掌編――絵
暇だ。
白で統一された画廊の奥で、俺はあくびをこらえ切れなくなって右手で口を覆った。
今朝から客が三人来ただけ。
会社の倒産で職を失った俺に、お袋が紹介してくれたバイトだけど、こんなに客が来ないとは思わなかった。
これでよく店がつぶれないものだ、と最初は思ったが、一週間経った今なら少し分かる。
画廊って言っても、絵を売るだけじゃないんだな。展示スペースを貸したりすることもあるんだそうな。
今やってるのは地元の絵画サークルのサークル展。なんか格好いい名前がついている。
絵は、正直言って分からない。子供の殴り書きみたいな絵が百万で売れたり、綺麗に描かれてる絵が三万だったり。
今やってる展覧会でも、どれが先生の絵とか言われてもその良さが俺には全然分からない。ああ、こういうのがうまい作品なんだな、と逆に感心する程度。
でも、一つだけこっそり気に入っている絵が実はある。
昼間、客がいないのをいいことに、ずっと眺めていたりする。
入り口から四番目に飾ってある、スケッチブックぐらいの小さな絵。
もう一度あくびをして、立ち上がった。座りっぱなしだと本当に寝てしまいそうだ。
入り口のガラス扉に歩み寄る。
道に面したガラスの向こうは光に満ちていた。白く照らされたアスファルト。外を歩くOLたちの半袖の制服がまぶしく見えた。
ふと、一人の女性が気になった。皆暑そうにしている中で、一人だけ茶色のロングフレアスカートとおそろいの長袖の上着を着た、栗毛の女性。
気になって目で追っていると、その女性は交差点を渡ってまっすぐこちらにやってきた。
まさか、と思った俺の目の前で、女性はガラスの扉の取っ手に手をかけた。
「い、いらっしゃいませ」
内側からあわてて扉を開ける。20歳ぐらいだろうか、女性はありがとう、とちいさい声で言うと、軽く頭を下げていった。真っ白な肌に薄く引かれたピンクの口紅が印象的だ。
「山茶花の会の展覧会ってこちらですか?」
女性の手には朱色の案内ハガキが握られていた。
「ええ、そうです。どうぞごゆっくりご覧下さい。すぐに冷たいものをお持ちしますので」
女性を案内して、お茶の準備にかかる。もう、慣れたものだ。
お茶を持っていくと、女性はあの、入り口から四枚目の絵の前で立ち尽くしていた。
「あの、お茶を」
いいかけた俺は、それ以上言えなかった。
震える肩と、嗚咽。
かける言葉も見つからず、女性が落ち着くまで俺は馬鹿みたいに突っ立っていた。
「すみません、取り乱してしまって」
奥のソファに座った女性は、少しきまりが悪そうだった。
「いえ。あの……もし、差し支えなければ教えていただきたいんですが」
あの絵を見て泣いていたわけを。
女性はグラスを手にしたまま、下を向いた。
「あの絵……あれは、お父さんの肖像画なんです」
決してうまいとは言えないのだけれど、嬉しそうに笑った男性の顔。見ているこちらがなんだか幸せな気分になる。
「ああ、そうだったんですか」
「最後に会うことが出来て、ほんとによかったわ」
「今日で展示も終わりですので、搬出の時間には出品された方も来られると思いますよ。十七時ごろにもう一度来ていただければ、ご本人に会えると思うんですが」
しかし、女性は悲しげに首を振った。
「もう時間がないので……あ、伝言をお願いできますか?」
女性はあのハガキを取り出すと、宛名欄の余白になにやら書き込んだ。
「これ、渡してください。それから、ありがとう、と」
「分かりました、確かにお預かりします。あの絵の出品者の方に必ずお伝えします」
「ありがとう、あなた、優しい人ね」
女性の微笑んだ顔は、あの絵の男性に似ている気がした。
十六時で店を閉め、搬出の準備にかかる。絵画グループのメンバーは慣れているのだろう、俺なんかよりずっと手際がいい。
十人ほどのメンバーの中で、あの絵の持ち主はすぐ見つかった。
「お忙しいところすみません、あの、娘さんからこれをお預かりしたんですが」
「娘? 冗談言わんで下さい。うちに娘はおりません」
「え? そんなはずはありません。確かにあの絵を見てお父さんの絵だと言っておられました」
ハガキを差し出す。走り書きの文字を見た絵の持ち主の顔がこわばった。
「これは……去年先に逝った連れ合いの字です」
それだけ言うと、絵の持ち主はハガキを胸に抱いて顔をくしゃくしゃにした。
「この絵は、死んだ連れ合いが書いてくれた唯一の絵なんです」
ひとしきり涙を流した絵の持ち主は、絵を箱から出して眺めながら語ってくれた。
「心臓が悪くてね。昨年冬に入院したまま、出てくることができませんでした。入院する直前に描いた、最後の絵なんです。せめてあいつの代わりに、と思って頼み込んで出品させてもらったんです。見に来るなんて、きっと、心残りだったんでしょうなあ」
俺は、絵を見て泣いていたあの女性の姿を思い返していた。
「そう、かもしれませんね。奥様から、ありがとう、と伝言も頼まれました」
「そうですか……あいつ、喜んでましたか?」
「ええ。最後に会えてよかった、と」
きっと、ご主人に会いたかっただろう。一番心配しているのは、ご主人のことだろうに。
「きっと、ご主人に、あの笑顔を取り戻してほしかったんだと思いますよ」
「そう、だな。いつまでもあいつに心配をかけるわけにはいかないな」
ハガキには、『お酒はほどほどにね。ちゃんとご飯は食べるのよ?野菜も魚も好き嫌いしないように』と書いてあった。
「ありがとう。君のおかげだ。本当にありがとう」
何度も何度も頭を下げながら、絵の持ち主は帰っていった。
がらんどうになった店を見回す。
明日はどんな絵が来るのだろう。
入り口の観葉植物が、さやと笑った気がした。