
そうだ。さっきの男も、そうだった。
一也は、今度もまた思い切って、女の横を通り過ぎた。
女は指一本、眉ひとつ、動かさなかった。
ぽたり、ぽたりと、したたる雫の音を背に、一也と少女は、小路の先へと進んでいった。
この少女が、オイズサマのことや、さっきの化け物たちのことをよく知っていて、本当によかったと、一也は感謝した。少女がいなければ、あの化け物たちの横を通り抜けることなど、きっと怖くてできなかっただろう。
二人ならば、心強い。そう思いながら、歩いていった。
ところが、さらに小路を進むにつれて、少女の顔が、だんだんと曇り始めた。
少女は、しきりに辺りの景色を見回して、不安げな声で言った。
「ねえ。なんだか、おかしいわ。この小路、いつも通るときは、こんなにも長く続かないはずなのに。いつもだったら、これだけ歩けば、もうとっくに山を下りてる頃よ」
「え、それって……」
少女の言葉に、一也は思わず足を止めた。
「あの化け物たちが、俺たちが山から出られないように、邪魔してるってこと?」
「さあ、それはどうかしらね。あいつらに、そんな力があるかどうか……。それよりも、ひょっとして、オイズサマを連れていくために、何かやり残していることがあるのかも」
「やり残してること……?」
一也は、口をつぐみ、首をかしげた。
すると、それを見計らったかのように、また、人魚が問いかけた。
――おいていくの? おいていかないの?
一也と少女は、立ち止まったまま、バケツの中の人魚に目をやった。
少女は、無言でじっと人魚を見つめる。
少ししてから、少女はふと顔を上げ、「思うんだけど」と一也を見た。
「そういえば、オイズサマの問いかけに、あなたは、まだ一度も答えていないわよね。もしかしたら、あなたがこの問いかけに答えない限り、わたしたちは、この道を抜け出せないんじゃないかしら」
「そ、そうか……」
それで、この人魚は、何度も何度も、問いかけていたのか。
だったら、話は簡単だ。
三度の問いに、今度こそは、と、一也は口を開いた。
しかし、その口から言葉を押し出そうとした、まさにそのとき。
――おい、て、いきな、よ。
いつのまにか、一也たちのいるすぐ先に、着物姿の男が立っていた。
汚れたぼろぼろの着物は、やはり水浸しだ。
今度の男は、とても背が高く、まだ若いようではあったが、ひどく痩せて、やつれた顔をしていた。
――お、いて、い、きな、よ。
男は繰り返す。その言葉以外、口にできないかのように。
一也は、着物姿の男と、バケツの中の人魚とを、交互に見やる。
人魚の問いかけに、答えなければならない。けれど、そこにいる男の目の前で、人魚を置いていかないなどと答えたら、男を逆上させはしないだろうか。いくら、池を離れた化け物たちは何もできないといっても、やはり一也は恐ろしかった。
せめて、男の横を通り過ぎて、いくらか離れたところで、人魚の問いに答えよう。
そう思い、一也は、男のいるほうへ向かって歩き出した。
少女も、一也のあとに続く。
男が立っているその場所は、小路がひときわ細く、くびれているところだった。これだけ道が細いと、二人横に並んでは、男のいる場所を通れない。
今までは、少女と一也は横に並んで、「やつら」の横を通り抜けてきた。少女の姿が、すぐ横を向けばそこに見える、というだけで、一也はいくらかの安心を覚えていた。少女はすぐうしろにいると、わかってはいても、一人ずつ「やつ」の横を通り抜けるのは、心細いことだった。
一也は、思わず歩みを鈍らせた。
それから、意を決して、また足を速め、男に近づく。
男の濡れた着物に、体が触れそうになるくらいの、狭い道。
横を通り過ぎるまでの間、男がいつこちらへ、にゅっとその手を伸ばしてきはしないかと、一也は冷や汗をかいて、息を詰めた。
しかし、一也がそれほどまでに近づいても、男は動かなかった。
そして、一也が男の横を通り抜けた、次の瞬間。
ぴちゃっ。
と、背後で、水音が響いた。
小さなその水音に、一也の心臓は、大きく波打った。
一也は弾かれたように、振り返る。
すぐうしろを付いてきていた少女は、ちゃんと、そこにいた。
その髪の毛に、何かぺったりと、水に濡れたものを、貼り付けて。
それはどうやら、水草の葉のようであった。少女の頭上には、ちょうど、水浸しの男の頭がある。水草は、背の高いその男の頭から、少女の上に落ちてきたものらしかった。
濡れた水草の葉先から、一粒の雫が垂れ落ちる。
その雫を、一也は何気なく目で追った。
雫は、バケツの中にいる人魚の頭に、ぴちゃりと落ちた。
はっと、一也は、息を呑んだ。
人魚の髪の毛には、さっきまではなかったはずの水草の葉が、付いていたのだ。
少女の髪に付いているものと、まったく同じ色、同じ形の水草。それが、少女の髪に付いているのと、まったく同じところに、同じ向きで、貼り付いていた。
同じ水草を、同じように貼り付けた、人魚の頭と、少女の頭。
一也は、ゆっくりと顔を上げて、少女を見た。
すると、少女は、にやりと唇を歪ませた。
その唇の隙間から、獣のような鋭い牙が、ずらりと並んでいるのが、のぞき見えた。
――おいていくの? おいていかないの?
人の声に似ているが、人のものではない、奇妙な調子の声。
それが、どこから聞こえてきているのか。目の前に立っている少女からか。それとも、バケツの中にいる人魚からなのか。一也にはもう、わからなかった。
一也は悲鳴を上げて、少女から身を引いた。
「おっ……おいていく! おいていくよっ!」
そう叫んで、一也は、人魚の入ったバケツを、投げるように手放した。
ばっしゃん、がんがらん。
水が撒かれて、バケツが転がる音を背に、自分も転げそうになりながら、一也は逃げ出した。
いつの間にか、小路には、水の匂いが立ち込めていた。
走っても走っても、水の匂いは遠ざからない。
それでも、一也は走った。
うしろを振り返ることなく、走り続けた。
気が付いたとき、一也は、おいずの池のほとりに倒れていた。
そばには、先輩がいた。
先輩は、池の岸辺の、ちょうど壊れた橋の前に立っていた。そこから、池の真ん中にある祠を、眺めているようだった。
一也が体を起こすと、先輩はそれに気づいて、振り向いた。
「おう、起きたか」
「先輩……? なんでここに」
何がなんだかわからず、一也は目をしばたかせた。
そんな一也を見て、先輩は、小さく苦笑を浮かべた。
「おまえと話したあと、おいずの池のことが、ちょっと気になってな。祠からの橋が、また、壊されてやしねえかと」
「また?……壊されて、って?」
「この前、嵐があっただろ。梅雨や嵐で、池の水かさが増したあとは、いつもこうなんだよ」
言いながら、先輩は、池の岸に腰かけた。
そして、壊れた橋の柱につかまって、服のまま、ざぶんと池の中に飛び込んだ。
「先輩? 何やってるんですか、危ないですよ!」
「いや、だって。祠の扉、閉めとかねえと」
言われて、一也は祠に目をやった。
両開きの木の格子扉は、一也がこの池に来たときには、確かにぴっちり閉まっていたはずだった。それが、今は中途半端に半分ほど、開いている。
開いた扉の隙間からは、祠の中が、少し覗き見えていた。祠の中には、何やらごろごろと、たくさんの、同じ大きさの木の塊のようなものが、所狭しと立て並べられている。そのうちの一つ二つ、いや三つは、祠からこぼれ、池に落ちたらしく、水の上に浮かんでいた。
池に入った先輩は、ざぶざぶと水を掻きわけ、池の真ん中まで進んでいった。
やがて祠にたどり着くと、先輩は、壊れた橋に足を掛けて、祠の建つ石積みによじ登った。
祠の扉を閉めて、また、どぶんと水に飛び下りる。
それから、先輩は、池に浮いている三つの木の塊を、すべて拾い集めて、それを腕に抱えて岸に戻ってきた。
そうして池から上がると、先輩は、ずぶ濡れの洋服をしぼることもせず、ぽたぽたと雫を滴らせながら、一也のもとへ歩み寄った。
その腕には、三つの木の塊が、抱きかかえられている。
どうやらそれは、木彫りの人形らしかった。
水に濡れた木彫りの人形を、先輩は、一也の頭の上にかざした。
そのまま、先輩が手を離したので、人形はぼとぼとと、一也の頭の上に落ちてきた。
「な、何するんですか、先輩」
痛みに顔をしかめて、一也は先輩を見上げた。
先輩は一也を睨み下ろす。その瞳には、いくらかの呆れと、どこか咎めるような色が、混じっているように見えた。
「拭いてやれ。おまえのために水浸しになった、オイズサマたちだ」
「……え?」
先輩の言葉に、一也は思わず目を見開く。
「オイズサマ……? この、木彫りの人形が? オイズサマって、この池に住んでる、人魚のことなんじゃあ」
戸惑う一也に、先輩は、目を細め、溜め息でもつきたげな口調で、こう言った。
「オイズサマってのはな、一也……。この池の人魚に出会って、そのあと歳を取らなくなった者たちのことを、そう呼ぶようになったんだ」
「え。そうだったんですか?」
「ああ。昔の人たちは、そのオイズサマの数だけ、こんなふうに人形を彫って、あの祠に祀ったんだよ。この池を訪れる者を守ってくれる、神様としてな」
言いながら、先輩は、その目を祠へと向けた。
それにつられて、一也も、もう一度、池の真ん中の祠を振り向いた。
祠の中いっぱいに並んでいた、木彫りの人形。あれが全部、オイズサマなのか。
でも、だとしたら。
一也は不思議に思って、先輩に尋ねた。
「あんなにたくさんの人たちが、みんな、人魚の力を授かって、歳を取らなくなったっていうんですか? でも、それじゃあ。その人たちは、今、一体どこで、どうしてるんです。その人たちは、本当に、歳を取らなくなったんですか?」
「ああ。それは、まったくもって確かなことさ」
うなずくこともなく、先輩は、そう答えた。
そして、何か、苦いものを呑み込んだあとのような顔で、こう続けた。
「そいつらは、人魚と出会ったあと、一日たりとも歳を取ることはなかったよ。池を訪れた、その次の日の朝には、この池のほとりで、骨だけの姿になっていたからな」
それを聞いて、一也は声を失った。
あの少女の語った、おいずの池のこと。人魚のこと。
あれは、全部が嘘なわけじゃなかった。
けれど、この池の人魚が人間に授けるものは、「恩恵」なんかではなかったのだ。
人魚の問いかけに答えようとするたび、自分の目の前に現れた、水浸しの若者たち。
もし、彼らがいなかったら。
もし、あのまま少女に促されて、人魚の問いかけに答えていたら。
壊れた橋に付いていた、たくさんの小さな歯型。
少女の口の中にあった、ズラリと並んだ鋭い牙。
それらを思い出して、一也は思わず身震いした。
一也は、自分の前に落ちた「オイズサマ」の人形を、一つ、そっと取り上げて、抱きしめるように、両手でぎゅっと自分の肩元に押しつけた。そして、服の袖でオイズサマを包み、その木肌に染みた池の水気を、洋服の布に染み込ませた。
びっしょりと濡れていた木彫りの人形の肌が、水を吸い取られて、いくらか乾く。
そのとき、一也の耳元で、囁くような声がした。
オイズサマの人形から、その声は聞こえた。
小路で聞いたのと、おそらくは、同じ言葉。
けれど、小路で聞いたのとは違って、その声は、もう水に塗れてはいなかった。
はっきりと聞こえた、その声は、一也にこう言った。
――おまえは、老いてけよ。
-終-